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マブイ0の不死鳥 ~上田通彦、事故前夜~

第一章:残響の「0」

1989年、冬。群馬の前橋競艇場。

この夜、上田通彦という名の若き新星は一度死に、そして「不死鳥」として呪われた産声を上げた。

1. 砕け散った「持てる者」の矜持

当時の通彦は、絵に描いたような天才だった。

デビューから3年、コアマブイ8,000に外付け5,000を上乗せした「1万超え」の出力は、からくり機艇を軽々と水面から浮かせ、他を圧倒する加速を生んでいた。

「マブイさえあれば、何でもできる」

若さゆえの慢心は、冷たい赤城おろしの突風に紛れていた。

運命の12レース、優勝戦。

第1ターンマーク。通彦は最内を突く「差し」の構えに入る。しかし、想定以上の突風が艇を叩いた。

「ッ……浮くか!?」

一瞬、マブイの制御が遅れた。艇の底が空気を掴み、機体は木の葉のように舞い上がった。

視界が回転し、空と湖面が入れ替わる。

その直後、後続艇が全力で旋回してくる音が聞こえた。

「止ま——」

言葉を飲み込む間もなかった。

凄まじい衝撃と共に、鋼鉄のプロペラが通彦のヘルメットを粉砕し、そのまま彼の顔面を縦に切り裂いた。

2. 魂の消失

病院の集中治療室。

顔面に75針。まぶたから顎までを縫い合わせた通彦の顔は、包帯に覆われ、もはや誰だか判別すらつかなかった。

だが、肉体の痛み以上に彼を戦慄させたのは、内側に広がる**「空洞」**だった。

この世界において、マブイとは魂の輝きであり、生きる燃料だ。

プロペラに魂そのものを削り取られたかのように、彼の胸の奥にあった熱いマブイの源泉は、完全に枯渇していた。

ベッドの横に置かれた測定器が、無機質な電子音を鳴らす。

【CORE MABUI : 0 / EXTRA : 0】

「……これでは、もう……」

付き添っていた医師が、沈痛な面持ちで首を振る。

からくり機艇は、マブイを動力源とする。0の人間がレバーを握っても、それはただの鉄の塊に過ぎない。

「喋るな、通彦。少しでも顔を動かせば、形が崩れるぞ」

医師の制止を無視し、通彦は動かない指でシーツを掴んだ。

3. 「20年」という血の契約

その時、病室のドアが開き、一人の男が入ってきた。通彦の父である。

父は、測定器の「0」という数字と、包帯に血を滲ませた息子の姿を黙って見つめた。

「通彦、聞け」

父の声は、慰めではなく、鋭い刃のように通彦の鼓膜を打った。

「マブイが消えたのは、お前が魂に甘えていたからだ。機体と一つにならず、出力という『数字』で走っていた報いだ」

通彦は包帯の間から、唯一見える瞳で父を睨んだ。

「……マブイが……なけ、れば……」

「黙れ。顔が壊れると言われたはずだ」

父は通彦の枕元に、教習所時代の古い教本を置いた。

「マブイがなくなったなら、魂以外で勝て。技術を、読みを、狂気を研ぎ澄ませろ。それができぬなら、ここで死んでいろ」

父は踵を返し、去り際に一言だけ残した。

「命懸けで、20年走れ。それでお前の人生は終わりだ」

20年。

マブイを失った抜け殻の体に許された、最後にして唯一の猶予。

通彦は暗闇の中で、動かない右手を見つめた。プロペラに掠め取られた指の感覚はまだ戻らない。

(0なら……0で勝つ方法を、地獄で探してやる)

この夜、前橋の夜風が包帯の隙間を吹き抜けた。

からくり競艇の歴史上、最も「静かで、最も冷酷な」レーサーが誕生した瞬間だった。


第二章:静寂の再起

事故から半年。1989年、初夏。

桐生の水面は、あの日と同じように揺れていた。しかし、そこに帰ってきた男は、以前とは別人のような「何か」を纏っていた。

1. 「幽霊」の帰還

「3号艇、上田通彦、ピット離れ!」

実況の声が響くが、スタンドの観客席はどこか冷ややかだった。

事故の凄惨さは誰もが知っている。顔面に刻まれた生々しい傷跡を隠すようにヘルメットを被った通彦に対し、ファンは期待よりも同情、あるいは「もう無理だ」という諦念を抱いていた。

何より、対戦相手のパイロットたちは鼻で笑っていた。

「マブイ計がピクリとも動いちゃいねえ。あんな『空っぽの殻』が、からくりを動かせるわけがない」

スタートラインへ向かうスリット。

通彦のマブイ数値は、相変わらず**【0】**を指したままだ。

だが、彼はかつてないほど鋭敏に、世界の断片を拾い上げていた。

水面を走る波の波長(周波数)。

エンジンの排気がもたらす微かな振動。

風が頬の縫合痕を撫でる角度。

「マブイがないなら、機械に『お願い』はできない。なら、物理法則を俺の奴隷にするだけだ」

2. 精密なる「まくり差し」

「12レース、スタートしました!」

通彦のスタートは、他の5艇に比べて明らかに遅れた。マブイによる瞬間的な爆発力ロケットスタートが使えないため、当然の「後方」だった。

「やっぱり終わりだな」

観客が溜息を吐いたその時、通彦の視界には「ライン」が見えていた。

他の選手たちが過剰なマブイを水面に叩きつけ、波を乱している。

その乱れた波と波の間に、わずか数センチだけ、水面が静止する「道」がある。

第1ターンマーク。

通彦は艇を極限まで傾け、機体の一部を水面に食い込ませた。

マブイで強引に曲がるのではなく、遠心力と水の抵抗を完璧に調和させる、まるで精密機械のような旋回。

「……そこだ」

内側の艇が競り合い、外側の艇が膨らんだその一瞬の隙間——針の穴を通すような角度で、通彦の3号艇が滑り込んだ。

「まくり差しッ! 上田、一気に2番手まで上がってきた!」

3. 「0」が「1」を掴む瞬間

最終周、第2マーク。

先頭を走る1号艇は、圧倒的なマブイ量を誇るベテランだった。

「抜かせん! マブイ全開!」

1号艇が咆哮し、水面を爆発させるようなターボ加速を見せる。

だが、通彦は動じない。

彼は相手の排気圧を利用し、その「引き波」に自分の艇を乗せた。

サーフィンに近い、自然エネルギーの略奪。

直線に入った瞬間、通彦はレバーをミリ単位で調整し、エンジンの回転数を「物理的な限界点」で固定した。

ゴールライン直前。

音もなく、ただ鋭く伸びた3号艇のバウが、1号艇をハナ差で捉えた。

「……1着、3号艇……上田通彦、逆転! 奇跡の復帰1着です!!」

4. 曝け出された「執念」

ゴールを駆け抜けた瞬間、場内は静まり返った。

誰もが、何が起きたのか理解できなかった。マブイ0の「死人」が、現役の強豪を技術だけでねじ伏せたのだ。

大歓声が沸き起こる中、通彦はゆっくりとピットに戻り、ヘルメットを脱いだ。

そこには、75針の縫合痕が赤黒く走る、凄惨で、しかし誇り高い「不死鳥」の顔があった。

彼は、スタンドを埋め尽くす観客と、呆然とする対戦相手たちを見据えて言い放った。

「マブイが0でも……俺は走る。魂の量なんて関係ない。勝つのは、『意志の質』だ」

その声は震えていなかった。

これこそが、その後20年続く「不死鳥伝説」の、第一歩だった。


第三章:黄金の残像

復帰戦の勝利は、単なる奇跡の始まりに過ぎなかった。

そこから始まった20年間、上田通彦は「マブイなき頂点」という、この世界の理を覆す伝説を積み上げていく。

1. 狂気の勝率:98%の領域

通算1,100戦1,080勝。

その異常な勝率は、競艇界の常識を破壊した。

他のレーサーが「今日はマブイの調子が悪い」「バイオリズムが合わない」とこぼす中、通彦だけは常に一定の「絶対零度」で水面に君臨した。

マブイがない彼にとって、調子の波など存在しなかった。あるのは、徹頭徹尾、数学的に導き出された「勝利への最短ルート」のみ。

彼はピット離れからゴール板まで、一秒の狂いもなく世界を支配し続けた。

2. SG初優勝:精密の極致

初のSG制覇。優勝戦の1マーク、通彦が見せたのは後に「零式ゼロしき旋回」と呼ばれる神業だった。

全艇がマブイを爆発させて旋回する中、通彦の艇だけが吸い付くようにターンマークを掠めた。その距離、わずか3ミリ。

「マブイの火花を散らすな。水の粒子を撫でろ」

その一撃で、並み居るSS級パイロットたちは戦意を喪失した。魂の出力で負けていても、技術の純度で彼は彼らを凌駕していた。

3. グランドスラム3回という「絶景」

全SG制覇。それを一度ならず三度まで達成した男は、歴史上彼しかいない。

賞金王に3度輝き、年間獲得賞金は2億円を突破。

表彰台に立つ彼の顔には、常にあの凄惨な縫合痕があった。

「俺は持たざる者だ。だからこそ、誰よりも深く、機体の叫びに耳を澄ませてきた」

その言葉は、マブイ量に依存する現代のからくり乗りたちへの、痛烈な皮肉でもあった。

4. 削り取られる20年

彼は常に公言していた。「俺のレース人生は20年で終わる」と。

マブイによる自己修復能力を持たない通彦の肉体は、走るたびに、勝つたびに、確実に磨り減っていった。

プロペラに切り裂かれた指先は冬になるたびに疼き、顔の傷跡は激しい旋回のG(重力)に耐えかねて時折血を滲ませた。

ファンは彼を「不死鳥」と呼び、崇めたが、実態は違った。

彼は死なない鳥ではなく、**「死んでいるはずの時間を、執念だけで繋ぎ止めている」**一人の人間だったのだ。

「あと、10年」

「あと、3年」

「あと、1日」

カレンダーに×印をつけるように、彼は勝利を積み上げる。

それは栄光の記録であると同時に、彼が自分の魂を完全に使い切るまでの、カウントダウンでもあった。


最終章:不死鳥、灰へ還り、空へ舞う

2007年。あの日から、ちょうど20年。

上田通彦のレーサー人生、その最終周回が目前に迫っていた。

1. 0.01秒の潔さ

最後の大舞台、SG優勝戦。

満身創痍の肉体、感覚の消えかけた指先。通彦はマブイ計を一度も見ることなく、スリットへと突っ込んだ。

「上田、行った!! 渾身の全速スタート!!」

実況が絶叫する。

だが、その刹那、判定板に無情なランプが灯った。

【フライング:-0.01】

わずか100分の1秒。機械すら捉えきれない、まばたきより短い時間のズレ。

通常なら絶望し、立ち直れないほどのミス。しかし、ヘルメットの中で通彦は、あの日以来初めて「穏やかに」笑っていた。

「……20年か。きっちり使い切ったな」

規定により失格。着順は2着。

記録上の優勝は逃したが、ピットに戻ってきた通彦を待っていたのは、数万人の観客による地鳴りのような「上田コール」だった。

「上田! 大丈夫か!」「まだ走れるぞ!」「辞めないでくれ!」

マブイを一切持たない男が、数万人の魂を揺さぶっていた。

2. 魂の約束

表彰台に立った通彦は、優勝者に勝るほどの拍手を浴びていた。

マイクを向けられた彼は、あの日、父と交わした「血の契約」を思い出す。

顔面の縫合痕は、もはや醜い傷ではなく、彼が戦い抜いた勲章のように夕陽を反射していた。

「20年。……約束通りやな」

独り言のように呟いたその言葉に、彼を支え続けた父(または師匠)だけが静かに頷いた。

彼はそれ以上、何も語らなかった。ただ深く一礼し、マブイ0のまま、伝説のレーサーとしての幕を引いた。

3. 大宮機艇教習所の「壁」

数年後。

大宮機艇教習所の講堂には、新入生たちの希望に満ちた、そして少しばかり慢心を含んだ「マブイ」の匂いが充満していた。

教壇に立つのは、かつて「不死鳥」と呼ばれた男。

彼は今、教官として、未来のパイロットたちの前に立っている。

「いいか、若造ども」

通彦は、自分の右頬を走る深い縫合痕と、プロペラに掠め取られたままの指先を、わざと隠さずに指し示した。

生徒たちが息を呑む。誠やあかり、真琴たちが、その迫力に圧倒されて沈黙する。

「俺は、事故であの日マブイを全て失った。コアも外付けも、お前らが持っているようなキラキラしたエネルギーは、俺の中には一滴も残っていない」

彼は一歩前に出た。

「だが、俺はマブイ0でここまで来た。SGを獲り、頂点に立った。それは、魂の『量』に甘えず、技術という名の『質』に命を懸けたからだ」

鋭い眼光が、生徒一人ひとりの魂を射抜く。

「お前らは、恵まれている。だが、そのマブイを無駄にするな。

マブイがあるから勝てるんじゃない。マブイを使い切る『意志』があるから勝てるんだ」

「魂を賭けて、走れ。……それ以外に、レーサーが生きる道はない」

その言葉は、教習所の冷たい空気の中で、消えない火花となって生徒たちの心に飛び火した。

「持たざる者」が「持つ者」に教える、究極の魂。

大宮機艇教習所に、新たなる不死鳥の雛たちが産声を上げようとしていた。

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