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「―――――魔獣が出た……!!」
そんなある日に落とされる爆弾。
聖女様不在の神殿に響く誰かの叫び声と警告音。
ガンガンと鳴り響く鐘の音は、ただちに神殿内を厳戒態勢に導いた。
不安げに上空を見上げる神官は、結界がきちんと働いているのかを確認しているのだろう。
戦闘部員が圧倒的に少ない神殿内では、魔獣に一歩踏み込まれてしまえば抵抗する術さえないに等しい。
結界が働いている限りは、聖域である神殿内に侵入することはできないだろうが、それでも警戒を怠ることはできない。相手は何せ、人ではない。何が起こるのか分からないのだ。
それでも、頭のどこは冷静で、いま干したばかりの洗濯物を取り込もうと慌てて動く。焦っていたので、シーツを一枚、取りこぼしてしまった。
また、洗い直さなければ。つい、ため息が出る。
「すぐ近くの街が襲われているらしい……!」
数多の怪我人と死者が出ていると、遠くのほうで誰かが誰かに説明している。その声を聞きながら、両手から溢れるほどの洗濯物を抱えていれば、突然、肩を掴まれた。
強い力に体が悲鳴を上げて、全て落としてしまう。
真っ白な生地が汚泥を吸い上げて、黒く染まる。「あ」と小さな悲鳴を上げるのに、拾ってくれる人はいない。
侍従らしき男は狼狽した様子で私の顔を確認し、ほっと息を落とした。
「良かった、代わりがいた……!」
ほとんど引きずられるようにして神殿内に戻される。その間、聖女様がちょうどご不在なのだと説明された。視界の隅に映った洗濯物が風に飛ばされ、薄曇りの空で円を描く。
あれを取りに行くのも私の仕事だが、もしかしたらもう、この場には戻れないかもしれないという予感がした。
私の役目は怪我をした人のために祈りを捧げることだ。
魔獣による怪我は汚染されているので聖女の祈りで浄化しなければならない。
怪我そのものを治すことはできないが、浄化しないと、魔獣の魔素により悪化してしまう。じわじわと腐食していく皮膚は、軟膏を塗るだけでは完治しない。
ゆえに、本来は信徒しか足を踏み入れることのできない大聖堂に、次から次へと怪我人が運ばれてくる。
付き添いの人が私の顔をちらりと見て「……何で聖女様はいないんだよ!」と吐き捨てていった。
聖女候補の衣装さえ纏っていない今、私は、彼らの目にどんな風に映っているのだろう。
被害妄想かもしれないが、ただの洗濯女に何ができると責められているような気がした。
侍従は、周囲の目などお構いなしに私を引きずってどかどかと歩く。そして、祭壇の前で踏み倒すようにして膝を付かせた。
まるで、神を前にして頭を垂れる罪人のように。
「早くしろ」とせっつかれて、体勢を整える。
その間にも、背後では痛みに呻く怪我人の声がしていた。
阿鼻叫喚というのは、まさしくこのことかもしれない。
「聖女様はどこなのよ……!!」
泣き声のような、悲鳴にも似た声に背を押されて、顔の前で両手を合わる。
祝詞。祝詞。
祈らなければ。
思い出す必要もなかった。頭の中にぽかりぽかりと浮かぶ祝詞が、するすると流れるように口から出て行った。
常人には意味のない言葉の羅列として響くらしい。だけれども、私たち聖女候補には、その言葉の意味がよく分かる。
この国に安寧と平和を。人々へ愛と優しさと心の安らぎを。
『私たちは、いつも誰かのことを願ってばかりね』と、キリエが笑っていたのを思い出す。
それで良いのだと思い込んでいたその頃、私たちは、いつまでも一緒に居られるのだと信じていた。
握った手は、いつまでも離すことなく。傍に居られるものだと。
「―――――誰か、誰か、誰か助けて!」
叫び声に揺り起こされるように、伏せていた目を上げれば、祝詞を捧げている私を一瞥して失望した顔をする怪我人たち。
実際、私の力が圧倒的に足りていないことは、誰の目に見ても明らかだった。
私が祈りを捧げている間にも、魔獣に穿たれた傷跡が黒く淀んでいく。皮膚が腐りかけている。
ざわめきは大きくなり、只ひたすらに祈ることしかできない私を飲み込むようだ。
「……聖女様を呼んで来て!」
「聖女様はどこなの!」という叫び声が、お前など必要ないのだと言っているように聞こえる。
足りない。足りない。
私では助けられない。
聖女様がただ一度口にすれば良いだけの祝詞も、狂ったように何度も何度も唱えなければ効果が現れない。
苦しい。
苦しい。
息ができない。
途切れさせてしまえば、その間にも汚染が広まる。だから、息継ぎすることさえままならない。
胸の前で合わせた指先がぼろぼろと崩れていくのが分かる。光を纏うように、ガラスの欠片のようなものが腕を滑って床に落ちていく。見覚えのあるその光景に胸が迫る。
床に着いた足の感覚はとうにない。
今こうして、祈りの姿勢を保てているのが不思議なほどだ。
頭が熱い。沸騰する。
神様。
神様。
何で。
何で、私だったのですか。
「あぁあぁあ!! 私の腕が! 腕がぁ!」
―――――叫んだのは、自分かと思った。
だけど、私の唇は未だ変わらず勝手に祝詞を唱えている。
無意識にも、できている。だとするなら、声を上げたのは大聖堂に運び込まれた怪我人の一人だ。
助けて、と叫ぶ声が、聖堂の中に反響していた。
気づけば、祈りを捧げる私のすぐ傍で、幾人もの怪我人が呻き、藻掻いている。
「……何で、何で、こんな奴しかいないんだ……!!」
その言葉が、己に向けられたものだと知っていた。
私のせいで人が死ぬ。私には彼らを助けられるほどの力がない。
せめて他の聖女候補がここに居たならもう少し状況は違っただろう。
一人よりも二人、二人よりも三人。そうやって皆で祈りを捧げることにより聖女不在の空白を埋めていた。なのに、最終的に残ったのは私一人だけだったのだ。
異世界から聖女様を召喚することになったのは、そういう様々な要因が重なったからだった。
私一人ではどうにもならないことを、誰もがよく理解していた。
全てが、異世界から聖女様を呼び寄せる為の布石だったのだと言えるかもしれない。
『可愛いリディア、可哀想なリディア……』
最期のあの日。彼女は言った。
『貴女を、独りだけ残して逝きたくない―――――』
もう既に、自分の死期を悟っていた。
私も。私だって、独り残されるのは怖かった。
一人、また一人と崩壊する仲間を見送って、私じゃなかった私じゃなくて良かったと思う一方、取り残されるかもしれない現実に怯えていた。
私も一緒にいきたい。
置いていかないで。
喉元までせりあがってきた声はただの一度も言葉にはならなかった。
口にしてはいけない言葉だと、知っていたから。
「―――――すみません、遅くなってしまって……!!」
やがて、天啓のように響く、聖女様の声。
「良かった!聖女様が来られた!!」
「聖女様!」
「聖女様!」
沸き立つ大聖堂。
背中から押し寄せる歓喜の声。
今なら聖女様に、この国にとっていかに聖女が大切な存在なのかを説くことができる。
だけど、それなのに。
もう言葉が出ない。言葉は出ないのに、吐き出される祝詞が止まらない。
「もう良いんだよ」そう言ったのは神官長だっただろうか。
もしくは、誰もそんなことは言ってくれなかったかもしれない。
ああ、もう駄目だ。
私はもう駄目だ。
……良かった。
良かった。
もう、ここに居なくても済む。
もう、何も見なくて済む。
「―――――リディア……!!」
最期に聞いたのは、誰かが私を呼ぶ声。




