14
キリエが息を引き取って、その体を棺に納めるその役を引き受けたのは神官長だった。
本当は、キリエの死を確認した神殿医師とその助役が数人で抱えるはずだったに、神官長は他の誰にもその体を触らせなかった。それは、次の聖女候補が倒れたときも、その次の聖女候補が倒れたときも同じだった。
少女とは言え、その肉体を一人で抱え上げるのは大変だろうと、他の人間が善意から手を伸ばしたときも決して受け入れなかった。
一人で抱えることが義務であるかのように。
ぎゅっと噛み締めた奥歯を示すように、神官長の頬に力が篭るのを見上げていた。
そして、棺に納めるその間際にだけ両腕で強く、強く抱きしめるのだ。
彼女たちの耳元に顔を寄せるようにして。
例えば、言葉に出して叫んで嗚咽を漏らして。そうすることだけが悲しみを表現する術ではない。それをよく知っている。もっと深い場所で、決して表には出せない悲しみもある。
きっと、そうなのだ。
「……今ここで、全てを説明するつもりはありません」
やがて細く瞼を開けた神官長が私を見据えた。
「だけどリディア……君は伝えなければならないことがある」
静かな声音が何だか酷く恐ろしいもののように感じて皮膚が粟立つのを止められなかった。
何か良くないことを告げられる寸前のように、地面を踏んでいるのに宙に浮いているかのような心もとない感覚。
無意識に視線が彷徨い、そわそわとした指先が助けを求めるように宙をかく。
怖い。
ここは言うまでもなく神殿の奥の奥である。聖域であり何者にも侵されることのない不可侵の領域だというのに。今まさに魔獣に襲われているような恐怖に呑まれそうになる。
眠りから覚める前の私であれば、全ての音を遮断できたかもしれないのに。今の私ではそうもいかなかった。全ての音を余すことなく聞き取ることができる。
聞こえすぎるほどのその感覚に、自分が確かに、以前とは違うモノになったのだということを受け入れざるを得なかった。
「……リディア、」
行き場を失ってソファの上を滑った私の手を掴んだのは、他でもないアルファド様だった。
その大きな手の感触に、戸惑いよりも安堵を覚える。
眠っている間中、この手を握ってくれていたからか。妙に馴染んでいる気さえした。
手の平に残っているまめが、彼が騎士であり誰かを守る人間であるということを知らしめているようで。
その青銀の目は相変わらずその感情を伝えてはくれないのに、だけど、胸の中に渦巻いていた不安を少しだけ緩和してくれた。
ただ、深く、深く呼吸を繰り返して。
神官長の顔を見つめる。
その間、一言も口を挟まなかった彼は、やはり私を待ってくれていたようだ。
「……他の聖女候補の話をしてこなかったね、」
力なく笑って私を優しく見つめる神官長の目は深淵を覗いているかのような仄暗さを伴っていた。
それが決して楽しい話なんかではないことに、お互い、気付いている。
いたたまれなくなって落とした視線の先、応接台の端に置かれた花瓶にはヒビが入っていて、それが何かを象徴しているかのように思えてならなかった。
これほどに整理整頓されたこの部屋で、唯一異質なもの。
年代もののように見えるが、磨き抜かれた鏡面のような応接台が相まって不自然さが際立つ。
「彼女たちは、私に、何も言わなかったんだよ」
キリエの「体が痛い」と訴えたそのときが最後だったのだと、声を潰すように告白した。
ぴくりと動いた指の先で、アルファド様が温もりを分けてくれるから何とか座っていられた。
だけど、やはり、彼女たちの話をするのは辛くてどうしようもなくてたまらない。誰かに、その名を口にされるだけで焦燥のようなものが募っていく。
私も、早く行かなくちゃ、とそんな想いが過ぎるのだ。
一人だけ置き去りにされたのだという感覚が抜けない。
私が、そうさせたにも関わらず。なぜ、一緒に連れて行ってくれなかったのかと詰りたくなってしまう。
そんな理不尽なことを言われても、彼女たちは困ったように笑うだけに決まっているけれど。
「……あの子たちの声を聞き逃してしまったことを、いや、聞かなかったことを、私は一生悔いて生きていくのだろうと思う」
「今更、こんなことを言われても、君だってどうしようもないとは思うけれど」
自身の右手で額を抱え込んでしまったのでその表情を読み取ることはできない。
だけど、もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。
どことも知れない場所に彼女たちの納められた棺が運び出されるとき。神官長はやはり、同じ仕草をしていた。
頬に落ちた暗い影の向こう側、そこに閉じ込めた表情を私は知らない。
「キリエが倒れてから君と二人で話をした後、私は様々な文献をあたった。何か一つでも手がかりはないかと……」その過程を思い出しているのか、しばらく間を置いて「だが、結局、何も見つけられなかったんだ」と言う。
そのことは私もよく知っている。
当時も神官長は言っていた。これが呪いの類であるなら、それを解く方法があるのではないかと。
「……歴代の神官が恐らく、私と同じことをしたのだろうと思う。誰か一人でも救うことができるように」でもきっとそれは叶わなかった。
それが答えなのだ。
神官長は悔いているようだが、その行いは、何もせずにただ只管祈り続けていたような私とは違うだろう。できることを全てやって、最善を尽くした。赤の他人である彼が、だ。
その事実に、ぶるりと震えた指先。アルファド様が私の手を握り直してくれる。
さりげないその動作だけで、私は、泣き喚きたいような衝動に駆られた。
―――――私はもっと必死になって、彼女たちを、自分を救う方法を探しだすべきだったのだ。きっとそうだ。
例え、何も見つからずに悔いだけが残ったとしても、そうするべきだった。
「……違うよ、リディア。そうじゃない」
ぽとりと落ちた涙の雫が、応接台の上で潰れた。
「君はそこに居るだけで良かったんだ。それがどれほど、彼女たちの支えになっていか分かるかい?」
―――――分からない、分かるはずがない。ただそこに居るだけで意味があるなんて。
神官長の言葉を否定しながら頭を振れば、大きな嗚咽が漏れた。
こんな自分を捨ててしまうことができたならどれほど良かっただろう。ただ泣いて縋ることしかできないなんて。私はいつだってそうだった。
「君がそうであるように、他の聖女候補たちだって多くのものを失くしてこの神殿に入ってきた。不安でたまらなかったに違いない。声を上げて泣きたい夜だってあっただろう。だけど、そうするわけにはいかなかった。彼女たちには守るべき存在があったから」
「―――――、」
「そう、君だよ」
だからと言って悪い方に捉えてはいけないよ、と神官長は微笑んだ。
「君がいなければ、彼女たちはもっと早くに倒れていただろうと思う。人間というものはね、弱い自分を認識した途端に脆くも崩れるものなんだよ。時には逆に作用することもあるだろう。それは例えば弱い自分を受け入れたときにね、精神が強くなることもある。だけど大抵は、己の弱い部分を受け止めきれない。弱っている自分を認識した途端に、ますます弱くなるものなんだ」
「初めここに入った当初、君はとても幼かった。育ってきた環境もあるのだろうが、実際の年齢よりもずっと小さな体をしていた。だから彼女たちは無意識にも、君を守ろうとした。」
「そして誰かを守る為には、強くなくてはならない」
修行は苦しかっただろう?と問われて頷く。
そうだ、だから。私が苦しかったなら他の聖女候補も当然同じはずなのだ。
だけど、彼女たちはいつだって一番先に私の身を案じた。
辛くない?と、誰かに訊かれるのはいつも私だった。
「……リディア、彼女たちは皆……君のことを案じていたよ。最期の最期まで―――――」
「……最期、の?」
嫌だと、思う。聞きたくないと。もう、こんなのはたくさんだと。
どれほどに言葉を並べても、どんな風に言い換えられても、私が彼女たちを追い詰めたことには変わりない。私の存在があったからこそ強くいられたのだと、そう言ってしまえば聞こえは良いが、限界を超えた肉体で生きるのはどれほどに苦痛だったことだろう。
「きっと死期を……悟っていたんだろうと思う」
ぎゅっと握り締めた手に反応するように、いつしか私の手はアルファド様の両手に包まれるようにして握られていた。
見上げれば、アルファド様と視線がぶつかる。
その冷静すぎるほどの目が私に平静を取り戻させてくれるような気がした。
「君がもしも聖女になったなら、伝えてほしいと言われていた」
「……っ」
「―――――一人にして、ごめんねと」
全員が同じ言葉を言い残した。
それはつまり、そういうことなのだろうと神官長は言う。
分からない。分かりたくない。だけど、本当はどうしようもなく理解している。
「リディア、君が聖女になって私は本当に……良かったと思っているよ」
「……は、い……」
「受け入れ難いことだろうね。それはよく分かる」
「……」
「だけど、その役目を果たしてほしい」
真摯な眼差しに否やを唱えるのは難しいだろう。実際、何も言えなかった。
「彼女たちが守ろうとした、君という存在を否定しないでくれ」
そう言われてしまえばどうしようもなく、零れる涙をそのままに是も否も返せず目を伏せるしかなかった。
すると、頬の上を何かが滑る。抑えることのできなかった涙に視界を奪われてぼんやりと見やれば、再び、アルファド様の指が私の頬に触れた。
これほど近い距離にいることに、ついさっきまで動揺していたというのに。今は何となく受け入れてしまっている。
誰かに、傍に居てもらうといことがこれほどに心強いものだったということを、ようやく思い出した気がする。
ヒビ割れていく体を洗面台の化粧鏡で眺めていたそのとき。
私はどうしようもなく独りきりだった。
温もりを求めたところでそこには誰もおらず、聖女候補たちと集団生活していた頃が夢か幻だったかのように思えた。侍女や侍従は世間話をする間柄ではなく、聖女候補から外れてしまえば彼らは気軽に話しかけてはならない人間となった。
だから私は、狭い部屋の中でただ朽ちるのを待っていた気がする。
仕事を終えて部屋に帰って、疲れきった体では身動きすることさえ億劫で。
椅子に座ったまま何時間も動かないことだってあった。考え事さえとうにに尽きて、うまく働かない頭で思い出すのは昔のことばかり。
目を閉じれば、もしかしたらその残像くらいには会えるのではないかと、聖女候補たちの顔を思い浮かべようとするけれど夢の中でさえ会えなかった。
会いたいと願えば願うほど、その声を聞きたいと思えば思うほど、存在が遠ざかっていく。
幸福な夢も、悲しい夢も、何も見ない。
ただ暗い場所に落ちていくだけ。
だから私は今、これほどに独りではないことを実感している。
優しく頬を滑っていた指が、今度は私の髪をさらった。
彼が小さく嘆息するのをすぐ傍で見つめる。やがて小さく笑みを零したアルファド様が言った。
「……聖女召喚は、少なくとも君を守る手段になると思っていた……」
「……守る?」
「ああ」
しかし、アルファド様は口を噤む。職務上、言えないことがあるかもしれない。何せこの聖女召喚は皇宮側が主導で行ったことだからだ。
「詳しいことは言えない、が」
「は、い」
「殿下はとても聡いお方だ。恐らく、君が思っている以上に多くのことを知っている」
「……」
「この聖女召喚が間違いだったと言えないが、君をこれほどに追い詰めてしまったのは完全にこちら側の落ち度だ。本当に……すまない……」
真実、苦しそうに頭を下げたアルファド様に何と言葉を返せば良いか分からない。
確かに殿下は言っていた。
『僕は僕なりに、アルファドはアルファドなりに、君の為になることをするつもりだった』と。
今回の聖女召喚が何もかも自分の為だったとは当然思っていない。関係各所の協力を得たというのなら、それだけ様々な利権が絡んでいたということだ。
殿下が何を考えて、どんなことを思い、この聖女召喚を実行に移したのかは分からない。
だけど、きっとアルファド様の言う通りに、聖女候補が何たるかに気付いていたのだろう。
「……君たちは君たちでもっと言葉を交わす必要があるかもしれないね」
何の返事もできずにいる私に助け舟を出したのは神官長だった。
「心を通わせるというのは本当に難しい。ただ思い合っているだけでは駄目だと、私は思うよ」
それで……、と神官長はちらりとアルファド様を見た。
「話というのはこれだけではないのでしょう?」
首を傾いだ神官長に、アルファド様は握ったままの手に力を込めた。ややあって、「彼女をここから連れ出します」と断言する。
「……それは、すぐに?」
「ええ、荷物は既にまとめてあります。元々、彼女の持ち物は少ないですから」
突然の成り行きに「……どういうことですか?」と口を挟む。
神官長に挑むような眼差しを向けていたアルファド様は一瞬こちらを見たけれど、それ以上説明する気はなさそうだった。
「彼女がここから出られなかったのは聖女候補であったからで、聖女様……異世界からの客人の補佐をする必要があったからでしょう。そうであるなら、彼女はもうここから出られるはずです」
アルファド様は至極、強い口調だった。物言いは穏やかであったと思う。だけど、異論は許さないとでも言いたげだった。
神官長は「聖女がここから出られるのは正式に婚姻関係を結んだ後ですよ」と困ったように笑う。
すると、アルファド様は握っていた手を離してそのまま隊服の内ポケットから何かを引き抜いた。
指に挟まれたそれは折りたたまれた書面である。
それを応接台の上に広げた。
その刹那は何なのか分からなかったけれど、じっくりと確認すれば、乱れ一つない筆跡でアルファド様の名が刻まれている。
その上の文章は、紛れもなく婚姻の誓いを示すものだった。
アルファド様の名前の横は空白だ。
「……用意周到ですね」
書面を取り上げた神官長がその細い指で文章を辿りながらぼそぼそと読み上げる。
「第一皇子殿下の後押しがあるのなら、大神殿も文句は言えないでしょう」
大きく息を吐き出した彼はそのまま脱力したようにソファの背もたれに半身を預けた。
いつも隙なく正しい姿勢を保っている彼にしては珍しい挙動だ。僅かに目を瞠って眺めていれば、
「誰かが君をここから連れ出してくれれば良いと思っていた」そんなことはできないだろうと知りながら、いつもそれを願っていたのだと視線を落とす。
その顔には濃い疲労が浮かんでいた。
寸の間沈黙した後、立ち上がって書類が散乱している事務机のほうに歩いていく。
その背中で揺れる色素の薄い髪を眺めながら、これは本当に現実なのかと首を捻る自分がいることに気付いた。
これほどに鮮明で。これほどにはっきりと現実味を帯びているのに。まるで儚い夢の中に居るような心地がする。
本当は今でも、眠り続けているのではないだろうか。
いっそ、そのほうがずっと納得できる。
「―――――はい、リディア」
ふいに視界に落ちた影。顔を上げれば差し出される羽ペン。
いつの間に用意したのか応接台の上にはインクも用意されていた。
「?」
差し出されるままに受け取って呆然としていれば、指でアルファド様の横の空欄を指される。
「ここに署名すれば君たちは晴れて夫婦となる」
だから、さあどうぞ。と言われても、さすがに躊躇われた。
ペンを持ったまま固まっていれば
「何を考えることがあるんだ」と横から声が掛かった。
ペン先にインクを浸してアルファド様の名前の横に、指を持ってくる。このままペンを落として名前を書くのは簡単だ。だけど、本当にそれをしても良いのか戸惑う。
何しろ、自分が聖女になったということさえ信じ難いのだから。
失くしたと思っていたものが突然、この手に返って来た。
それを素直に喜んで良いものか分からない。
染み一つない誓約書は、見るからに上質な紙を使っているのが分かる。そこに、私の持つペン先からぽたりとインクが落ちる。
汚してしまったと反射的に指を引いた。
「……リディア、君には拒否権などない」
その言葉自体は決して優しいものではなかったけれど、声音は柔らかだ。もちろん、これが自分の意思ではどうにもならないことだと知っている。聖女候補であったときに婚約していたのと同じだ。何の後ろ盾もない私にはアルファド様のような人が必要であり、これはいわゆる契約なのだ。
改めて深く息を吸い込み、名前を記す。
これが大神殿に受理されれば私たちは夫婦となる。
「それじゃぁこれは私が預かっておこう」
書面を確認した神官長が一つ肯く。
「……しかし、式よりも先にサインするなんて初めてだね」と朗らかに笑った。




