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『ねぇ、リディア。腕が痛いの。私の腕、何かおかしくない?』
雪の降り積もる、寒い日。私たち聖女候補は一部屋に集められ、神官長の説法を聞いていた。
確かそれは、神殿に集められて数年が経過した頃だったと思う。
初めは十数人居た聖女候補だったけれど、厳しい修行に耐え抜くことができたのはたった数人だけだった。帰れる場所がある者は、神殿に入るときに受け取った額の倍以上を違約金として支払って出て行ったのだ。
残っていたのは恐らく、戻る場所のない者だけだったのだと、今なら分かる。
腕が痛いと言い出したのは、私と同じ時期に神殿へ入ったキリエという少女だった。
年は恐らく、私よりもいくつか上だ。だから、神殿に入った頃は私と同じく幼かったはず。けれど、いつの間にか幼児から少女へと変貌を遂げていた。
外の世界に居れば少女の盛りといったところで、もしも街娘だったなら同年代の少年少女と青春を謳歌していただろうと思う。
そばかすの浮いた素朴な顔立ちが愛らしく、にこにこと笑みを浮かべるその姿は人目を引いた。
そんなキリエが盛大に顔をしかめつつ、手の平まで隠れるほど長い袖をまくって、腕が痛いと言った。
それも、一度や二度ではない。
口癖のように何度も繰り返し、そう言っていた。促されるようにその腕を覗いてみれば、手首から肘にかけて、黒い歪な線が一本走っている。
不思議に思って指を這わせてみるが、何の感触もない。傷跡でもないし、今しがた切りつけられたような感じでもない。しいて言うなら、ガラスにヒビが入った様子によく似ていた。
『これ、何?どこかで怪我したの?』
問うてみても、キリエは首を傾ぐだけだ。
彼女にはどうやら、その黒い線は見えていないようだった。
神官長に相談してみるべきだと思ったが、何と説明していいか分からず、他の聖女候補にも確認してもらったのだが、その黒い線は私にしか見えないようだった。
キリエの腕に何か付いてはいまいかと問いかけた私に、全員が首を傾げたのだ。
だけど、例えば、聖女候補以外にそんなものが見えると主張したところで、気がふれたと思われはしないか。もしそうなってしまった場合、故郷に返されるのではないか。思い過ごしかもしれないが、そんな懸念が過ぎった。
村には違約金を払う余裕などない。
神殿を追い出されることになったとして、違約金が払えなければ、私はどうなるのか。
考えは、悪いほうへ悪いほうへと動いてしまい、結局、何も言うことができなかった。
『リディア、私の腕、どうにかなってるの?』と戸惑うように聞いてきたキリエ本人にさえ、気のせいだったみたいだと誤魔化すことしかできなかった。
キリエは、只の筋肉疲労か何かかと思っていたようで、神殿の医務室へ何度も足を運んでいた。それによって与えられた痛み止めを飲んだりしていたようだけれど成果は出なかったようだ。
神官長にも腕が痛むことは報告していたらしいが、見た目には何も無く健康そのもので、神殿医師にもさらりと流されてしまう。
だから。
腕が痛いというただそれだけのことが、それほどに重大なこととは思っていなかった。私を含めて、誰一人として気づいていなかったのだ。
そんな風にして一冬を越えた頃、キリエは何の前兆もなく突然「壊れた」
精神の崩壊など、比喩的な表現をしているのではない。
文字通り、バキン、と音をたてて私の目の前で壊れて崩れた。
『きゃあぁぁあああぁあ―――――!』
叫んだ自分の声までもはっきりと覚えている。ばらばらと、彼女の欠片が落ちていく。それをしっかりと視界に納めながら声を上げ続けた。
周囲の人間は、倒れこんだ彼女よりも、唐突に叫びだした私の方を見ていたと思う。
まさしく、気でもふれたかのような叫び方だった。
駆けつけた神官長によって正気に戻されるまでずっと叫び続けていたようだ。
そして、私は知る。
キリエが「壊れた」ということを認識できたのは私だけだと。他の人間には、キリエはただ倒れ伏したようにしか見えなかったらしい。
実際、卒倒した彼女にはひび割れや破損もなく、ただただ綺麗な顔で眠っているようだった。
『可哀想にね、キリエはもう駄目だ』
神官長が私に視線を向ける。
『ねぇリディア。君は、一体、何を見たんだい?』
**
なぜ、私にだけアレが見えるのか分からない。
だけど、一つだけはっきりしているのは、ヒビ割れは聖女候補のみに発生するということだ。
キリエが倒れて、神官長に問い詰められた私は、とうとう正直にヒビのことを話すことになった。
神官長は、特に異論を唱えることもなく黙って聞いていた。そして、全てを聞き終わった後、歴代の聖女候補の中でもそんなものが見えた者はいないと告げたのである。
彼は、微塵も私の言葉を疑わなかった。
更に、何か呪いの類なのかもしれないと様々な文献をあさってくれたようだ。
けれども、それらしい記述は見つからず、芳しい成果は得られなかったと教えてくれた。
そうして幾日か過ぎた頃。
二人きりのときにこんな話を始める。
「聖女候補が倒れること自体は珍しくないんだよ。ただ単に疲労だと考えていたけれど、君の言っていることが本当だとしたら、これはもしかしたら代償なのかもしれないね」
「代償?」
「そう、聖女の力を扱えるようになることへの代償さ。キリエは、今回の聖女候補の中でも比較的、聖女の力への適応力が高かった。そういう候補生はね、疲労で倒れたり、突然死することが多かった」
突然もたらされた聖女候補の真実に、肩が小さく震える。
それはつまり、死の宣告をされたも同然ではないのか。
私たちは、ゆくゆくは聖女となる為に集められた。それはつまり、聖女の力を扱う為の素養があるということだ。実際、集められた聖女候補の全員が、大なり小なり、その力を発現させている。
「そんな顔をしないでも大丈夫だよ、リディア。聖女になって、きちんと力を扱えるようになった人間の中で突然死したものはいないから」
聖女になるということはきっと、神がお認めくださったということなんだろうね。
神官長は、私の手を握ってそう言った。もしも聖女になることができなかったらとか、聖女候補である内に死ぬかもしれないことだとか、そういったことについてはもう触れることはなく。
だけど、その真摯な眼差しは物も言わずに語りかけてくる。聖女になる以外に選択肢はないのだと。
―――――あれから十年近くが経過しているが、その間に、ただの一度もこの話が出たことはない。
ただ、修行に励めと、聖女になれと、それだけを言われ続けて今に至る。
「だけど私は、なれなかった……」
聖女にはなれなかったのだ。
ふと、手の平を見れば、三本のヒビ。少しずつ、広がっている。
私も、あんな風に、キリエみたいにひび割れて死ぬのだろうか。
「リディア」
独り残された礼拝堂で祈ることもせずにステンドグラスを見上げていると、背後からそっと掛けられる心地良い声。
かつてはいつもこの声を近くに聞いていた。
「……アルファド様」
最近は、聖女様と二人で一つとされる彼が一人きりで居る姿には何だか違和感が伴う。
元婚約者がそんなことを思うほどなのだから、よっぽどだ。それほどに彼らは一緒に居る。
アルファド様が私の座っている会衆席に何の躊躇いもなく腰掛けた。
思ったよりも距離が近くて思わず体を横にずらす。
私たちは昔、婚約者という同等の立場であったから互いに許しを得ることもなく傍にいることができた。もちろん、隣に座っても良いかどうかを訊く必要はない。
けれど、聖女候補から外れた今の私は、彼の隣に並ぶ資格を持っていなかった。
元々、何の地位も持っていない。ここから遠く離れた極貧の村から出稼ぎに来た程度の存在だ。
女官は、私に、悔しくは無いのかと聞いた。
まるで報復するのが当たり前で、現状を受け入れていることが不思議でたまらないというように私の動向を探っていた。聞けば、彼女も貴族の出だという。
きっと分からないのだろうとは思う。
聖女候補を外されるというのがどういうことなのか。
例え自分の都合で聖女候補を外れるのではないとしても、場合によっては違約金を請求されることもある。
お金を用意できればそれで良い。だけど、払えなければその金額がそのまま故郷の借金となる。
理不尽なことだとは思うが、神殿には神殿の言い分がある。
私の場合、居場所などあるはずのない故郷に戻されることだって有り得た。
それを神官長が留め置いて下さったのだ。違約金を払わなくて済むように神殿側と話をつけてくれた。
それがどれほどに有り難いことなのか。
女官という、市井の女性が羨む地位にいる彼女には分からないのだろう。
そもそも女官にとって神殿に仕えることは、礼儀作法を習うためでしかない。恐らくそれを、苦行か何かかと思っているはず。
お金に困ったことなどないだろう彼女には、私の置かれている状況など決して理解できないだろう。
そして、彼も。
アルファド様だってそうだ。
ひたすらに光の下を歩いてきた彼には、私の気持ちなど、永遠に分からない。
生まれたときから光などない場所を転がるようにして生きてきた私の気持ちなど。
「聖女様が召喚されてから碌に話しもしていないな」
アルファド様が少し疲れたようにして言った。
「話すことなど、ありませんから」
強い拒絶を示したつもりだったのに、思惑通りにはいかない。
自分の声がやけに弱々しく聞こえる。こくりと飲んだ息が、広い聖堂に響いた気がした。頬に強い視線を感じるものの、その顔を見つめ返すこともできない。
黙り込んでいると、ややあって、「もう笑わないのか、」とアルファド様が呟く。
一瞬、空耳かと思った。それと共に蘇る、『君も、笑うんだな』と言われたあの日の光景。
思えばその日は、私の人生で最も幸福な日だったかもしれない。
後はただ、落ちていくばっかりだった。
そして今、あの日と似たようなセリフを言われたにも関わらず、確実に違う意味を持つその言葉に、胸が痛む。
「婚約する前から君の姿を神殿で見かけていた」
ふと落とされた言葉は何かを懐かしむようで、それでいて愁然としていた。
彼が仕える第一皇子殿下は信心深い方で、月に一度は必ず神殿で拝礼される。殿下の護衛に付いていた彼ももちろん一緒だった。
そのときに私を見かけたのだろう。
彼らが礼拝に訪れるその日は、一日中神殿内が落ち着きをなくす。
この国で最も高貴だとされる方がお見えになるので無理もないことなのだが、ただ単に緊張感で張りつめるのとは少し違っていた。
神殿の侍女や女官は、少しでも彼らの目に留まろうとして用もないのに神殿内をうろつく。そして暇ができれば、興奮した様子で彼らへの賛辞ばかりを口にした。
だから嫌でも殿下やアルファド様のことは耳に入ってくる。
素晴らしい方たちだと。
強く、優しく、慈悲深く。
「今代最後の聖女候補は慈悲深く愛に溢れていると聞いていたから、神殿の壁画のような人だろうと思い描いていた」
彼らに抱いていたのと同じ印象を持たれていたのだと知って、顔を上げる。
アルファド様は僅かに双眸を細めて、聖堂の前方を見つめていた。
そこには、神殿の壁に描かれているのとは少し違った初代聖女の肖像が飾られている。
初代聖女は、言い表すことが難しいほどに美しい方だったのだと。その肖像が語っていた。
微笑を浮かべてこの世を儚み、慈悲を与える。その姿に誰もが心を奪われる。
「だけど、君は違ったな」
思い描いていた姿と違ったと、こちらに視線を戻した。
その眼差しに、心臓が小さく音をたてる。少なからず動揺している自分がいた。
しかし、アルファド様は当然、そんなことには気づかない。あくまでも穏やかな声音で語る。
「初めは、人形みたいだと思った。
確かに微笑みを浮かべているのに、その目はどこか遠くを見つめている。
笑っているのに、笑っていない」
だから、婚約者に決まったその日、君が微笑むのを見て驚いた。君も、笑えるのだと。
アルファド様はそう言って、私の赤い髪を指でさらった。
これほどに近い距離で話したことはそうないかもしれない。
聖女候補であった私にはほとんど自由な時間がなく、また、常に護衛が張り付いていた為、二人きりになること自体が稀だった。
元々、口数の少ない二人であるし、心を通わせる努力をしなければならなかったと思う。
きっと、共に過ごす時間が少なすぎた。
「……だが。あれ以来、君の笑顔を見ることができない。君はいつも怯えている。怯えて、苦しそうで、辛そうで、見ていられない」
はらりと落ちた髪が揺らめく。赤みを帯びてはいるが、特別目立つ色でもない。
瞬きをすれば、瞼の裏に落ちた影の中に聖女様の黒い髪が蘇る。
この国に召喚されたそのときから、聖女であることが定められていた黒髪の少女。
当然のことではあるが、彼女は初め、聖女候補と呼ばれる人間が居ることさえ知らなかった。
「……リディア?」
そうだ、アルファド様の言う通りだ。
私は怯えていた。いや、今でも怯えている。
崩壊したのはキリエだけではない。崩れていく仲間を何人も見送った。
次は自分かもしれないという恐怖に怯えながら、それでも祈りを捧げなければならなかった。
私は聖女候補であるから、聖女になる為に、それは必要なことだったのだ。
だけど、ある日唐突に気づく。
―――――祈りが、崩壊を早めている。
「一体、何が恐ろしいんだ?」
「……」
「俺には言えないことなのか?」
アルファド様の小さな傷とまめだらけの手が私の手に重ねられる。こんな風に触れられたのは初めてだ。
婚約者であったときは、お互いに、不自然なほどに距離を保ったまま接していた。
私たちは決して想い合って結ばれるわけではないと、理解していたから。
そこに心は不要なのだと知っていた。
聖女になるはずだった私を、この国と神殿、王家に縛り付ける枷となるべく彼が選ばれただけだ。
私にも、彼にも、意義を唱えることなど許されなかった。だからいつだって理性が働いていた。
だけど、それでも私は、夢心地だった。




