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例えば、足を一歩踏み出すだけで恐ろしくてたまらないのだと告白したなら、皆どんな顔をするのだろうか。
「……リディア?」
日に日に重みを増す体に嫌気が差して息をついていると掛かる低い声。
振り返らなくてもアルファド様だと分かる。
また聖女様と一緒なのだろう。そう思うと、目を向けることさえ躊躇われた。
全身に走る痛みが、笑みを作ることさえ難しくしている。
これまでの聖女候補もそうだったのだろうか。
これほどの痛みに耐えていたというのだろうか。
祈りを捧げるときに走る激痛が引かない。
痛みは祝詞を口にする間だけだったはずだ。その間さえ耐えれば良かったはずなのに。
「どうした、リディア」
神殿の磨きぬかれた床に、俯いた自分の顔とその横に立つアルファド様の姿が映り込む。
聖女様付きの護衛ではあるが、神殿内は戦地と違って過剰な武装を必要としない。唯一の武器と言えば、腰に差さった愛剣だけだろう。
そのシンプルな立ち姿がいっそう、彼を目立つものにしていた。
神殿騎士とはまた違った、精鋭と名高い近衛騎士の隊服を着ているからこそ神殿内では目を引くのだ。
「リディア」
彼のことを無視することができないこの状況に息が詰まる。
深呼吸するように、は、と息をつけばそれだけで肺が軋んだ。
眉間に皺が寄りそうになって、必死に耐える。
「……聖女様は、ご一緒ではないのですか……」
喋るだけのことが、これほどに体力を使うものだとは思わなかった。
アルファド様に確実に届くよう僅かに声を張れば、腹部の筋肉が震える。それと同時に走る鋭い痛み。
無数の針で刺されているような、もしくは鋭い刃で切りつけられているような感覚だ。
「そんなことはどうでもいいから、こちらを見ろ」
僅かに声を低くしたアルファド様の手が、俯いていた私の顎を指先で捉えた。
するりと撫でられるようにして思わず顔を上げる。
思ったよりもずっと近い位置にあるアルファド様の瞳と視線がぶつかった。
「どうしたんだ一体。真っ青じゃないか……!」
いつになく焦燥を帯びた声が鼓膜を震わせる。
大丈夫です、と、いつの間にか背中に添えられた手から離れようとすれば、
「アルファドさん、アルファドさん……!どこにいるんですか?」
すぐ近くから聖女様の声が聞こえてきた。
「アルファドさんっ」
ちょうど柱の影にいるから、彼女からは見えないのだろう。
離れるまでもなかったかとアルファド様を見れば、鋭さを伴う顔付きでこちらを向いたまま視線だけが動く。
返事をしないのかと首を傾げば、呼吸さえも潜める感じで小さく首を振られた。
「アルファドさん、アルファドさん……!!」
苛立ちすら感じられる聖女様の声が周囲に響く。足音の数からして彼女一人ではないはずだ。
他にも大勢の人間がいるのに、アルファド様が傍にいなければ落ち着きをなくす。
「……行って、下さい、」
囁くように言えば、背中に触れる大きな手に力が入った。
「私は大丈夫ですから、」
かさついた声で述べると、アルファド様は明らかに眉を顰めた。
「大丈夫には見えない」
周囲には聞こえないように。だけど私が聞き逃さないにように唇が触れるほどの距離で言われれば、寸の間、言葉を失ってしまう。
そうこうしている内に聖女様の声は遠ざかっていった。
「リディア、医務室へ行こう」
「いいえ、それには及びません……」
「しかし、」
「部屋に戻って少し休めば大丈夫ですから」
気づかれないようにそっと息を吐き出して前傾になっていた姿勢を整える。
「聖女様の所に行ってください。きっと泣いています」
「……」
「聖女様には…アルファド様しか、いないのですから」
「…君は、」
何かを言いかけたアルファド様が一度だけぎゅっと目を閉じた。
人間らしいその仕草がなぜか胸に迫る。
けれど次の瞬間にはもう、いつもと同じ秀麗な顔がそこにあるだけだった。
「君はそれで良いのか」
そして、常と変わらない声音でそんなことを問われる。
質問の真意を測りかねて黙っていると、重ねて聞かれた。
「君は、本当にそれで良いのか?」
先ほどとは違い、どこか弱々しさを含んだ声。アルファド様が私の指を掴む。
途端に走った鋭い痛みに、ついその手を振り払っていた。
「っ、も、申し訳、ありません」
やってしまった事の重大さに慌てて頭を下げると、「いや、いい」頭上から落ちる冷たい声。
「……分かったから」
「……アルファド様、」
「君の気持ちはちゃんと分かったから」
何を、分かったというのだろうか。
温度の下がったひやりとした声に背筋が震える。
嫌な予感がした。だけど、何に対しての予感なのかが分からない。否定すべきだと思うが、何に対して否定すれば良いのか分からない。
自分でも制御できない感情が、身体の内側に渦巻いていた。
「…だが、元婚約者として君のことが心配なんだ」
それだけは許して欲しい、と何に対する謝罪なのか「すまない」と頭を下げられ、本当に大丈夫なのかと念を押される。
心配してくれているのが分かるのに、うまく反応できない。
彼の「元婚約者」という言葉に戸惑っている。
婚約を解消したのだから、その表現は当然間違ってはいない。だけど―――――。
「ちゃんと医務室に行くんだぞ」と言われ、頷くことしかできなかった。
すると、反応が鈍いことを訝しんだらしく「……やはり、誰か呼ぶか?」と訊かれる。首を振って答え、目線を落としたまま「早く行ってください」と告げた。
彼は何を思ったのか小さく嘆息する。
何もしていないのに、責められているような気がした。
どこか疲れた様子のその息遣いに居た堪れなくなって強く目を閉じれば、「リディア」と、名を呼ばれる。
「……リディア、」
呼ばれた刹那、きん、と走る沈黙の波。
音が、消えた。
確認するために顔を上げると、「―――――」アルファド様は確かに、何か話している様子なのに、声が聞こえない。
その手が一度だけこちらに伸ばされて、思わず身構えると、触れることなく元の位置に戻る。
音の消えた世界で、彼は、私に何か話したようだった。
私に、何か、言葉をくれたはずなのに。
都合良く、この耳はその言葉を拒絶する。聞いてはいけない気がした。
聞いてしまえば、もう、どうにもならなくなる気がしたのだ。
そう思ったら。
世界中の音が遮断されて何も聞こえなくなった。
聞きたかった、彼の声を。でも、聞こえなくて良かった。
アルファド様の存在は、良くも悪くも私の世界を大きく揺るがす。
「―――――」
何事かを問うた様子のその人が首を傾げて私が答えるのを待っている。
何か言わなければと思うのに、聖女様の前でそうなったときとは違って、気の利く言葉も出てこない。
唇が空気を噛んで上下の歯がぶつかる。傍からすれば、怯えているように見えたかもしれない。
そんな私を見ていたアルファド様は小さく息を呑んだように喉元をこくりと嚥下させた。
再び何か告げると、振り切るように顔を背けて、踵を返す。
背中に一本、筋が通っているその後姿は何の迷いもない。―――――離れていく。
あまりにも潔い仕草に、とんでもない過ちを犯した気がした。
「……っ、」
襲ってくる眩暈にとうとう立っていられなくなる。
去っていく背中を目で追いかけるけれど、彼は、振り返らない。
もしかしたら。
もしかしたら、彼と話しをするのはこれが最後かもしれない。
それどころか、その姿を目にすることさえ最後になるかもしれない。そう思ったら唐突に、手を伸ばしたくなった。
ぴくりと動いた指先が大理石の床をすべる。自らを律するために両手を握り締めた。
許されない。
高貴な身分である彼に追いすがるなど、あっていいはずがない。
私はもう、婚約者ではないのだから。
「ああ、なんてことだ。リディア」
ぼんやりと座り込んでいると、背後に回った誰かに抱え上げられた。
音が戻ってきている。
「……こんなに弱っているなんて、なぜ何も言わないんだ」
「しん、官長さま、」
「リディア、このまま眠っていて良いから少し休みなさい」
「……皆、こんな風だったのですか?」
「何?」
「皆、こんな風に、」
苦しみながら死んでいったのですか、その言葉が口にできない。
誰も、何も言わず、教えてくれなかった。
腕や足が痛いとは言っていた。
だけど「音を拾えない」とか「視界が狭い」とか「立つのが辛い」とか「歩くことができない」とか「苦しい」とか、そんなこと一つも言わなかった。
彼女たちは皆、真っ直ぐ立って歩いて。私にいつだって、微笑みを……優しさを与えてくれた。
きっと。
きっと我慢していたのだ。
私が一番、年下だったから。私が一番、幼かったから。
小さな私が怯えるかもしれないと思ったから、口を噤んだのだろう。
彼女たちが、どれほど私を大切にしてくれたのかを知っている。
神殿に入ったときに他の聖女候補は皆こう言った。
『こんな小さな子が、可哀想に』
故郷に残してきたらしい弟妹に思いを馳せて『こんな可愛い子が、可哀想に』と涙ぐんだ。
だから言うのだ。
『可愛いリディア。可哀想なリディア』と。
もう一度あの声を聞きたい。
あれは私を否定する言葉ではない。心底哀れんで、心底愛しげに落とされた言葉だった。
今でも、あの声を求めている。
私を慈しむように囁いた、あの声を。
もう二度とは聞けないだろう、あの声を。
*
*
「リディアさん、申し訳ありません。聖女様はまた街に下りていらっしゃるのです」
最近の聖女様は街で過ごすことが多い。
週に一度は神殿から離れ、泊り込むことこそないけれど日が暮れるまでは帰ってこない。
どうせ神殿に居ても祈ることくらいしかできないと、聖女様は小さく笑った。
祈る以外には何もできない、役立たずだと。
召喚されたそのときから祝詞を知っていて、「ただ祈るだけ」で聖女の力を発動させることができる彼女にはきっと、その祈りの重さは分からないのだろう。
いくら、祈りがこの国を安寧に導くのだと言い聞かせても、彼女にはきっと理解できない。
祈りを必要としない彼女には。
祈りがなくても人は生きていけるのだと断言できる彼女には。
『祈るだけで汚染された土地が浄化されるとか、祈りがこの国を発展に導くとか、正直私にはよく分かりません。祈りは確かに私にとって心地良いものではありますが、それが本当に役にたっているのでしょうか。私は本当にこの国に必要なのでしょうか』
聖女教育の合間にぽつりと落とされた疑問。
『本当は、聖女など存在していなくとも、この国は大丈夫なのでは?』
その問いに返す言葉を私は持たない。
もしも彼女の言う通りであったなら、私がここに存在する意味などないのだから。
良かれと思っている彼女の言葉は、私の心を抉るような力を持っている。
生まれ故郷から無理やりこの世界に連れて来られた彼女だからこそ、聖女を否定しようとするのだろう。
『聖女が居なければ駄目なのだと、思い込んでいるだけなのではありませんか』
もはや疑問ですらなかったその言葉に、私は曖昧に微笑むことしかできない。
この国を浄化して回ったというのに、彼女にはその力の意味は理解できていない。
聖女様はこの国に必要。
どうしようもなく、必要。
祈ることしかできない自分は役立たずだという彼女の理論から言えば、それさえも満足にできない私こそ、存在している価値もない。
だというのに。
聖女様の代わりとしてであれば存在していける。
神官長が、そうだと決めたから。
神殿がそれを望んだから。
私自身が、それで良いと決めたから。




