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「―――――アルファドさん……?」
問われるように顔を上げれば今代の聖女様。
この世界にはない、稀有な黒い髪がさらりと揺れる。
穢れを知らない無垢な瞳は、この世の全ての影を集めたような闇色だ。
周囲の人間がこの少女のことを美しいと賞賛する理由が分からないわけではない。
ただ、違うのだ。
俺にとって美しいというのは、この異世界の聖女様のことを指すのではない。
「あのっ、」と若干焦りを帯びた顔が伺うようにこちらを見上げている。
「……いかがなさいましたか?」
「っあ、はい、あの、えと…お茶でもどうかなって思って……」
「……お心遣いは有り難く頂戴いたしますが、私は護衛ですので」
「そんなっ、あの、護衛騎士さんにも休憩は必要だと思うんです…!」
俺の手を強引に取って、既に用意されている茶会の席に座らせようとする聖女様。
歴代の聖女様が過ごしたとされる神殿内のその部屋は、華美な装飾などはされていないが、置かれている家具や小物など全てが一級品である。
異世界から召喚された後、数日を皇宮で過ごし、心の整理もつかないままここに移された聖女様であるが、その初日に戸棚に飾られていたカップを落として割った。
カップを割ることなど、日常においては本当に何でもないことだと思うが、神殿内においては少し事情が違う。
そもそも聖女の部屋に置かれている物は、もはや神器に等しいので、気軽に触る者はいない。それを、ただ綺麗だというだけで手に取った異世界からの客人は、こちらの常識が通じないのだと改めて感じた。
後から聞けば、そのカップは先代の聖女様が殊更気に入って大切にしていたものだったらしい。
それなのに。
カップを割って子供のようにくしゃりと顔を歪めて謝る聖女様に、周囲の人間は、謝る必要などどこにもないのだと甘い顔をして許した。
泣くほどのことではないと。あんなカップはただの割れ物で、聖女様に怪我がなくて良かったと。
気にすることはないと言われて、本当に気にならなくなったらしい聖女様が笑みを浮かべる部屋の中、俺はと言えば、割れた陶器の欠片がゴミ袋へと放られていく様子に気を取られていた。
目が、離せない。
真っ白な服が汚れるのも厭わず膝を付き、その白い指が皮膚が傷つくことにも頓着せず。破片を拾い上げていくその姿。
先日までは美しく結い上げていた赤い髪を無造作に纏めている。
―――――リディアだ。
彼女の聖女候補としての務めはその日に終わるはずだった。
だが、異世界から召喚された聖女様にそれを説明する人間はいない。また、リディアもあえて自身の存在を主張しなかったので、誰もそこにいると気づいていなかった。
部屋の隅にそっと控えるようにして立っていた彼女。
破片を拾うためにリディアが膝をついたときでさえ、侍女や侍従は、幼い聖女様を励ますことに集中していた。
つい先日まで、聖女候補だ何だと誉めそやして大切にしていたにも関わらず。このときの彼女は完全に路傍の石と同じだったのだ。
異世界の聖女様を含め、聖女様を囲むようにして立つ誰一人としてその存在を気にしていない。
思わずリディアを手伝おうと足を動かせば、途端に、彼らの視線がこちらに集まった。
「どうしました?」と侍女に問われて首を振るしかない。
彼らは俺とリディアが婚約していたことを知っている。
不用意に彼女に近づくのは控えた方が良いだろう。
何よりも殿下に、リディアと個人的に親しくするのは止めておくように言われていた。
衆目を集めるような真似はすべきではない。リディアに近づこうと未だに足掻く右足を力で制した。
案の定、尖った破片で指先を切り裂いたリディアを気遣うこともできずに。
下を向いた彼女が唇をかみ締めているように見えたのに。
その理由を聞くこともできずなかった。
「アルファドさん、遠慮しないで座ってください!」
遠慮のないその小さな手を眺めながら思う。
初対面で彼女のことを子供だと認識した己の目に狂いは無かったようだ。
小さな体躯に見合った幼稚な思考。
純真無垢と言えば聞こえは良いが、考えなしで猪突猛進なその姿は、庇護欲を誘うという彼女への評価を覆す要素の一つだ。
護衛騎士でなければ近づくことさえなかっただろう。
いや、殿下の命でさえなければ視界に入れることもなかったかもしれない。
こんな頑是無い子供が、リディアの足元を掬おうとしている。
「理不尽」という言葉だけで片付けることができない。
しかし、彼女の中で何がどう作用したのか、浄化の旅を終えてみれば彼女はすっかり俺に懐いていた。
他にも幾人かの護衛が居たにも関わらず、なぜか俺だけに。
旅の間も特に優しくした記憶はない。殿下は俺に、聖女様を幼子と思って接するようにと仰ったが、元々、子供と言えど赤の他人に優しくできるほどできた人間ではない。
街中で迷子の子供がいれば手を差し伸べるくらいの余裕はあるし、有事の際は女子供を優先して避難させるだろう。泣いている女性がいれば声くらいは掛ける。
なぜなら、それが騎士であり貴族というものだからだ。紳士的であれと教育された。
優しさで行動しているわけではない。あくまでも任務を遂行しているだけなのだ。
だから、もしも。
彼女が俺のことを優しい人間だと判断しているのであれば、大きな間違いである。
「聖女様、私には仕事がありますので。どうか女性だけで茶会をお楽しみください」
袖を握っていた聖女様の手をそっと外して芝居がかった仕草で恭しく椅子を引けば、聖女様は黒曜石をはめ込んだようなきらきらしい目を向けてきた。
「…かっこいい」と呟いた声が聞こえなかったわけではない。が、たった数秒の仕草のどこに彼女を惹きつける要素があったか分からない。
不思議に思って首を傾げば、元々柔らかく染まっていた頬が上気したように赤くなった。
ここで微笑みさえ浮かべることができれば、殿下の思惑通りに、聖女様の心を掌握できるのかもしれないが。それほど器用な人間でもなかった。
「どうぞ、ごゆっくり」と空々しい言葉が出てくるものの、表情がのることはない。
聖女様の小さな顔を見やって、これがリディアであれば、と思う。
彼女は俺の顔を見て頬を染めたりしない。
物理的に距離を詰めると、戸惑ったような顔をしてそれから小さく微笑む。
他にどのような顔をすれば良いか分からないから、仕方なく「笑う」という選択をする。
困っているのであれば、困っていると言えば良いのにそれをしない。
他人との接触は苦手であるはずなのに、やめてほしいとは決して言わない。
それを良いことに、俺はますますリディアに近づく。
彼女が好きだ。
認めてしまえば、湧き上がる衝動を抑えることができなくなっていた。
どうやったら止められるというのか。どうやったら彼女を手放せるというのか。
婚約者という立場を失った今でもそればかりを考える。
*
*
「――――――カップ?」
久方ぶりに殿下の執務室へ呼ばれた。そのため、これ幸いと気になっていたことを尋ねる。
初めは首を捻っていた殿下もやがて何か思い至ったのか、一つ肯いて言った。
「ああ、あれね。あの皇家の紋章が入ったやつでしょ。何代か前の皇帝が当時の聖女に送ったものだよ」
事も無げに言った貴き方。
思わず、それはとんでもなく高価なものなのではと確認しようとして、もう既に失ったものであればそんな追及も意味がないと、開きかけた口を閉じる。
聖女様、割っちゃったんでしょ。とどこか愉快げに殿下が問うた。
誰がそうしているのか聖女様の一挙手一投足が殿下の耳に入るようになっているらしい。
侍女か侍従に殿下の子飼いが居るのか。
もしくは姿なき隠密の仕業か。
「でも、君が気になっているのはそんなことじゃないでしょ」
「……」
あえて言葉にせずとも全てを理解している様子の殿下が双眸を細める。それでも説明させるのは、いつだって正確さを求めるからだ。
「……リディアが、落ち込んでいるように見えましたので」と答えれば「ふうん、」と、腕を組んで考え込む振りをする。
いや、もしかすると本当に何かを思い出そうとしているのかもしれない。
黙ってその姿を見守っていれば、小さく息を吐き出した殿下が遠くを見つめながら言った。
「聖女の部屋のあたりはねぇ、聖女候補たちの縄張りだったんだよ」
「縄張り、ですか?」
「ふふ……縄張りというのは言いすぎかなぁ」
「…はぁ、」
「あそこは防犯の意味もあって神殿の奥の奥にあるけど、聖女候補の部屋はもっと奥にあるんだ。何せ聖女候補の大半が幼い子供たちでしょ。何が起こるか分からないからね」
「そう、ですね」
「うん。だから、あの子たちが出てこられるのは、聖女の部屋の近くまで。だけど、聖女の部屋は普段、施錠されているから出入りすることはできない」
彼女たちには娯楽がないからね。時間が空いたら神殿内を歩き回っていたんだ。と続ける。
迷路のように入り組んだ大神殿の構造を覚えることも、聖女候補の務めだったらしい。
もしも神殿内で何かが起こったなら。信徒たちを安全な場所まで誘導するのは神殿内に勤める者の義務でもある。
実際、聖女候補のような少女たちにそんなことをさせるとは思えないが。
ゆくゆくは聖女になるのだと定められているからこその行いなのかもしれない。
「ただね、あの部屋も一日一回、掃除のときだけ、空気の入れ替えの為に開け放たれるんだ」
仕事がひと段落したのか、手にしていた皇印をぽんと投げ出して伸びをしながら言った。
「神殿侍女はあの子達が部屋の中に入ることに良い顔してなかったけど……まぁ、僕が一緒だったからね」
神殿侍女であろうとも大抵が貴族出身であれば、殿下に物申すことなどできるはずがない。
「つまり、遊び場とまでは言わないけれど時々出入りしていたってこと」
当時を思い出しているのか殿下の藍色の瞳にすっと影が差す。
リディアなんて本当に小さくてねぇ。可愛かったよねぇ。と同意を求めるように問われる。当然、幼い頃のリディアなんて知る由もないが、否定する要素もないので頷いておく。
「あのカップを気に入っていたのはリディアじゃなくて、あの子のすぐ上の聖女候補だよ」
すぐ上って言っても、年はいくつか離れていたはずだけど。
他の聖女候補と同じく、リディアを可愛がっていたのだと言う。
「あの部屋に入ったときは、リディアと二人並んで棚に並んだカップを眺めていた。綺麗だ何だって言いながら」触れることは許されていなかったからね、と殿下は笑った。
あそこにある物に触れることができるのは聖女の特権だからと。
「聖女様が、まさか神殿に移された初日にあのカップを割っちゃうとは思っていなかったけど」
「……リディアは、泣いたかな……?」
独り言にように呟いた殿下の声が耳に響く。
結果を言えば、リディアは泣いていなかった。ただ、泣き出しそうな目をしていただけで。
いや、もしかしたら一人きりになったそのときに涙を零していたのかもしれない。
そう思うだけで胸のあたりが狭くなっていく感じがする。
「異世界から聖女を召喚すれば、あの子は様々なものを失うだろうと推測していたけど」
「……」
「まさか、思い出まで奪われてしまうとはね」
「やはり、聖女というのは侮れないねぇ」
仕事を再開したらしい殿下の指が書類をめくりながらもどこか苛立っているように見える。
思い出を奪われたのは、リディアだけではないらしい。
しかし、殿下の顔はあくまで微笑を湛えているので、その真意を読み取ることができない。
殿下とリディアが同じ記憶を持っているというだけで、落ち着かない気分になる。
どうしようもなく、無償にリディアが恋しくなった。




