15
「……ところで、」
他に提出すべき書類をその場で用意して全てのものにサインを終えたとき、神官長が改まった声で言った。たった一言なのに、声を置くような慎重さを伴っている。
すでに立ち上がりかけていたアルファド様共々、再びソファに腰を落とした。
「何度か殿下に面会の申請を出したのですがね……すげなく断られている状況です」
辛酸を舐めるような顔をしているのはわざとなのか。どこか演技がかって見える。肩を竦めて息まで吐いてみせるもののその素振りは何だか嘘くさい。
神官長のいつもと違う一面に面食らっていれば、
「殿下はお忙しい方ですしスケジュールの調整をしているのは俺ではありません。だから、俺に言われても困ります」
アルファド様は実に淡々とした口調で返す。
こんな風に殿下への取次ぎを頼まれることはよくあるのだろう。お決まりの文句を口にしているだけだと私にも分かった。神官長にもきっと、伝わっているのだろう。
その人はただ微苦笑を浮かべるだけだ。しかし、
「……異世界からの客人に関することなんですがね。聡い殿下のことですから何かお気づきかもしれませんが、」と独り言のように意味深に呟く。
その途端、先ほどまでの和やかな空気が一気に霧散した。
びりびりと張り詰めた空気の中、「一体、何だと言うのです」と先に口火を切ったのはアルファド様だ。
「……」
ちらとこちらに視線を寄こした神官長の眼差しが、覚悟は良いかと問いかけているようだった。
「召喚術に関しては……理論上完璧だったとしても実際に成功するかどうかは大きく運に作用されるとは思いませんか」
再びアルファド様に視線を戻した神官長が見据えるようにして問う。
アルファド様のご父君は言わずと知れた召喚術の権威だ。神殿の中にいてさえその名を聞くことがあるのだからそれはもう周知の事実なのだろう。神官長もそれをよく理解していて、あえて召喚術の話を出したのだ。
しかし彼は、「何が仰りたいのか分かりません」と声を低くした。
「……本当に?」と返す神官長は、ついでに鼻を鳴らす。いつにない仕草。明らかに挑発している。
「では、はっきりと言いましょう」
アルファド様の反応を試すかのようにわざと間を置いて、大きく息を吸い込む。
音のない空間だからこそ、その音が効果的に響いた。
「―――――っいや、待て、」
「……なぜ?」
抑えてはいたがはっきりと焦燥を帯びた声に、思わず振り仰ぐようにしてアルファド様を見れば、彼は途端に口を引き結ぶ。
私に知られてはいけないことがあるのだろうか。
「隠しておけることではないでしょう。殿下がリディアに何と説明されたか分かりませんが」
真実を隠されるということがどれほどに残酷なことか貴方も知らないわけではないでしょう、と続けた。
「……殿下に何かお考えがあるのであれば、私も黙っておこうとは思いました。しかし、正規の手順を踏んでいるにも関わらず通らない面会の申請に正直辟易しております。リディアがああいう状態であったからこそ……というのは分かっておりますが……」
いっそ不敬だと罵られても仕方ないほどの物言いに、アルファド様も少し驚いているようだったが、結局「……進言しておきましょう」と言うに留まった。
それを聞いて満足げに肯いた神官長が、す、と立ち上がる。
扉の方に歩き出すのを見てそれに続いた。
終始、分かるようで分からない会話をしている二人だったけれど、それが全て私自身に関わることだと知っている。だからこそ、あえて口を挟むことができない。
今回のことで、彼らがどれほど私の為に尽力してくれたのかというのは説明されなくても理解できた。
ここでそれを追及するのは簡単だ。だけど、そうすることが果たして本当に自分や彼らのためになるのかが分からない。
本当に隠し事があるとして、殿下が意味もなくそうしているとは思えなかった。
「リディア、」
廊下に出て別れの挨拶をしようと振り返れば、部屋に残った神官長がもの言いたげに私の名を呼ぶ。
一度、何か言おうと動いた唇が、それでも声を出さないまま動きを止めた。
しばし待つものの、結局「……気をつけるんだよ、」とだけ述べる。
目尻を細めて、くれぐれも気をつけるんだよと同じ言葉を繰り返した。
何か他のことを伝えようとした気がする。石を飲み込んだかのような、ぐっと息を詰めた言い方だった。
けれど、神官長の薄い唇は次の言葉を紡がないまま。話は終わりだとでもいうように手を上げる。
だから、「はい、神官長様も……」どうかお元気で、とありきたりな言葉しか続けられない。
そうしたら、優しい微笑みが返ってきて。
心情の読めない色の薄い瞳ではあるが、この人にずっと守られてきたのだと思えばそこに温かさのようなものを感じる。
私が本当に伝えるべきなのは健勝を願う言葉ではなく、もっと別のことなのではないかと思ったけれど。何を言えば良いのか分からなかった。
色々あったのだ。本当に。一言では言い表せないほどに。
この大神殿を出たいのか、出て行きたくないのか、それさえも今は分からない。
一生出られないだろうと覚悟を決めたのはつい最近のこと。生きていることさえ不思議なのに、これからのことを考えなければならないなんて無理がある。
「さぁリディア、行こう」
アルファド様に促されてやっと神官長から視線を剥がすことができた。
きっと今後は今以上に顔を合わせることが少なくなるに違いない。だって彼は、あくまでも聖女候補の世話人なのだから。
聖女には聖女専任の女官が付くことになっているし、神殿内とはいえ自由に行き来できるわけでもない。
何かにつけて書面で申請を出さなければならないのである。
数歩進んでから振り返れば、追いかけるように部屋から出てきただろう神官長が、まだこちらを見ていた。名残惜しむように。
振り切るように前を向けば、背中がちりちりと焼けるような感覚を伴う。
痛い、とはっきり感じた。
「リディア、」アルファド様がさりげなく私の手を取る。
「婚姻届が大神殿に受理されるのはまだ数日先だろうと思う。だが、既に殿下が話を通してくださっている。今すぐにでもここから出られる」
「……はい、」
「君がそれを望まないのなら、ここに居てもいいと言いたい。」
「……」
「だが、」
「はい、」
「俺はもう君を一人きりにするつもりはないんだ」
だから一緒に暮らそう。と歩みを止めないままに言われる。
返事をすべきだと唇を開くのだが言葉が出てこない。かろうじて小さな息を吐き出した喉元が、声を出すことを拒絶しているかのようだった。
アルファド様は返事を求めているわけではなかったのか、黙り込んだまましっかりと前を見ている。その歩調も緩むことが無い。
つい先ほど眠りから目覚めたばかりで肉体が思い通りに動かず、つま先がもう片方の足にぶつかった。ふらりと傾いた体を支えたのは言うまでもなく彼だ。
腕の中にしっかりと抱きとめられてその体温を感じれば、どくりと血流が早くなる。その勢いに思考までもが分断されるようだった。
婚約が解消されてからは、絶対に触れてはならないと思っていた人だ。
―――――一緒に暮らす
そう言われても実感が湧かない。
まだ受理されていないとは言え、結婚するのだから当然のことだと言えるが。誰かと一緒に暮らすこと自体、想像できなかった。
「あきらめて、幸福になって」とは殿下の言葉だけれど、幸せとは一体何をさしているのだろうか。
それはどんな感情なのだろう。
私はそれを感じたことがあるのだろうか。
他の人はそれを知っているのだろうか。
聖女になることが、アルファド様と結婚することが、大神殿を出ることが、すなわち幸せに繋がるのだろうか。
聖女候補たちと暮らしていた頃、私は確かに不幸ではなかった。
抱き締められてその温もりを感じれば、私はここに居ていいのだと実感できたし、優しい手で道を示されればそこに光などなくても歩いていけるのだと、そう感じていた。
不幸でないということが、すなわち幸せなのだろうか。
そうであれば、私はすでに幸せだったはずだ。だけど、彼女たちは言った。
私が幸せになることを祈ったのだと……。
それでは一体、私は、何を求められているのだろう。
ふと強い視線を感じて顔を上げれば、息が触れるほどの距離にアルファド様の顔があった。
穏やかな双眸に強い意志が宿っている。それが何なのか私は知らない。
「……リディア、」
彼は囁くように、あるいは噛み締めるように私の名を呼んだ。
嬉しくて、だけどどことなく切なく感じる声音だった。
どこか不安そうにも感じられるそれは普段のアルファド様からすれば、考えもしない感情を乗せている。どんなときでも、不安など感じない人なのだと思っていた。だから、はからずも何かを言いかけて、
―――――ガシャアァンッ!!
周囲に物凄い音が響いた。耳を劈くようなけたたましい音だ。
それと共に誰かが何かを叫ぶ声と、ガシャガシャと何かを踏む音が聞こえた。
「……何だ?」
私を抱き込んだままアルファド様が周囲を警戒する。しかし、そのときには不気味なほどに静まり返っていた。先ほどの騒音の余韻なのか、それともあまりの静けさに過剰な反応を示しているのか耳鳴りがする。
どくどくと妙な動きをした心臓が、警告を発しているようにも思えた。
沈黙の落ちた廊下に背中を冷や汗が滑っていく。たまらずにアルファド様に縋りつくような格好になった。それに答えるかのように彼の腕が強くしなる。
「……何か、あったんでしょうか」
問いかける声さえも震えていた。
神殿騎士の常駐しているこの場所で、明らかな異常事態だというのに静まり返っているほうがおかしい。
神官長は大丈夫だろうか。
アルファド様の肩越しに、今来た道を振り返ってみる。
「―――――っあぁ、」
そのとき、ひゅっと息を呑むような声と小さな悲鳴が聞こえた。
アルファド様を見やれば酷く険しい顔でどこかを見つめている。その視線を追うと、
「……どうして?」
子供のような愛らしく甲高い声が、ぽつりと落ちた。
声を出したのは私ではない。
―――――どうして、
あくまでも疑問を口にしただけという感じなのに、どこか不穏な空気を纏うそれは初めて耳にするものではなかった。
僅か数メートル先、廊下の曲がり角に位置するところに少女が立っている。
揺れる黒髪、惑う双眸。誰もに鮮烈な印象を残す―――――美しい異世界の聖女
「どうして?」
再び落とされた疑問。それを口にしたのは彼女だったのか私だったのか。
なぜ、ここに。
アルファド様を見上げてその顔を確認する。
どうして、という疑問に答えを返すことができるのは、恐らく、この場において彼だけだった。
「―――――っ聖女様……!!」
突然目の前に振って沸いた衝撃の展開に、絶句するしかない。
ぼんやりとした眼差しで立ち竦む彼女の後ろから飛び出してきたのは、殿下のもう一人の騎士であり、かつて私の護衛を勤めていた人だった。
長い長い廊下で対峙する私と彼女。今、聖女様と呼ばれたのは私ではなかった。
「……チヨリ、なぜ、ここに、」
すぐ近くから聞こえた声が真っ直ぐに問う。
そうだ、なぜ、彼女がここにいるのだろう。
だって異世界の聖女様は故郷に帰ったのだと、そう言っていたではないか。
けれど、アルファド様の表情は私が抱いている疑問とは少し違う感じがした。
そう、あえて言葉にするなら。ただ純粋に「なぜここにいるのか」を聞いているのであって、「なぜまだこの世界にいるのか」と聞いているわけではない。
なぜか、そんな感じがした。
「……どうして、何で?何で、私は、私、っひ、く……っ、私は、一生懸命、やったでしょ、う?」
涙の混じる声は本当に幼子が泣いているようだった。距離があるというのに、彼女の眦からばらばらと涙が落ちていくのが分かる。あどけない顔をくしゃくしゃにして涙に汚すその姿は同情を誘う。
思わず、駆け寄って抱きしめてしまいたくなるような。
それこそがまさに、「彼女」だと思った。
「……聖女様、お戻りください」
遠慮がちに声を掛けるのは殿下の護衛騎士。彼がここに居るということは、殿下から命を受けているということだ。
短く切りそろえた栗色の髪と鋭い眼差しが硬質な印象を与えるが、本人は非常に穏やかな気質をしている。
それでもやはり殿下の護衛だけあってその実力は折り紙つきで、ひとたび戦闘となれば燃え盛る炎のような戦い方をするのだという。
その彼が僅かな焦燥を滲ませて、腫れ物にでも触るかのようにそっと声を掛けている。
「ちがう、ちがうちがうちがう、私はちがう、私じゃなかった、私じゃ、私は、私は、」
暗闇をそのまま映しこんだかのような空ろな瞳で唸るように声を上げる聖女様。
そんな明らかに混乱している様子すら周囲の視線を惹きつける。
だけど、つい先日まで彼女を取り巻いていた神聖さは、ない。
私が聖女の刻印を得たからなのか、それがはっきりと分かった。
「……帰りたい、帰る、私は、何で、嫌、帰りたくない、どうして、」
ぶつぶつと呟いている聖女様がふとこちらを見据えた。
「―――――ずるい」
私の目をはっきりと見て低い声で言った彼女は、ふらりと半身を傾ける。倒れるのかと思い、思わず手を差し伸べようとして、強い力で引っ張られた。
それがアルファド様だと認識したそのとき、視界の隅で黒髪の少女がこちらに向かって走り出す。廊下の高い位置にある窓から差し込んだ日の光が、彼女の姿を黒く映し出した。
右手に持っている何かが、その光を反射する。
「……チヨリっ!!」
油断していたわけではないだろうが、聖女様の後を追いかけてきた騎士は彼女の腕を掴むことができなかった。そのあまりに華奢な体を力まかせに制するのを躊躇ったのかもしれない。
音もなく近づいてくる彼女が私たちの間に飛び込んでくる。
全ての出来事がゆっくりとした動作で進んでいくような感覚に襲われて身動き一つできない。
目を大きく見開いて一つも見逃すまいとしているかのように、聖女様はひたすらにこちらを見据えていた。
「―――――どうして、貴女なの?」
どうして、私じゃないの。と唸るように声を上げた彼女に返す言葉はなかった。




