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「―――――何を、しているのですか?」
沈黙が落ちた礼拝堂に、第三者の不穏な声が響く。
振り返れば、その美しい黒髪が柔らかく風に揺れるのが見えた。
強張っている表情ですらなお愛らしさを失わないのは、彼女が聖女たるゆえんなのかもしれない。
剣呑な眼差しが私の顔を射抜く。
「聖女様、いかがなされましたか?」
アルファド様が何事もなかったかのように立ち上がって聖女様に優しく問うた。
その声にはっと小さく息をのんだ彼女が私から視線を外して、
「……アルファドさんが戻って来ないから、何だか心配になってしまって」
今にも消えそうな声で小さく答える。
異世界人だからなのか、小柄で華奢な聖女様はその愛らしい顔と相まって妖精のようだ。
皆に幸運を運んできて、だけど、目を離せば消えてしまいそうな存在。周りにいる人間は男女関わらず庇護欲を搔き立てられることだろう。
「部屋にお送りいたしましょう」
さりげない仕草で聖女様と私の間に入ったアルファド様が、そっと、この世界で最も稀有な人の手をとる。
その姿に、胸が痛んだりはしない……はずだったけれど。あまりにも神々しい二人の姿が眩しすぎて直視することができない。
私とアルファド様が決して超えられなかった距離を、聖女様はいともあっさりと飛び越える。
身分差や、階級もない世界から来たと言っていた。そんな国は想像することさえできない。
「あのっ」
退出を促すアルファド様の手を握ったまま、聖女様が思い切ったように声を張る。澄んだ眼差しに捉えられて逃げることができなかった。
二人の姿がはっきり見えないように少しだけずらしていた視線を、強引に戻される。
「お二人は、婚約者だったって聞きました」
うわずったような少女の言葉が、礼拝堂の広い天井に反響した。
「……誰に、聞いた?」
問われたのは私だったはずなのに。返事もできなかったのは、アルファド様が先に口を開いたからだ。
いつもと違うその声音に、優しい世界しか知らないはずの聖女様が怯えて、肩を震わせる。
「あ、の、侍女さんたちが話しをしているのを、聞いて」
大きな黒い瞳に涙が浮かんでいるのは気のせいではない。その眼に集まった光がきらきらと弾けて、いっそ魅惑的なほどに美しい。
アルファド様はよほど、私たちが婚約していたことを知られたくなかったのだろう。彼女をじっと見つめる横顔が少し強張っているように思う。
見つめ合う二人と、蚊帳の外にいる私。
「聖女様」
思わず声をかければ、彼らはようやく私の存在を思い出したのか揃ってこちらに顔を向けた。
二人だけの世界に割り込んでしまった己の声が、やけに白々しく響く。
「私が聖女候補だったことはもう、ご存知ですよね?」
「っあ、はい、それはもちろん……この間、聞きました」
私が彼女の指南役に選ばれたのは、聖女候補だったから。
ゆえに、当然聖女様にも私が聖女候補だったことは伝えられているはず。そう踏んだのだが、やはり間違いなかった。
「……私は聖女様をお迎えするまでは確かに聖女候補であり、アルファド様の婚約者だったのですが。それには理由があるのです」
「理由?」
「はい。聖女になる為に必要なものが足りなかったのです」
「必要な、もの……?」
「はい。それは、身分です」
私が聖女になるには、強い後ろ盾が必要だった。
ゆくゆくは聖女となるべく神殿で育てられていたものの、生まれだけは変えられない。
田舎の農村の、食べ物にも事欠く貧しい家の出だ。
聖女というのは、大抵の場合その名を冠するだけで尊ばれるものだけれど、貴族社会では扱いが異なる。己の身分を証明できない以上、後見人がいなければ軽んじられる傾向にあった。聖女は時々、貴族よりも格下の扱いとなるのだ。
なぜなら社交界は、その身に流れる血統だけを重んじるものだから。
「私たちは、政略の元に婚姻関係を結んでいただけに過ぎません」
自分でそう言ったのに。傷を負った気がするのはなぜなのだろう。
彼が私の婚約者となったのは、あくまでも私が聖女候補だったからこそで。要するに、聖女候補に与えられた権利のようなものでしかなかった。聖女候補だったからこそ、彼の婚約者になれたのだ。
もともと私自身に与えられたものではない。
だから。
私が聖女候補でなくなった瞬間。まず一番初めに失ったのは、彼だった。
「そんな、酷い、」
ぽつりと落ちた聖女様の声が耳に響く。
「ええ、そうです。アルファド様には申し訳ないことをしました……」
「あ、いえ、そうではなく……!」
「?」
「政略の為に結婚しなくちゃいけないなんてそんなの酷いと思います。結婚って、想い合っている二人がするものでしょう? その愛を証明する為に、家族になる為に、一生を一緒に過ごす約束をする為のものでしょう? 自分の意思でもないのに無理やり結婚させられるなんて……二人共可哀想です……!」
可哀想、と言われて思わず首を傾ぐ。
私と彼の婚約は確かに政略ではあったけれど、誰かに哀れまれるほどのものだったのだろうか。
―――――いや、違う。
だって私は大勢の女性から羨望の眼差しを向けられ、こう囁かれていた。
アルファド様と結婚できるなんて羨ましい。
私も、聖女候補であれば彼と結婚できたのに。
ふと、視線を感じてそちらを向けば、アルファド様の青みがかった銀色の目があった。
「……、」
その目に見つめられていると、突如として腑に落ちる。私はずっと、思い違いをしていたのだと。
この国では政略結婚なんて珍しくもないから、彼も当たり前に私たちの婚約を受け入れているのだと思っていた。
でも、そうか。
アルファド様にとっては、聖女様の言う通り「可哀そうな婚約」だったかもしれない。聖女様の理想や信念に合わせるならば、そうなる。
私なんかと結婚しなければならなかったのだから。
「……聖女様。もうよろしいでしょう。お疲れのようですし、部屋にお送り致します」
知らずうちにしばらくの間見つめ合っていたガラスのような双眸が逸れる。
その先にあるのは、聖女様のお顔だ。
「あの、でも、」
けれど、まだ何か言い足りない様子の彼女はさらに、こちら側へ踏み込もうとする。僅かばかり慄いていると、アルファド様が優しく引き留めてくれた。
腕の中に納まった少女と、その騎士。
寄り添う格好となった二人を見せ付けられて、私はただ曖昧に微笑むしかない。
「聖女様、私たちは確かに婚約していましたが、それはもう昔の話です」
もう終わったことなんですよ。そう言いながら、心は小さく軋む。
*
聖女候補としての修行が過酷を極めるのは、祈りを捧げるときに肉体に激痛が走るからだ。
最初の数週間で、帰る家がある聖女候補が何人も脱落していくのは、それが大きな原因だった。
祈りを覚え始めた頃は全身を針で刺されたような鈍い痛み。これはまだ序盤で、小さくうめき声を上げる程度だった。やがて、祈りを重ねていくほどに激痛へと変わっていく。
痛みの程度は決して和らぐことはない。年を重ねるごと、扱う力が大きくなれば大きくなるほど増していった。
そして、知る。
修行を積むのは、痛みを抑える為ではなく、痛みに慣れさせる為だと。呼吸さえも難しくなるほどの激しい痛みなのに、苦痛を顔に出すことは許されないから。
耐えることを学ばなければならない。
国民には、絶対に悟られることがないように。
祈りは神聖で尊いもの。優しく労わるものであり、痛みなどあってはならないのだ。
だからこそ、私たちは修行を積む。
それはひたすらに、激痛との闘いだった。
私が他の聖女候補よりもずっと幼い頃に神殿に入ったのは、本当にただの偶然だったけれど。
つまるところ修行の期間が長かったということであり、痛みに耐えなければならない期間が長かったということでもある。
あえて言葉にするなら。あまりに辛く苦しい日々だった。
今では誰にも知られることなく、すまし顔のまま痛みに耐えることができる。
私の祈りはだいぶ様になっていたはずだ。
美しい祈りだと褒めてくれる人もいたほどに。
―――――そして、十八の年に行われる「聖女選定の議」を待っていたのだ。
一年前の話である。
そのとき神官長は言った。
『運が良かった。十八の年まで生きられて、本当に良かった』と。
自分で歳を数えてこなかった私に、神殿が勝手に与えた年齢。本当に十八になったかどうかも分からないのに、選定の日もいつの間にか決まっていた。
『やっと選定が受けられる。良かったね』と満足気に微笑んだ神官長。
嬉しいです、と返したものの。胸の底に沸く感情が喜びなのか分からなかった。何の整理もつかないまま、儀式の準備だけが進められていく。
このまま。ただ流されていれば、私は聖女になる。
覚悟すら、必要なかった。
ところが。
後数週間待てば選定の日、というところで異世界から聖女が召喚された。
我が国で疫病の流行が兆し始めたからだ。
聖女候補の祈りでは足りない。正式な聖女がいる。しかし、選定を待っていては何人死ぬか分からない。
行政の中枢を担う高位貴族たちは焦っていた。成功するかも分からない聖女召喚に期待を寄せるほどに。
失敗する可能性もあったけれど、誰もが、成功することを信じて疑わなかった。
*
「祈りを捧げているときは体が温かくなる感じがしてすごく気持ち良いんです。あ、あれです。お風呂に入っているのに似ているかも」
聖女様はにこにこしながら自分の胸の前で両腕を交差させる。自分自身を抱きしめているようだ。
心地よい、その表現がぴったりくるのだと。
「体の中を風が通り抜けていく感覚もあるんです。とっても不思議な感覚」
聖女様は、召喚されたその数日後に大神殿で祈りを捧げ、まず王都を浄化した。
そして地方の神殿まで赴き、各地を浄化して回ったのだ。その旅にはもちろんアルファド様も護衛として同行していた。
そのときからずっと、聖女様はアルファド様に恋をしているらしい。彼が好きなのだと、無言の眼差しで示すのではなく、今度はきちんと言葉にして教えてくれた。
礼拝堂でアルファド様の婚約者だったのかと詰め寄られた翌日のことだ。
アルファド様への想いを明かすことによって牽制したかったのだろう。
彼に近づくな、と。
そんな必要などないのに。
アルファド様とはあれ以来二人きりになる機会はないし、言葉を交わすこともない。
ただ、時々、視線だけは感じることがある。
ふとした瞬間。ぼんやりしているときにこそ、頬にささる。
何が言いたいのか、何をしたいのか、もしくは何もないのか分からないけれど、纏わり付くような視線であるにも関わらず、そちらを向けば途端に散ってしまう。だから、そのことについて訊いたことはない。
さして意味のないことなのだろうと知っているからだ。
「リディアさん? どうかされましたか?」
聖女様が小さな顔を傾いでこちらを見上げてきた。
幼子のような無垢な眼差し。だけど、一人の男性に恋をしている「女」でもある。
「いいえ、何でもありません聖女様」
恋をして微かな色香を纏った彼女は前よりもいっそう美しい。
「あ、そうだ。今度、街へ降りることになったんです。リディアさんも一緒に行きませんか?」
聖女様が名案だという風に手を打った。
何と言って断ろうかと口を開きかけたそのとき、
「聖女様」
いつも通り彼女の傍に控えるアルファド様が、たしなめるように呼ぶ。
「神殿に仕えるものがここから出るには、神殿の許可が必要です。今から申請しても許可は得られないでしょう」
神殿の仕組みを知らないであろう異世界人に分かりやすく説明するものの、どうやら納得いかないらしい。愛らしい唇を尖らせている。
その仕草に毒気を抜かれるようだ。
「そんなのおかしいです。好きなときに外出もできないなんて」
「……聖女様、しかしそれが神殿というものです」
聖女様の主張はきっと、彼女の住んでいた世界なら至極当然の言い分として受け入れられるのだろう。
けれど、ここでは違う。特に神殿という特別な区域では。
こういうときに、私たちの住む世界がどれほど違うのか思い知らされる。
アルファド様もこれ以上説明したところで理解は得らないと思ったのか、嘆息しただけで口を噤んだ。
「……でも……」
なおも言い募ろうとする聖女様に、
「せっかくのお誘いですが、私には仕事がございますのでお二人はどうぞ楽しんでらしてください」そう伝えれば、言葉を呑み込み、残念そうにこくりと頷く。
自由を制限されているというのには納得いかないようだが、仕事だと言えば仕方ないことだと分かるようだ。明らかに気落ちしているが、落としどころを見つけたようだった。
これも彼女の生まれ育った環境によるものなのか。
一見、我侭だと思える主張をしても道理が通れば理解を示す。
聖女様は悪い人間ではない。
そもそも。
私はこの神殿に入ったその年から外に出たことはなく、たとえ事前に申請していたとしても許可は下りないだろう。
聖女候補とは、そういうものだから。
『対外的には、君は、異世界の聖女様がいなくなったときのためのスペアだよ』
聖女候補から外されたそのとき、神官長はそう言った。
私が神殿に残るためには正当な理由が必要だったから。
地方の神殿はそうではないが、大神殿ともなれば、中に入ることのできる人間は限られる。神官や侍女、女官、従僕でさえ生家は貴族位だ。
身売り同然に大神殿へ入るのは聖女候補くらいで、だからこそ、農村の田舎から出てきた平民に用はないというのが大神殿の見解だった。
神官長が口添えしてくれないければどうなっていたか分からない。
『異世界から召還された聖女様は、その存在自体が不安定ある為、元の世界に還ってしまう可能性もあります。そのときの為にスペアが必要です』と、強く主張してくれたのだ。
すなわち、理由がなければ。
私はここにいることすら許されない人間なのだ。




