6
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『リディアがもう、祈りを捧げなくても良いように』
そうやって成されたはずの聖女召喚だった。
それなのに、これは一体どういうことだ。
―――――聖女の代わりに祈りを捧げる?
街に下りていた聖女が体調を崩した為に祈りの儀式は中止したはずなのに。
いつの間にかリディアが代わりを務めることになっていた。
話を聞いたときには既に全ての準備は整っており、口出しすることができない状況だった。
慌てて大聖堂に向かえば、タイミングを合わせたように聖布を纏ったリディアが現れる。ふわりと舞った薄布には確かに見覚えがあって、それは聖女召喚がなされる前に彼女が着ていたのと同じものだった。
彼女の聖布は既に処分されたはずだ。
それが今ここにあるということは、彼女が着ていたものを残しておいたか新しく作り直したことになる。
つまり、彼女がこの聖布を纏う機会がくるかもしれないことを、大神殿側は予想していた―――――?
仕組まれたかのようなこの状況に苛立ち、思わず「なぜ、君が?」と口走ってしまった。
己ならが、それはまるで彼女が代役を務めることに不満を感じているとも取れる口ぶりだった。
リディアは、ほんの少しだけ首を傾いで俺の顔を見つめている。ほんの僅かに、息を詰めたような気まずい空気が漂った。
しかし、次の瞬間にはいつもと変わりない控えめな笑みを浮かべる。
困惑したような、だけど何事にも動じない、感情の読めない笑みだ。
その顔を見て、己の失態に気づく。
彼女にそんな顔をさせるなんて。絶対にあってはならないことだったのに。
「聖女様の代わりに祈りを捧げるようにと―――――」
俺の視線をまっすぐに受け止めたリディアは言葉尻を濁しながらそう答えた。
分かりきっていたことではあるが、彼女の声で『聖女様の代わり』という言葉を耳にすると、憤りを隠すことができなくなる。
けれど、今しがたのような事態を避けるため、努めて冷静を装った。
今日の祈りは中止にしたはずだと伝えれば、「私はそのようなことは聞いておりません」と視線を落とす。
囁くような声音が、彼女の心情を表しているように思う。
よく見れば、体の前で組まれたその人の両手は、指先が白くなるほどに硬く握り込まれていた。
彼女にとっても急な話だったのだろう。
戸惑っているのがよく分かる。
リディアの後ろに控える神殿侍女は、常であれば聖女に仕えている者たちだ。なのに、誰一人としてリディアが聖女の代わりを務めることに異議を唱えない。
元聖女候補であれば、聖女の代わりを務めるのは当然だと、誰もがそう思っているらしい。
代役であれど、お役目を与えられて嬉しいでしょうと言わんばかりの態度。
今にも彼女を大聖堂の中へと押し込もうとしている。神官長から指示が出ていると聞けば、誰にも否やを唱えることができない。
強引すぎるその様子に、彼女が見下げられているような気がして我慢ならずに神殿侍女の腕を払う。そして、後ろに下がらせた。
侍女は、突然のことに不思議そうにしつつも、近衛騎士であり聖女の護衛でもある俺には強く出られないのだろう。恭しく頭を下げながら距離を取った。
リディアは自分の背後でそんなことが起こっていることにも気付かない。
ただ、凛とした姿勢で大聖堂の扉の前に立っている。
その視線は揺らぐことさえなく、その巨大すぎる扉を見据えていた。
誰にどう見られているかなど、彼女にとってはどうでも良いことなのかもしれない。
実際、彼女が「聖女候補」という名に固執しているわけではないことを知っている。
与えられたから、いや、与えられてしまったから、そう名乗っていたに過ぎない。
今更、その名を返されたところで彼女は喜ばないだろう。
けれど、周囲の人間には、彼女が聖女候補という名にしがみついているように見えるようだ。
大神殿で働く人間のほとんどが貴族出身である。何よりも矜持と体面を重んじる彼らには、聖女候補の名を失っても尚、大神殿に居続ける彼女の心理は理解できないだろう。何が原因であろうと、地位を失うは命を失うも同然。貴族というのはそういう生き物だから。
そうであれば、彼らはリディアのことをこう思っているに違いない。
異世界からの聖女に、その名と立場を奪われた平民。
役目を果たすことのできなかった出来損ない。辱めを受けてなお神殿にとどまり続ける死に損ない。
リディアのことを、そんな風に見ている。
だというのに、彼女の祈りは全ての人間に等しく加護を与える。どんな人間であろうと、どれほど極悪非道であろうと、富んでいようが貧しかろうが関係ない。
彼女の祈りはこの国の安寧を願うものだから。
この国に住んで、生きて呼吸をする限り、その恵みにあやかることができるのだ。
そのことを思えば、平静でいられる気がしない。腸が煮えくりかえるというのはこのことだ。
もしも許されるのであれば、彼女を見下す全ての人間に拳を振り上げているところだ。
彼女のおかげで恩恵を受けられるというのに、感謝することもない彼らに思い知らせたい。
いっそのこと、祈らなければいい―――――。そんな風に思うのに、彼女に託された祈りを止めることができない。
祈りの儀式をやるとなれば、他に代役を務めることができる人間がいないこともまた事実だった。
一介の騎士でしかない俺には彼女を引き留める権利がなく、また、それが正しい判断ではないということも分かっている。祈りの重要性も痛いほどに理解しているのだ。
ただ単に国の安寧を願う為だけではなく、疫病や魔獣によって汚染された傷を浄化し、真に祈りを必要としている人間を救う。それこそが祈りの本質であり、それができるのは、聖女と元聖女候補であるリディアだけだ。
だからこそ。
本来、祈りを止めるというのは、あってはならない事態なのだ。
聖女様ができないのであれば、代わりにリディアがやるというのは神殿側としては当然の流れなのだろう。
そして、決断を下したのが大神殿であれば、その意思に背くことは難しい。
ここが、神殿の領域であるなら尚更。殿下でさえ、この状況に物申すのは難しい。
ぐるぐると吐きそうなほどに考えて。
結局、大聖堂の中に入っていくリディアを見送ることしかできない。その小さな背にこの国と国民の未来を背負わせることしかできないのだ。
しなくても良いと、行かなくても良いと言葉にすることは簡単なのに、そんなことは許されない。
祈りが、彼女の肉体を消耗していくと知っているのに。
「リディア、」
―――――縋るように出てくるのは唇から零れるのは彼女の名前で。
言葉を続けることもできないのに意味もなく呼び止めてしまう。
彼女の名前は、これほどに哀切を伴う響きをしていただろうか。
リディアは一度だけ振り返って、確かにこちらを見た。その目には既に諦念のようなものが浮かんでいて。それは到底、彼女ような若い女性が浮かべるものではなかった。
「リディア、」「リディア、」子供のように彼女の名を呼び続ける己の姿がどれほどに滑稽なのか分かっている。だが、その名を呼ばずにはいられなかった。
しかし、再び前を向いた彼女は、もう二度と振り返らなかった。
もしも、なんて考えても仕方ないことだと分かっている。だが、もしも、彼女が来た道を戻ってきてこの胸に飛び込んできたなら。俺はどんな行動をとっただろうか。
許されないと知りながら、殿下を裏切ることになると理解しながら、その手をとって逃げ出したのではないか。震える拳を握り締め、俯くことしかできない。
俺はこれほどに矮小な人間だったのか。
音も無く閉ざされた扉を睨みつけていれば、やがて微かに漏れてくるか細い歌声。
異世界の聖女様が召喚されてから久しく聞くことのなかったリディアの祝詞だ。
中に入っている信徒たちの声はただの一言も漏れてこないのに、彼女の声だけが聞こえるのは、祝詞自体が意味のある言葉ではないからだ。
神語と呼ばれる不思議な音を並べたそれは、常人には理解できない。
手を伸ばせば、その声に触れることができるような気がして弾かれたように指先が小さく動く。
ただの声だ。触ることなどできない。
だが、そんなものでさえ、彼女を構成する一つなのだと知っていれば、欲しくて、欲しくて、どうしようもないのだ。
これほどの想いを抱えていて、もしも彼女を失えば俺はきっと生きてはいけないだろう。
だが、彼女を失ったとしても後を追うことなど許されない。自分自身がそれを、許さない。
国と陛下に忠誠を誓った身だ。
彼女と出会うよりもずっと前に。
想いは形を変えたけれど、根底は変わらないのだ。俺が、死ぬときがくるとすれば、それは忠義の為だろう。
だから俺が、本当に恐れているのは―――――。
*
「神官長にお目通りを願いたい」
大神殿の奥の奥。本来なら足を踏み入れることさえ許されない場所で、門番のように通路の真ん中に立つ神殿騎士に声を掛ける。
彼らとは多少なりとも認識があるので、俺が聖女の護衛であり、殿下の側近であることももちろん分かっているはずだ。
本来なら、事前申請なしに神官長と面会をすることはできない。
ただ単に世間話をするのとは訳が違うのだから、殿下へ話しを通しておく必要もあるだろう。
神官長というのは、大神殿においてそれほど重要な立場に位置しているのだ。
殿下の側近である、いわば「皇宮側」の人間である自分が、神官長に面会を申し出るのは好ましくないということも分かっている。
しかし、どうしても今、神官長と話をする必要があった。
正式な手順を踏んでいればいつ会えるか分からない。そうなれば、全て手遅れになっている可能性もある。
張り詰めたような空気の中で、こちらを探るような神殿騎士の視線に向き合っていれば、「何事です」と、奥から現れた神官が静かに告げた。
相変わらず、目に眩しい御仁である。
しっかりとその姿を捉えていなければ、女性と見間違う。
裾の長い官服が、ますますそれを助長している気もするが、そこは本人の意思ではどうにもならないのだろう。
さらりと流れる長い髪には神の力が宿ると言われている。
その存在自体が不可侵の領域に見える。年齢不詳のその姿が、そう感じさせるのか。長年神殿で任を負っている者というのは、軽々しく触れてはいけないような空気を纏っている。
彼の姿を認めた神殿騎士が恭しく端に避け、道を開けた。
その仕草だけで、彼がこの大神殿においてどれほど重要な人物であるかが分かるようだった。
「……貴方は、殿下の騎士ですね」
首を傾げば、色素の薄い髪がさらりと肩から落ちる。銀色というよりは白に近い色合いが、彼の纏っている官服に似ている。全体的に、色のない人間だと思った。
「お久しぶりです、神官長。不躾に申し訳ありません」
頭を下げれば、少しの間を置いて「貴方がそのように頭を下げる必要はありませんよ」と笑う。
私は貴方の上官ではありませんからね、と。
そんな神官長の寛容な態度に付け入るように、一歩前へ出て更に深く頭を下げた。
「……少し、お時間をいただけませんか」
正規の手順を踏んでいないので、これが非公式のものだと察してもらえるだろう。
許されることではないが、殿下の騎士であるということが免罪符になるはずだ。
実際、俺がもしも殿下の騎士ではなく聖女の護衛でもない只人であったならここまで立ち入ることはできなかった。
神官長は、頭を下げたままの俺に小さく息を落とし、再び顔をあげるように促してから「申し訳ないですけれど、私がここから出るには大神殿の許可がいるのですよ」と、暗に場所を移動することはできないと示唆する。
しかし、話を聞くつもりはあるようで立ち去ることはせず、静かに微笑んでいる。
「なぜ、リディアが聖女様の代わりを?」
そのあまりに穏やかな顔を見ていると、つい攻撃的な口調になってしまう。
前置きさえせずに本題へ入った。感情が高ぶるのをどうしても押さえることができない。
「……どういう意味でしょうか?」
惚けているのか本当にわからないのか、ほんの僅かに表情を変えた神官長がゆるりと視線を動かす。品のある仕草だとは思うが、好意的には受けとることができない。
「聖女様が体調を崩されたので、本日の祈りの儀式は中止されたと周知されていました。しかし、急遽、リディアが代役として祈りを捧げることになったと―――――」
俺の言葉に神官長は僅かに目を瞠る。
「……それでは、今、リディアは祈りの最中なのですか……」
何事もなければ、既に祈りが始まっている時間だ。
天井を仰ぐように深く息を吐いた神官長のその姿は、リディアが代役を担うことを知っていたとは思えない。もしもこれが演技だとすれば、とんだ食わせ物だ。
「私も今の今まで、儀式は中止になったものだと思っていました。……何か、行き違いがあったのやもしれません」
「神殿侍女は、神官長からの指示だと」
「……そうですか」
神官長の色の薄い瞳がすっと視線を落とす。憂いを帯びたその様子に、心を奪われる女性は多いだろう。
この分だと、リディアに代役を務めるように指示をだしたのも神官長ではないのかもしれない。
―――――しかし。
「聖女様に休息を取るように仰ったのは神官長なのでしょう?」
歴代の聖女たちは、大神殿が戦火に包まれたときも槍の雨が降ったときも、決して祝詞を止めたなったのだという。それこそ、血を吐く想いで祈りを捧げてきた。
それが、役目だからだ。
神官長が真実を口にしているのであれば、彼の知らぬところで儀式が続行されることに決まったのだろう。
「そもそも、聖女様に休みを取るように言ったのは、リディアという代役が居るからなのでは?」
追及するような口調になるのも仕方がない。
彼が、異世界からの聖女を甘やかすからこんなことになったのだ。
「……私は、聖女様に休息を取るようには言いましたが祈りを捧げるなとは言っていませんよ?」
落ちた沈黙の間を滑るように神官長の酷く冴えた声が響く。
下を向いていたはずの顔が、いつの間にかしっかりとこちらを見据えている。その顔からは、いつもの柔らかな笑みが消えていた。
「祈りの儀式をやらないと決めたのは聖女様ご自身です」
聖女様がお決めになられたのであれば、それに従うだけですから。と、どこかぼんやりした眼差しで言う。
どこかを見ているが、どこも見ていない。そこに意思が存在しているのかさえ疑わしい。
ぞわりと肌が波打ったのは、騎士としての本能なのか。剣を構えた人間を前にしたときの反応と似ていた。
それはつまり、目の前に立つこの人が味方ではないということだ。
両脇に控えている神殿騎士を挟むように対峙している神官長は、手を伸ばせば触れることのできる距離に居るのにも関わらず、酷く遠い場所にいるような気分にさせる。
てっきり、大神殿に仕える人間として、聖女様に誠意を尽くしているのだと思っていた。
他の侍従や神殿騎士や神殿侍女と同じように。
際限なく甘やかして、優しい言葉だけを与えて、傍に侍り守っているのだと。
「騎士殿。聖女様が大切にされて慈しまれるのは、それほどの重責を負って、その義務を果たしているからなのです。少なくとも、これまでの聖女様はそうだったのです。存在しているだけで全ての人間から愛されるなどということはありえません」
小さく息を零しながら、どこかか呆れた様子でそう零す神官長。
「皆はあの聖女様を大切にし、慈しんでいる様子ではありますが……。私までそうだと思われるのは心外です」
彼女は確かに聖女の力を与えられ、それを行使することができる。けれど、それは本当に正当なる神から与えられたものなのでしょうか?
彼女は本当に、神によって選ばれた聖女なのでしょうか。
神官長はその麗しい顔を傾いで、静かに問いかけてくる。




