10
「ああ、大変。貴女、こっちに来っちゃたのね」
沈んでいるか浮かんでいるのか、もしくは漂っているのか停止しているのか。
肉体の感覚はもうどこにもない。
痛む体を離れればそこにあるのは意識だけで、臭いもないし感触もない。
視界は塞がれているのか、そもそも初めから何も見ていないのか。
暗いのか明るいのかそれさえもよく分からない。
ただ誰かの声だけがはっきりと聞こえた。
「可愛いリディア」
ああ、この声は。
「可愛い、リディア」
「私の」
「私たちの」
「可愛いリディア」
「可哀想なリディア」
幼い頃、広い神殿でどこか分からない場所に迷い込んだとき。聖女候補総出で捜してくれたことがあった。
不安で泣き出しそうになっている私を一番上の聖女候補が、ほっと息をつきながら抱き上げてくれたことを思い出す。彼女自身も子供だったから、その体格差で抱き上げるのは大変だったろう。
だけど、その小さな手で足をよろめかせながらも抱き上げてくれた。
大丈夫、大丈夫。と何度も繰り返しながら背中を叩く優しい手。
その手に縋るようにして、私はとうとう泣き出した。
その温もりは、ずっと前に失ったものだったから。
―――――病死だろうと言われた妹を荼毘に付したその日を覚えている。
土にそのまま埋めるのは衛生的に問題があるだろうと村人が言うので火葬することになった。
いつまでもそれを抱きしめて離さない母の腕から、姉が奪うようにして抱き上げた白い塊。
誰にも見せたくないと母が主張するから、妹の体は白い布によって厳重に包まれていた。
赤ん坊くらいの大きさしかないそれに違和感など抱かなかったけれど。今思えば、どれほど異常なことかが分かる。
あまりに小さい。
栄養が足りず、また病を得ていたせいで成長することができなかった。
これでやっと生きる苦しみから解放されたのだから、あの子にとっては良かったのかもしれないよと、両親を励ましていたのは我が家よりも少しだけ裕福な親戚だ。
泣きながら何度も頷く母は、その言葉に納得していたわけではない。
そうであることを祈っていたのだと思う。
苦しかったでしょう、ごめんね。と囁く母の声は集まった村人たちの涙を誘い、兄弟たちの嗚咽を呼んだ。私はそれを、一番上の姉の腕から眺めていた。
妹は死んだ。
それはよく分かった。だけど、死というものを完全に理解するには幼すぎて。
よく燃えるようにと拾い集めた薪はどこか頼りなく、木々さえも飢えているのだと、そう感じていた。
食物も育たない痩せた大地には、ぽつりぽつりと枯れ木が群生しているだけで、燃料の代わりとなるものが他には何もない。
乱雑に積み重ねた組木に、妹の体を乗せた。
可哀想だった。
何だかとても可哀想だった。
いつの日か目にした村人の葬式では、たくさんの花が用意されていた。ちょうど野花の咲く季節だったからなのか、手折られた花がたくさん棺の中に収められていた。
なのに。
私の妹は、こんな枯れ枝と共に逝くのだ。
寂しそう。
ぱちぱちと燃える炎が熱く、冷たく、私の頬をきる。
その間、風の音さえしなかった。
誰も声を発することなく、ただ、大きな炎が妹を焼き尽くす音だけが静かに響いていた。
そんな中、ごうごうと燃える赤い火の向こうに家族の顔が映し出される。
泣いているような怒っているようなしわくちゃの顔をしていた。まるで得体の知れない生き物がそこに居るみたいだ。怖い顔。彼らに包囲された妹はこれからどこに行くのだろう。
火が消えて残されたのは、妹の欠片である。
たったこれだけしかないと思うほどに、彼女を構成していたものは少なかった。
それを家族全員で拾い上げ、小さな瓶の中に集めた。
ほとんどの骨が拾い上げた途端に、ぼろりと崩れて落ちる。脆く、崩れやすい。
栄養の行き届いていない骨は、それだけで、あの子は普通に育つことができなかったのだと教えてくれる。
可哀想にねぇと他人事のように呟いたのは親戚だ。少しもそんなことは思っていないような声音で、何度も何度も可哀想だと呟く。
やがて、骨の中から指で妹の歯を拾った父が、獣のような声を上げて泣いた。
小さな歯。可愛い歯。笑ったときに覗く、あの子の歯。
なんで。
どうして。
間近で見ていた母は、両手でさえ余るほど小さい瓶を抱えたまま卒倒した。
転がってもなお妹を離さない母に走りよった兄弟たち。その姿を、姉の腕の中から見ていた。
姉がなぜか、絶対に離してくれなかったから。
扉から引き剥がされたときと同じように、姉の腕はずっと震えていた。
怖かったのだろうか。悲しかったのだろうか。それとも、怒っていたのだろうか。答えは知らない。
ごめんね、私、たすけてあげられなかった。
呟いたのは誰だっただろうか。
その日からだ。母が私に触れなくなったのは。
もしかしたら姉が、あのとき、私が廊下から全てを見ていたことを教えたのかもしれない。
だからなのか。母は、私を見るとどこか怯えた顔をするようになった。
優しい声、優しい眼差し、いつもと変わらない様子。だけど私を恐れていた。
私の名を呼ぶ声は微かに揺れて、その眼差しは慈愛とは別の何かを含む。
目撃者である私の中に、己の罪を見つけるのかもしない。
私の存在は、母にとっての「罪の象徴」となった。
母だけじゃない。
父も、他の兄弟たちも、こちらに向ける優しげな面差しの向こうでいつも何か別のことを思っていた。
撫でるために頭上に伸ばされたはずの手が、触れる瞬間に躊躇う。
顔を上げれば、明らかに戸惑った様子の兄姉が居て。痩せた顔に暗い影が落ちた。
私の存在が、彼らに不安を呼び起こす。
妹のことを思い出すのか。あるいは、今後の生活を考えて、一人余分だと思うのか。
それでも私は。
温もりがほしかった。誰かの庇護と愛情を必要とするほどに幼かったのだ。
だから両親に、あるいは姉や兄に何度も手を伸ばそうとした。
けれども、うまくいかない。私の指はもう、家族の手を掴むことができなくなっていた。
拒絶されるのが怖い。想像してしまうともう駄目だった。
一つ確実なのは、通じ合っていたはずの心はもう、そこになかったということ。
あの日。
妹を失ったその日に、私は家族そのものを失ったのだろう。
私は幼く、理解力も乏しかったけれど。
知っていることもあった。
母は私を避けていたし、父はどこか素っ気無い。
他の兄弟たちは前とはどこか違って、家の中は重苦しい雰囲気が漂う。暗く、笑い声も干からびて聞こえる。
本当は多分、何もかもに気づいていた。
貧しかったけれど、それでも懸命に生きていた日々は、いつの間にか失われていた。
小さな小さな妹を犠牲にして生き延びた私たち。
妹は病死したと、周囲の人間だけでなく家族や自分自身さえも欺いて。そうして普通を装った日常はじわじわと私たちを追い詰めていた。
天啓を受けたその日。
母は大声で泣き伏した。
娘が聖女候補に選ばれたからでも、その娘を神殿に引き渡すことになるからでもない。
『何で、もっと早くに……天啓が下りなかったの、もっと、もっと早ければ、あの子を、あの子を、』
―――――あの子を殺さずに済んだのに……!!
身を裂かれるような悲鳴の中で、母は確かにそう言った。
言葉にならない支離滅裂な泣き声で、村人には理解できなかったに違いない。
だけど、私たち家族だけがその言葉の意味を正しく理解していた。
母は後悔していたのだ。
母だけじゃない。父も、他の兄弟たちも、私自身も。
あれは仕方ないことだったのだと言い聞かせながら、死ぬほど後悔していた。
妹が亡くなったと聞かされた早朝、兄弟たちは誰も声を上げなかった。恐らく、何が起こったのか気づいていたのだろう。
父はあのとき、家族全員の前で頭を下げた。すまない、と。何に対する謝罪なのか、何の説明もないまま、ただ一言、罪を告白するかのように吐き出した。
そして、顔を伏せたまま、ぽつりと涙を落としたのだ。
だというのに。
もしも天啓が下らなければ、妹の次は私の番だっただろうことが分かる。
それほどに、追い詰められていたのだ。
このままでは冬を越えられないと泣く母を、家族全員が生き残るのは難しいだろうと両手を震わせた父を、また家族を犠牲にするのかと憤っていた兄弟たちの姿がこの目に焼きついている。
誰か一人が犠牲になれば、他の誰かが生き延びる。そんな危うい均衡の中で生きていた。
だけどそれは、世界の底辺で生きている人間にとっては当たり前のことで。
死ぬほど後悔して、呼吸もままならなくなると分かっているのに、道を選べない。
自分が生き残るために、もしくは他の誰かを生かすために。最も弱い者から間引かれていく。
だから。
天啓を受けた私は、喜ぶべきなのだ。
神に選ばれたと。これで死なずに済んだと。
そうすることができないのは。
もっと天啓が早ければ。もっと早くに神殿から遣いが来れば。もっと早く、お金が手に入っていれば。もっと違う現実があったかもしれないと思わずにはいられないからだ。
―――――私にも家族を、妹を、救えたかもしれない。
「いいえ、リディア。それは違う」
「そうよ、それは違う」
「貴女のせいじゃない」
「貴女はもう充分、よくやったわ」
いいえ違う。
私は足りなかった。全然、足りなかった。
誰かを救うなんて、そんなことできるはずがなかった。
私は、誰にも必要とされなかった。
誰にも、この手を掴んでもらえなかった。
「いいえ、リディア。それも違う」
「気づいていないだけ」
「気づこうとしないだけ」
「気づきたくないだけ」
「まだ早いわ、リディア。こちらに来るのはまだ早い」
いや。
「リディア」
いや。
私はもう、戻りたくない。
いつだって瀬戸際で生かされてきた命だ。
必要だったわけじゃない。
誰かに必要とされて生かされたわけじゃない。
偶然だ。偶々、天啓が下っただけ。
偶々、そこに私が居ただけ。偶々、最期まで生き残っただけ。私である必要なんてどこにもなかった。
だから。
だから。
異世界から聖女様が召喚されたのだ。
「違うわ、リディア」
「違うのよ、リディア」
違わない。違わない。何一つ違わない。
否定の言葉がぐるぐる巡るのに、言葉にできない。
あれほど煩わしかったはずの肉体がなければ、私は声を出すこともできない。彼女たちと話ができるのは今この瞬間だけだと分かるのに。
何一つ、伝えられないのだ。
「可愛いリディア。可哀想なリディア」
「私たちが最期に何を望んだのか知っている?」
知らない。
知らない。
私は何も知らない。
私一人、何も知らされなかった。
「じゃぁお願いよ。どうか知っていて」
「私は、」
「私たちは、」




