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これはきっと、恋じゃない ーある日、異世界の聖女が召喚されて。ー  作者: はなぶさ
番外編 村上 千世理

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1

本当はあの日、マンションのベランダから飛び降りようとしていた。

でも、そうはならなかった。


ごみ屋敷と化した室内を一瞥し、手すりに乗り上げた体を宙に放り出そうとしていたとき、それは起こったのである。

頭の中に、―――――声が響いたのだ。

突然のことに驚きながらも比較的冷静でいられたのは、自身がおかしくなっていることを自覚していたから。

ずっと前から奇妙な感覚があった。ここは私の居場所じゃないと。

ゆえに知らないはずの言語が頭の中を支配して、耳から零れだしそうに充ち満ちてもただ、受け入れた。

不思議だったのは、ぼそぼそと続く知らない言葉なのに意味が分かること。英語に似ている気がしたけれど、全く別の成り立ちからくる言葉にも思えた。

唯一はっきりと分かるのは『呼ばれている』ということだけ。


今更、どこへ行けばいいのか。

どこにも居場所などないと知っている。でも、それならば逆にどこへでも行けるのかもしれない。


手すりからはみ出した右足が迷う。

どうせ死ぬのであれば今じゃなくていいかもしれない。どこかへ行って、そこで命を絶ったとしても後悔はないはずだ。葛藤している間にも、耳の奥で木霊する声はますます大きくなる。


行かなきゃ。


最後にはそんな気すら起きて、

私は異世界へ飛ばされたのだ。


「……へぇ、そうですか」


殿下の護衛はあまり興味なさそうな顔で、それを隠すことなく私の話を聞いている。

いつだって真剣な眼差しで相槌を打ちながら聞いてくれたアルファド様とは全く違う態度。

手の込んだ料理を前にしてみるみるうちに視界が歪んでいく。


「あらあら、ちょっと! ニコル様。女の子泣かせるんじゃないわよ!」


定食屋の夫人がエプロンの裾を引っ張って私の顔を拭ってくれた。

店内は他の客で賑わっており、彼女の大きな声も周囲の喧騒にかき消されてしまう。耳鳴りがするほどにうるさい。このお店は下級騎士がよく利用するらしく、私の知っている騎士たちとは明らかに気質も性質も違っていた。ともかく声が大きく身振り手振りが激しいし、仕草もどこか粗野だ。それでも今日は、殿下の護衛騎士が()()にいるためか、いつもよりは大人しいらしい。


「え、本気ですか? 俺のせい? 何が悪かったんです?」


対面に座っているガタイの良い騎士が、その整った顔にはっきりと焦りの色を浮かべている。


「それよそれ。何にも分かっていないところが悪いのよ」


夫人はやれやれとため息を吐きながら、忙しいのか厨房へと踵を返す。ちょうど昼時だから仕事が立て込んでいるはず。()聖女とはいえ、只人に構っている暇はないのだろう。

以前は何を置いても私の相手をしてくれたのに。

悲しむなんてお門違いだと分かっているのに胸が痛む。

そもそも、表向き異世界へ戻ったことになっている私が、当たり前のようにここへ顔をだしていること自体普通じゃない。第一皇子殿下の許しがなければ外出さえも許されていない身なのだ。


「まぁまぁ、チヨリ様。そんな顔をしてないで、とりあえず食ってください。じゃないと俺が全部食べちゃいますよ」


小さな空の器に、鶏肉を切り分けて置いてくれる。ちゃんと食べてくださいね、と差し出されれば受け取らないわけにはいかない。温野菜らしきものも取り分けてくれた。


「この国の食事には慣れましたか?」と問われて頷けば、顔面いっぱいに大きな笑みを浮かべる。アルファド様と違って、喜怒哀楽がはっきりとしているのでわかりやすい。言葉を濁したり回りくどい言い方もしないので、心情を推し量る必要がなく、楽といえば楽だ。ただ、あまりに率直なので思いやりには欠ける。……気がした。

基本的には優しいので信頼している。だけど、それでも。ここにアルファド様がいればいいと思う。

口数が少なかったけれど、私の話をよく聞き、理解しようとしてくれた。


真摯な眼差しに心を打たれた日が、もはや懐かしい。


「そろそろ俺にも慣れてくださいね。浄化の旅も含めて、ずぅっと一緒にいるっていうのになかなか距離が縮まりませんね」

大きな肉の塊を頬張りながら、ニコルは言う。今度は笑みの一つも浮かべない。

つまり『慣れてほしい』というのはお願いではなく、命令のようなものかもしれなかった。早くこの生活に慣れろ、ということである。


この世界に転移してから、息つく間もなく浄化の旅に出たのだけれど。その前後も含めて、生活の拠点にしていたのは大神殿である。が、聖女の資格を失ってからは当然、そこにはいられなくなった。

追い出されるようにして、第一皇子殿下が用意してくれた市井の屋敷に移ったのだ。それが一か月ほど前。

放り出されてもおかしくない状況だったが、元聖女ということで、幾人かの使用人と護衛がついた。

つい、一人でも暮らしていけると豪語したのははっきり言って強がりに外ならない。実際は一人で買い物することさえ難しかった。

この世界の常識を知らないし、望む前に全てが与えられていた大神殿とは違い、必要なものは望まなければ手に入らない。それにはまず、貨幣価値を理解するところから始めて、一般常識を頭に叩き込む必要があった。何も考えずに、ただ浄化をして回っていた旅とは過酷さが違う。


私は元々、あまり利口ではないが、馬鹿でもない。

学力はあくまでも普通程度。運動能力も普通だ。秀でているわけではないが周囲に劣っているわけでもない。だけれども、この国では違う。

何もかもが劣っている。

聖女だったときには、ただひたすらに崇められ大切にされていたから気づかなかった。でも、今の私は何の地位も持たない只人で、一人では日常生活送ることさえ難しい厄介者。

この国の道理を知らない愚か者でもある。


「一口が大きいですか? もっと小さく切りましょうか?」


ニコルが優しく訊いてきて首を振る。この国の同世代の女性よりもずっと非力なので力仕事は人任せ。よく焼いた鶏肉――――、と思っているが本当は何の肉か分からないそれを、ナイフで切ることさえ相当の気合がいる。それでも、できないことはないからと挑戦してみたこともあるが。力を入れすぎて指が滑り、ナイフを落としてしまった。一連の出来事を見ていた定食屋の主人が、にこやかに新しいナイフを持ってきてくれたものの『せっかく力仕事が得意な騎士さんと一緒なんだから切ってもらいなさい』と言った。重ねて、その方がこちらも安心だ、という言葉に透けて見える本音。手間をかけるなと言われているような気がした。


日に日に、この世界で暮らすことの難しさを思い知らされているのに。

帰るところは、ない。


「あの定食屋はなかなか美味いですよね。チヨリ様がお気に召すのも分かります」


食事を終えて、運動がてら公園を散歩しようということになった。ニコルは近衛騎士の隊服を着ているのでともかく目立つ。しかもどうやら有名人であるらしく、歩いているだけで衆目を集める。必然的に、隣に並んでいる私にも視線が向くのに、元聖女であることは誰にも分からないようだった。頭にレースのあしらわれた大判の布を巻いているので、黒髪が見えないからかもしれない。


浄化の旅から王都に戻ったとき、凱旋パレードを行った。頭上から舞い落ちる花びら。民衆に向かって手を振れば歓声と共に答えてくれる。誰もが口々に『聖女様!』『聖女様!』と讃えてくれた。だというのに、誰も私の顔を覚えていないのだ。

さすれば、私という人間を示すのはこの黒髪だけなのだろう。―――――そんなことをつらつらと話す。

愚痴っぽくなってしまったのは許してほしい。あれだけ大変な旅路だったというのに、私自身に対する評価は『異世界からやってきた聖女』だけなんて。何とも空しい。


「元聖女と言っても若干は聖女の力が残っているのではないかというのが殿下の見解です。祝詞は覚えていますか?」と問われる。頷いて「でも、祝詞はもう口にしてはならないと神官長に言われました」と答えた。

「そうですか。まぁ、あの方ならそういうでしょうね。冷淡に見えて万人に優しい方です。神職に就くだけある」

「……、」


祝詞をもう謳わないと誓わせることが優しさであるなら、祝詞を謳うことは私にとってどんな影響があるのだろう。一体、何をさせようとしているのか。


「あ、花売りがいますね。花を買いましょう」


台車に色とりどりの花を載せた少年が「花はいかがですか」と声をかけながら園内を練り歩いている。

足取り軽く花売りに近づいたニコルに少年はいっそ大仰なほどに驚いていた。体格が良いし、威圧感もあるからだろうか。花束を購入して戻ってきたニコルへ問えば、騎士を相手に商売をすることはあまりないことだろうから緊張していたのだと思う、と説明される。

そうか。『騎士』の中でも、近衛騎士でありすなわちやんごとなき家柄の彼が相手ならあり得る。

この世界では、血筋や家柄、身分が大いにものをいう。

貴族であるニコルと、平民の花売りではそこにはっきりとした身分差が存在するのだ。越えられない壁であり、越えてはならない境界である。


―――――といはいえ、こういった身分についての定義を自分自身が理解したのは、大神殿を出た後だ。


日本という何においても平等に重きを置く国に生まれた私は。

この国に転移してきた頃から、浄化の旅の間も通して、身分などあってないようなものだと思っていた。

元居た世界では、社会的地位が高くても、莫大な資産を築いていても、例え素晴らしい功績を残した人であっても結局は同じ人間で。例え、誰もが欲しがるような価値あるモノがどこかにあったとしても、奪い合うようなことはせず、与えられるまで並んで順番を待つのが美徳だと教えられた。そこに貧富の差はなく、社会的地位も身分も関係ない。

真の平等に価値を置き、思いやりこそがもっとも尊ぶべき感情だと学んできたのだ。


だからこの国の人間もそうすべきだと思っていたし、そう主張した。聖女だった頃のことだ。

あのとき、私の話を聞く皆が奇妙な顔をしていたように思う。その感情を推し量ることができず、なぜ理解してくれないのだろうと憤っていたけれど。

勘違いしていたのは私のほうだ。


その後、聖女の力を失いそれでもしばらく大神殿で生活していた私に、女官が苦い顔をして言った。

ニホンで暮らしていた頃の常識をそのままに市井で生活すれば必ず大事になる、と。事実、その通りだった。


「あの子、いくつに見えますか?」


購入した花束を手渡される。日本では見たことのない花々に魅入っているとニコルにぽつりと訊いた。

十歳くらいに見えると答えれば、もう少し幼いという。

「もう、働いているんですね……」思わず呟けば、そうですねと同意した人が「きれいな手だ」とうっすら笑う。その視線が、花びらを避ける私の手に向いていた。


褒められたと勘違いしそうな場面だ。けれど、そうではないことを知っている。

整った爪の労働を知らない手。日本でもこの国でも力仕事などしたことがない。それどころか、転移後はまるでお姫様のような生活をしていたので、水仕事すらしなかった。今でも、そう。使用人が全てやってくれる。手伝おうとしたら、余計なことはしないでくださいと制された。

そもそも肉料理を切り分けることにすら苦労する自分に、賃金が得られるような力仕事ができるとは思っていない。だからといって、何ができるかといえば。


何もできない。


暇なら刺繍でもどうですかと、布の切れ端と針と糸を与えられたけれど。やり方が分からず戸惑うばかり。

案の定指に針が刺さって流血騒ぎだ。侍女に教えを請おうとして、そこまでしてやりたいものでもないと気づく。

何がしたいのかもわからないし、何ができるのかもわからない。

日本でも特に誰かの役に立っていたわけではないが、ここでも役立たず。


聖女だったときは、違ったのに。

聖女だったときは、ただ祈るだけで満たされたのに。






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