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これはきっと、恋じゃない ーある日、異世界の聖女が召喚されて。ー  作者: はなぶさ
番外編 ローザという人

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42/43

3

母が居なくなって数ヵ月後、村は再び隣国の敵兵に襲われた。

真夜中の敵襲に、村は文字通り恐慌状態に陥る。

一つのベッドに寄り添うように眠っていた私と妹は物音に揺り起こされ、慌てて逃げ出す準備をした。

……と言っても、持ち物を運び出すだけの時間はない。

いつ敵襲があっても逃げられるように寝巻きを着ていたわけではなかったので、身一つでならすぐに家を出ることができる。

だから、寝ぼけ眼で混乱している様子の妹を叱咤して、その小さな手を引いた。


そして、裏口から逃げ出したのだ。


背後に村人の悲鳴を聞きながら、ただひたすらに逃げ惑って。

途中で転んだ妹を背中におぶって、村の裏手に鬱蒼と茂る森の中へ逃げ込んだ。

私の首に縋るように両手を巻きつけた妹は、はっきりとした言葉さえ話せないほどに幼かったけれど、ただ小さく「こあい」と呟いた。

こんな小さな子が、誰に聞いたのか「怖い」という単語を当たり前のように口にする現実に、足が震える。

その声に押されるようにして暗闇の中に飛び込んだ。


この子を守らなければという使命だけが、私を突き動かしていた。

けれど、小さいと思っていた妹の体はやけに重たくて、つま先がもつれて木の根に引っかかる。

たった数歩進んだだけで息が上がり、足が震えるようになった。

数分も走れば、足を持ち上げるのが困難になり、妹を支える腕が痙攣し始める。

そのあまりの頼りなさに、自分はなぜこんなにも小さいのだろうと、悔しさがこみ上げてきた。


母のように、軽々と妹を背負うことができない。

父のような頑強な足を持たないからうまく走ることさえできない。


首の後ろで安堵するように小さく息を吐いた妹に対しても、せめてもう少し小さければよかったのにと理不尽なことを思った。そうすれば、もっと早く走れるのにと。


額から滴る汗が顎を伝って落ちていくから、その水滴が剥きだしの足に触れてびくりと慄く。

緊張しすぎている肉体は筋肉が縮み上がって凝り固まり、痛みさえ訴えてきた。

何度、こういう状況に陥ったとしても決して慣れることなどないのだ。

死ぬことが怖いというよりも、誰かに追われている状況がどうしようもなく恐ろしかった。

何が起こるか分からないという事態は、想像以上に自分自身を追い詰める。

胸の奥には鉛を詰め込んだようで、狭くなった器官はうまく酸素を取り込めず、拍動する心臓は只ひたすらに血液を送り続けていた。

けれど、肉体はちっとも追いついていかない。

ぐらぐらと視界が揺れるのは貧血を起こしているからだろう。

何度も倒れそうになりながら、それでも足を止めることは許されなかった。

いつ追いつかれるか分からなかったから。


走って、走って、息が切れても、足がもつれても走り続ける。


常であれば、森のどこかに身を潜めて敵兵が去った頃に村へと戻るところだが、このまま村を出てしまおうかという考えが過ぎった。

戻っても自分たちを待っている人間はいない。

幼い体ではどこまで行けるかわからないけれど、いっそのこと森を抜けてみようかと思った。

深い森であるから迷い込む可能性もあるし、途中で敵兵に遭遇することもあるかもしれない。


だけど、それでも。

村に戻ったところで、再び襲撃を待つことになるだけだ。

我が国では、故郷を捨てるのは大罪ではあるけれど、この状況ではそんなことも言っていられないだろう。


そうだ。それはいい案だと―――――。


そう思えたのはたった一瞬だった。

村を出たとしてどうやって生活するのかと、もう一人の自分が訴えかけてくる。咎めるようなその声に、頭の芯が冷えた。

村では、残った大人たち全員で私たちの面倒を見てくれていたのだ。

生活費はどうやって稼げばいいのか。住む家はどうやって確保すればいいのか。

私のような子供にまともな職があるとは思えないから、きっと食料さえ手に入れるのは難しいだろう。

しかも、幼い妹を抱えて。

それに、今ここで、村を抜け出すのは裏切りに等しい。


ぐるぐると巡る思考を断絶するように頭を振って、やはり、しばらく身を潜めた後に村へ戻るのが最善だろうと思い直した。

村を出奔することなど考えなかったのだと、全てをなかったことにして、努めて明るく妹を呼んだ。


―――――そのときになってやっと、背中の異変に気付く。


妹の吐息を感じない。

もしかして寝入ってしまったのかと、今度はなるべく優しい声で、その名を呼んだ。

顔を覗き込もうと振り仰げば、ふわふわとした柔らかな髪が頬に当たるだけで上手くいかない。

焦燥に、手の平が湿る。


まさか、まさか、まさか。


全身から血の気が引いた。

ざっと流れていくその音を、確かに聞いた。


「いや、いや、……待って、待って、違う、違う、そんなはず、そんなはずない」


支離滅裂な言葉を吐きながら、暗闇の中に聳え立つ太い木の根元に座り込んだ。

ゆっくりと慎重に妹の体を背中から降ろそうとして、妹が私の上着を掴んでいることに気付く。

ああ、やっぱり気のせいだったのか。

そう思って、ほっと息を吐きながら、妹を宥めるように「大丈夫、大丈夫」と声を掛ける。

怖くないからね、と。

もしかしたらそれは、自分自身に宛てた言葉だったのかもしれない。

だけど、深く寝入っているのか妹の反応はなかった。

こんな状況だというのに仕方の無い子だと、不安を振り切るように笑いながら、羽織っていた上着から自分の腕を引き抜いて妹を背中から降ろす。


そして、妹の小さな小さな背中に矢が突き刺さっていることに気付いた。


「―――――っ!!!」


叫び声を上げようとして、己の両手がそれを制する。

はっと呑んだ息と、行き場をなくした声が、両手の中に消えた。

唇を抑えた指先は大きく震えて、とても正気を保っているとは思えなかったのに、敵兵がどこかに潜んでいるかもしれないと叫び声を飲み込んだのだ。

そんな自分に嫌悪感を抱きながら、だけど、それでも声を上げなかった。

顔の前で両手を強く握り締めて意味もなく立ち上がり、周囲を見回して、もう一度座り込む。

そして妹の顔を覗き込んで、再び立ち上がった。

何の意味もない動作だ。自分でもよく分かっている。

混乱しているし、錯乱しそうだった。口を開けば叫びだしそうだったから奥歯を噛み締める。

口の中に血の味が滲んだのは、気のせいではない。


何をどうすればいいのか分からなかった。助けを呼ぼうにも、村からは随分離れている。

それに、助けを呼ぶ声を聞いて集まってくるのが味方だとは限らない。

敵兵が現れたらどうするのかと、助けを呼んだところで今更どうしようもないと、この事態を冷静に分析しようとする自分も居た。


妹は、ずっと前に、死んでいたのだ。


私の上着を掴んで離さなかったのは、死後硬直が始まっていたからである。

意識があったわけではない。

妹の背に矢が刺さったというのに衝撃を感じなかったのは、よほど遠くから射られたものであり、妹を狙ったわけではなくたまたま当たったからなのだろう。

だから、その薄い体を貫通することもなく、私の背中はかすり傷さえ負っていない。


それは、つまり。

妹を背負っていなければ、私に当たっていたはずのものだったということだ。


咄嗟に思ったのは、私はなぜ妹を胸に抱えなかったのかということだった。

妹が転んだとき、あの子は「だっこ」と言ったのだ。

舌足らずで、話せる単語はそう多くない。それでもあの子ははっきりと願望を口した。

背負われてしまえば、顔が見えない。妹はそのことを知っていて、不安を感じたのだろう。

母親を失ったばかりだったから尚更。


それなのに、私は妹を腕に抱かなかった。


私の小さな両腕であの子を抱えたまま走るのには無理があるから。

いつ、敵兵が襲ってくるか分からないから。急いでいたから。一刻も早く逃げる必要があったから。

だから、妹のお願いに返事をすることさえしなかった。

意地悪をしたわけじゃない。願いを聞き入れなかったのには理由があった。

私からすれば妹を背負うのは当然のことだった。理解できなかったのは、幼い妹だけだろう。

結果的に、私は妹の言葉を無視してしまったのだ。


あれが、妹の最期の願いだったのに。



*

*



―――――天啓を受け、大神殿に引き取られて数ヶ月が経過した頃。


我が国と隣国の講和条約が締結した。

そして、友好の証にと、隣国の少将が大神殿へと招かれたのは講和条約締結の翌月だった。

そういうこともあるだろうと腹をくくっていたつもりだったけれど。

大神殿に現れた人物に、私は一瞬、呼吸を忘れた。

その男に見覚えがあったのだ。

気のせいかもしれないと、何度も瞬きを繰り返してみたけれど、間違いなどではない。

明滅する視界の奥で思い起こされる顔は確かにその男だった。


たった一度見ただけだ。

それもほんの一瞬、目撃しただけで確かなものは何一つなかった。

人間の記憶なんて曖昧なものだと知っている。

だけど、網膜に焼きつくように残された記憶の断片が証言していた。


私の村を襲った人間の一人だと。


それを思い出せば、連鎖するように過去の記憶が甦る。

父の墓標、残された村人たち、自ら命を断った老人、連れ去られる母、死んだ妹。

それをかき消すように頭を振るけれど、何の意味もなかった。

例え、頭部を強く殴打されたところで消えるとは思えない。頭よりも、胸の奥に刻まれてしまった記憶だから。


両手が震えて、足が震えて、全身が、震えた。


復讐心よりもまず、恐怖が先に立つ。

勇気ある者なら、もしくは強者なら、掴みかかることができたのだろうか。

もしくは、声を上げて恨み辛みを言葉にすることができたのだろうか。

唇は震えた。

何かを形にしようと声が漏れそうになって、だけど一つの音も発することができなかった。

私は、ただの人間であり、ただの子供であったから。

そして、少将とその部下の為に祈りを捧げるように言われた聖女候補生の一人でもあった。

本来なら、我が国の為だけに捧げられる祈りであるけれど、今回は特別だと枢機卿が述べている。

「特別に、聖女候補生たちが少将のために祈りを捧げましょう」と、微笑を浮かべて言っている。

それを、大聖堂の片隅で聞いていた。


清廉潔白の象徴であり、慈愛と慈悲と寛容の代名詞である「聖女」

国の安寧を願い、平和を願い、人々の幸福を願う、その為だけに存在する者。

私は、そんな「聖女」となるべく集められた聖女候補生の一人だった。

だから、これは課題なのだと言い聞かせる。

どんな人間にも平等に、祈りを捧げなければいけないのだと。


だけど、だけど―――――。


妹が死んだ、あの日。

私は、自分の上着で妹の小さな体を包み込んだ。

妹の小さな指が、私の上着を掴んで離さなかったから。

ぎゅっと丸まった小さな手が、私に助けを求めていたことを証明するようだった。

きっと苦しくてどうしようもなかったはずだ。唇の端に血がついていた。拭おうとしたけれど、乾いていて取れない。触れた皮膚の感触が、寒空の下にさらされていた陶器みたいに冷たかった。

そうして、妹が本当に死んでいるのだと理解したのだ。

温度を失ったに肉体そのものが、その証拠だったのかもしれない。


妹が握りこんでいた自分の上着を脱いで、それをおくるみ代わりにして厳重に包み込んだ。

「寒くない、寒くないよ」誰に言うでもなく、呟く。妹にはもう聞こえない。

私の上着で吹きすさぶ風から守れるだろうか。妹を包み込んだ上着ごと再び背中におぶって、余った袖の部分を体の前に縛りつける。


もう、村には戻れない。


なぜ、妹が死んでしまったのかを、説明しなければならなくなる。

そんなことはできないと思った。

己の罪を隠蔽したかったわけではない。

ただ、妹が死んだことを、誰にも知られたくなかった。

誰にも知られなければ、妹は生きているのと同じだと思ったから。


一体、どれほど歩いたのか覚えていない。

いくつか山を越えた気がするし、実際は一つしか越えていないような気もする。

深夜を越えて朝になり、再び夜になって、そして明け方を迎えた。たしか、そうだった。

いつしか足の裏が傷んでつま先には血が滲み、膝をがくがくと震えて前に進まなくなってしまった。

上がった息はなかなか元の調子を取り戻すことができない。

妹の体はなぜか、時間を追うごとに重くなった。

魂が天に召されたのであれば、その分だけ軽くなるはずなのに、なぜか一歩足を踏み出すごとに重みを増していく。これ以上はもう、どこにも行きたくないとでも言うように。


妹の体をどこかに埋めてあげなければと思ったのは、そのときだった。


疲弊した肉体では、妹の小さな体を埋める穴を掘るのでさえ苦労した。

よくは覚えていないが何時間もかかったはずだ。

指が上手く動かなかったし道具もなかった。

素手と辺りに落ちていた棒切れで土を掻いたのだ。

そうしてやっと、小さな小さな女の子を一人だけ埋める穴を掘って、そこにあの子を置いた。

もう既に陽が登り始めていたけれど、曇り空が日差しを遮断してやけに寒かったのを覚えている。

元々、貧困に喘ぐ村から出てきたわけだから当然衣服も安物だ。

ぶるぶる震えながら妹の体の半分ほどに土を被せて、両手を合わせる。


「……ねぇねも後から行くからね。すぐに、行くからね」

祈りの言葉など知らない。どうか安らかにお眠りくださいと、それだけを口にした。

するとそのとき、突然、突風が襲った。

冷たい風が皮膚を切り裂くようで、あまりの寒さに全身ががたがたと震えた。


寒かった。とにかく、酷く、寒かった。

何でもいいから暖をとりたかった。


そのとき私は何をしたかというと。妹に被せた土を、再び掘り起こして。

―――――妹が掴んでいた自分の上着を取り上げたのだ。

けれど、その為には、布地を握りこんていた妹の指を開く必要があった。

すでに、硬直してしまっていた小さな指を開くのに相当の力を込めたのを覚えている。


嫌な、感触がした。


でも、どうしてもあの上着が必要だったのだ。

寒くて寒くてどうしようもなくて、このままだと死んでしまうと思った。

いっそのことそうなってしまえば良いと思っていたのに。


私は生きることを選んで―――――、妹の指を折った。


妹が、私の上着をそれほど強く握りこんでいたことに胸が痛んで、苦しくて嗚咽が漏れた。

きっと痛くて苦しくてどうしようもなかったのだろう。

あまりの激痛に声さえ発することができなかったのかもしれない。

だから、ただ掴んだのだ。

自分を背負う、姉の上着を。


そして、死んでさえ尚、離さなかった。


そんな風に想像して、妹のことを想うのに。それでも、私は止めなかった。

妹の小さな一つ指を広げる度に嫌な感触がしたけれど、私は、止めなかったのだ。

自分が何をしているのかはっきりと理解して、その行動の意味も分かっていながら自分を守ることを選んだ。


すぐにそちらへ行くといいながら、寒いと全身を震わせて。このままじゃ死んでしまうと、妹から上着を取り返す。


泣いて謝りながら妹の指に絡んだ布地を引き抜いた。

許されないと知りながら。


天啓を受けたのは、その日のことだ。

取り戻した上着を纏い、彷徨い歩き、とある市場に辿り着いた。

その先で、私は神の声を聞いたのだ。


全てを失い、何もかもを奪われて、そして、聖女候補生という役目を与えられた。


そんな私が、誰かに慈悲を与えられるはずもない。

愛は燃え尽きた。きっと、そうなのだ。






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