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「聖女の力というのはね、未知の力なんだよ」
「未知の、力」
「つまり、何ができるのか未だに解明されていないということなんだ」
かつて、聖女候補全員で祈りを捧げたその部屋に二つだけ椅子を並べて神官長と向かい合った。
二人の間を隔てるものは何もない。
祈りを捧げるという目的だけで開放されているこの部屋には、膝を付いても足が痛くならないように分厚い絨毯が敷かれているだけで棚一つ置かれていないのだ。
「……でも、聖女の力は、国の安寧や繁栄を願ったり浄化すること以外には行使することができないはずでは……?」
私が問えば、神官長はずっと昔から変わらないその若い顔に苦笑を滲ませた。
「殿下の毒を、あの方の体内から滅却させたんだから、その限りではないことを知っているはずだよ」
「……」
「ただ、あれはもう絶対にやってはいけない」
いいね、と言い含めるように言われて、思わずこくりと頷く。
「殿下は恐らく、あの段階で死に掛けていた。それを強引に引き戻してしまったんだ」
それはつまり、医師が診察して診療するのとはどこが違うのだろうか。思わず首をひねれば、
「医師の行いや投薬は、人間の命を救うというよりは回復力や治癒力を高めることに重きを置いている。瀕死の人間を救ったときには神の所業だといわれるけれど、実際のところ、神が手を出しているわけではない。人間が人間のためにする行為なんだ。だけど、今回君がやったのは第一皇子殿下のための神の力を利用したということだ」
神の元へ向かおうとしている魂を、神の力を借りながら奪い去った。
「祈りは、神の力を借りる為に捧げるのだと知っているよね。だからこそ、その力で神の領域を犯してはならないんだ。絶対に」
慈愛に満ちた表情だというのに、私を責めるその目は、脅すような鋭さを持っていた。
それほどに、真剣なのだ。
「聖女の力に誓約が課されるのは、その為なんだよ」
私がこうなったのは、誓約を破ったからなのだろうか。
つまり、神の怒りを買ったということだ。
いつの間にか震えていた指を握り締めるように拳を作れば、ぼやけた視界に神官長の手が差し出される。ふわりと包みこまれるように握られて、思わず縋りついた。
そして、唐突に思う。
―――――この手じゃない。
「……なんで、」
呟いた声は自分でも聞き取れないほどに小さかった。
けれど、神官長は予想していたことなのか、立ち上がった私を見上げて苦笑した。
「やっと気づいたね」
「……どうして、」
「このまま気づかなかったらどうしようかと思っていたけれど。君が気づいて良かった。これで彼も救われるね……」
ほっと息を吐いた神官長が再び私の手を握る。細くて長い指は女性的ではあるが節くれだっているし厚みもある。男性のものでしかないとよく分かる。
「私の手を握ってくれたのは……神官長でしょう……?」
そうであってほしいし、そうであってほしくない。
相反した二つの感情が胸の奥でせめぎ合う。懇願するような声が出てしまい、少なからず動揺しているのが分かる。それを誤魔化すこともできずにただ神官長の顔を見据えた。
緩く首を振ったその人は「私から伝えるのでは意味がない気がするけど、」と言葉を濁す。
望んでいた答えを得られなかったことで絶句するしかなかった私の顔を神官長は、どこか面白そうに見つめた。
「君が、あの子達以外にそれほど心を砕く日がくるなんて思いもしなかったよ」と呟く。
ぽかりと空いた穴のように二人の間に沈黙が走って、やがて大きく息を吐いた神官長はやれやれと首を振った。
「……陛下の勅命を、果たさなかったのだからね。今は謹慎中だよ」
激しく脈打つ心臓を押さえながら「どこに、」と問えば、それさえも予見していたのか、「特別措置で、君の部屋の隣にね」と笑う。
気付かなかっただろう? と。
殿下の口添えがあったからこその措置なのだと心底、愉快げに言った。
「なぜ、教えてくださらなかったのですか……?」
声が震えたのは、神官長を責めようとしたからではない。
ただ、胸の奥が締め付けられるような感覚に耐え切らなかっただけだ。
「教えたら、会わずにはいられないだろう? 会ってしまえば、それは、騎士殿にとってはご褒美になってしまうからね」
「……今は、会えないのですか?」
「そうだね」
「……っ」
ふわりと笑んだ神官長が嫌がらせをしているわけではないと分かっている。
詳しい内容はもちろん秘匿されているが、アルファド様が陛下の勅命により外地に行っていたはずなのだ。それが今、謹慎などという運びになっているのは、恐らくそれを途中で放棄したからである。
一介の騎士がやっていいことではない。
本来なら、極刑に処されてもおかしくないほどのこと―――――。
それがなぜこんなことになっているのかと言えば、間違いなく私のためだ。きっと勘違いでも思い上がりでもない。なぜか、そういう確信があった。
殿下から、早馬が飛んで来たから。
己の妻が、危険が状態だと知ってしまったから。
彼は戻ってきてしまったのだろう。
目が覚めてから、色も音も何もない世界で過ごしていた私を支えてくれたのは神官長だと思っていた。
喉が裂けるほどの大声を上げているのにその声が聞こえず、目を開いているはずなのにほとんど見えず、一日に何度も叫び、一日に何度も自分の目を抉り出そうとした。
耳が音を拾うまでの一週間、ずっとそうだった。
本当に見えていないのか、これは本当に現実なのか。
どうしても確認したかったのだ。
たった七日。
だけど、いつ回復するかも分からない状況では、永遠にも思えるほどの長い時間だった。怖かった。恐ろしさに全身が震えて、ただ立っていることさえできないほどに。
けれど、その度に抱きとめて、背中をさすって、手を握ってくれる人がいた。
混濁した意識の中では、それが誰かなんて確かめようがない。まして、目が見えないのであれば。
だというのに。
時々、確かめるように私の頬を包み込んできたその手を、覚えている。言い聞かせるように私の顔を両手で包み込み、そして、そっと抱きしめてくれた。
癇癪を起こした子供にする仕草に似ていたから、私はそれを、今の今まで神官長の手だと思い込んでいた。
思えば、その手の平の感触は、神官長のものとは全く異なっている。
手の平のまめや、指先の皮が剥けたその手は、剣を握る人のものだ。力仕事とは無縁の、さらりとした感触の神官長のものではない。
―――――それなのに。
視界に色が戻り始めたときにそこに居たのが神官長だったから。神官長が術をかけて落ち着かせてくれるから。私は、勘違いしたのだ。私の傍には神官長しかいなかったのだと。
いや、そもそも、そこにその人が居ること事態を、想定していなかった。
だから、無意識にも、その人が彼であるかもしれないという可能性を除外していたのだろう。
一緒に過ごすようになってからたった数ヶ月。
お互いを知るにはあまりに短い期間でもある。もっと言葉を交わしてお互いを知る努力をしているならその限りではないだろうが、何せ彼は殿下の騎士であり、私は聖女だ。
互いに忙しすぎる。
それに、彼が忠義を尽くし正義を果たす人であることを知っている。
個人的な感情など二の次で、何よりも誰よりも主を優先する。そのことに誇りを持っていることだって分かっている。だからこそ、例え私に何かあったとしても、彼は任務を優先するだろうと思っていた。
彼ほどの人物であれば、それは正しい行いであるし、そうでなければ間違っている。
ただの騎士ではない。
近衛騎士であり、何より「殿下の騎士」だ。
彼の行いはそのまま殿下に影響する。だからこそ己を律し慎重な行動をしていたのだ。
未だに激しく脈打つ心臓に戸惑いながら、まさか彼がそんなことをするなんてと息を呑んだ。
「1ヶ月の謹慎だよ。だから、もう半分も過ぎてる」
もう少し我慢しなさいと、神官長は困ったような顔をする。目だってまだ回復していないのだからと。
でも、―――――会いたい。
どうしようもなく、会いたい。
彼の邪魔をするのは本意ではない。彼がしでかした事を考えると、たった1ヶ月の謹慎で済んだのは殿下のおかげだろう。アルファド様が殿下の騎士だったからこそ謹慎で済んだのだとも言える。
謹慎する場所として神殿が選ばれたのも殿下のご厚意によるものだ。
彼と、私を、信頼しているからこそ、そうしたのだ。
彼が私の面倒を見ることさえ想定の範囲内だったに違いない。それは、きっと私の目が見えていなかったからこそ、果たされたことだ。
見ていなければ、知らなければ、なかったも同然なのだから。
だから、私がもしも、気付かなければ。
彼は何も言わなかったに違いない。
謹慎なんてなかったかのような顔をして、神殿から屋敷に戻った私を迎え入れたはず。
そのとき私は、彼の目を真っ直ぐに見つめることができただろうか。
彼を理解していると言いながら、心の中では、あんなに苦しんでいたのに会いにこなかったと彼を詰るのではないだろうか。
彼の優しさも、その行いも、何一つ知らずに。
*
*
聖女の部屋の真っ白な壁に手の平を当てた。分厚い壁で防音機能もしっかりと果たしている。
廊下に面している扉も分厚く頑丈なので、部屋の外の音はほとんど聞こえない。
だから当然、隣の部屋の音が聞こえるはずもない。あまりの静けさに、世界にこの部屋だけ取り残されているような気がする。
本当は、私以外の誰もどこにもいなくて。
呼吸をしているのも私だけなのかもしれないと、そんな妄想にさえ捉われる。
この壁の向こうにアルファド様が居るのだろうか。
顔を合わせていないので実感がない。
だけど、時々。かろうじて聞き取れるほどの微かな物音がして、そこに誰かの存在を感じることもある。
気のせいかと思えるほどのそれに、安堵する自分がいた。聞き耳を立てるのはやはり忍びなく、だからこそ、思わず手を伸ばしてしまう。
何だかどうしようもなく苦しくて。どうしようもなく胸が締め付けられる。
日を追うごとに視力は回復している。ぼやけていた輪郭が少しずつ、はっきりと形を整えていく。
それと同時に、胸の内側に芽生えてくる感情を、何と表現すれば良いのだろう。
感じたことのない想いに、時々、どうしようもなく泣きたくなるのだ。
『―――――私たちは、貴女が幸せになることを祈ったの』
そんなときに、ふと頭を掠める聖女候補たちの声。
自らの死を目前にして誰かの幸福を願うというのは、どれだけのものなのか。
神官長の言う通り、聖女の力が未知のものであるならば、それに順ずる聖女候補にも同等の力が備わっていると考えられる。
実際、願いを叶えて崩壊してしまった聖女候補のことを、知っている。
何ができるのか解明されていないという聖女の力。
それはつまり、真に願えば、何でも叶うということなのではないだろうか。
―――――ならば、生き残るという選択もできたのではないのか。
『私たちが、なぜ、ここにいるのか分かる?』
ローザがそっと呟いたあの疑問。
生きることを選んでしまったからと言ったあのとき。それならなぜ彼女は最期の最期に生きることを放棄したのか。
「……分からない、分からないわ、ローザ姉さま……」
だけど。




