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第8話「夜会の壁は厚くない」

 王城の大広間は、今夜ばかりは戦場ではなく、煌びやかな社交の場となっていた。

 建国記念の祝賀夜会。

 国中の貴族が集まり、グラスを片手に談笑し、ダンスに興じる。空気中には香水とフェロモンが入り混じり、むせ返るような甘ったるい熱気が漂っている。

 もちろん、俺ことルシアンにとっては「換気の悪い満員電車」となんら変わりない。


「ルシアン、シャンパンを」

「ルシアン、あそこの令嬢の視線を遮れ」

「ルシアン、扇子」


 俺は壁際で黒子のように待機しているはずが、ひっきりなしに三方向から呼び出される。

 テオドール、レオナルド、ウィリアムの三王子は、それぞれ会場の要所に陣取りながらも、視線だけは常に俺を追尾していた。

 彼らが他の令嬢や貴族と会話をしていても、俺が少し動くだけでピクリと反応する。監視カメラも真っ青の追跡能力だ。


「おい、そこの君」

 不意に、背後から声をかけられた。

 振り返ると、派手な紫色の燕尾服を着た恰幅の良い男が立っていた。見覚えがある。辺境の伯爵だ。

 彼はすでにかなり酔っているらしく、顔を赤くして俺を見下ろしている。

「君、王子殿下たちの近くにいる執事だね? どうも鼻につく澄ました顔をしているが……ベータか?」

「左様でございます」

「ふん、たかがベータが王族の側近気取りとは。色気も愛想もない」

 伯爵は俺の肩に馴れ馴れしく手を置いた。

「どうだ、私の屋敷に来ないか? 使用人が足りなくてね。しつけから教えてやるよ」

 典型的な絡み酒だ。

 俺は表情筋を動かさず、丁寧にその手を外そうとした。

「申し訳ありませんが、現在は勤務中ですので」

「固いことを言うな。ほら、飲みたまえ」

 彼がグラスを無理やり押し付けようとした、その時だった。


 会場の空気が、一瞬にして凍りついた。

 ざわめきが波が引くように消え、オーケストラの演奏さえも止まる。

 何事かと人々が視線を向けた先には――三人の「魔王」が立っていた。


 テオドールは氷の眼差しで、レオナルドは猛獣の如き威圧感で、ウィリアムは蛇のような冷笑を浮かべて。

 三人は示し合わせたわけでもないのに、同時に会話を中断し、俺たちの方へと歩み寄ってきていたのだ。

 その歩調はゆったりとしているが、放たれるプレッシャーは尋常ではない。モーゼの海割れのように、人だかりが左右に割れて道ができる。


「……伯爵」

 テオドールが静かに呼びかけた。

 紫色の服を着た伯爵は、ガタガタと震えだし、持っていたグラスを取り落とした。ガシャン、という音が静寂に響く。

「殿、殿下……これはご挨拶を……」

「私の執事に、何か用か?」

 テオドールの背後には、黒いオーラが見えるようだ。

 レオナルドがボキボキと指を鳴らしながら、伯爵の背後に回り込む。

「おいおい、俺たちのルシアンに気安く触ってんじゃねぇよ。その手、要らねぇのか?」

「ひっ!?」

 ウィリアムがハンカチを取り出し、伯爵が触れた俺の肩を、汚いものを拭うように丁寧に拭き始めた。

「菌がつきますよ、ルシアン。消毒が必要ですね」


 完全に公開処刑だ。

 周囲の貴族たちは、恐怖に青ざめながらも、その異様な光景に釘付けになっている。

 ベータの執事一人のために、国のトップ3が揃って激昂しているのだから。


「も、申し訳ございませんでしたぁぁ!」

 伯爵は土下座に近い勢いで謝罪し、這うようにして逃げ去った。

 あとに残されたのは、微妙な空気の会場と、過保護すぎる三人の王子、そして頭を抱える俺だけだ。


「……皆様、注目を集めすぎています」

 俺は小声で諌めた。

「うるさい。虫が寄ってくるのが悪い」

 テオドールは不機嫌そうに鼻を鳴らし、俺の腰を引き寄せた。

「ダンスの時間だ。ルシアン、私のパートナーを務めろ」

「は? 執事が王子と踊るなど、前代未聞です」

「前例など作ればいい。ほら、手を出せ」

 拒否権はないらしい。

 俺は諦めて彼の手を取った。

 音楽が再び奏でられる。

 俺はテオドールにリードされ、フロアの中央へと連れ出された。


 踊りながら、彼は俺の耳元で囁く。

「いいか、他の誰とも目を合わせるな。私だけを見ていろ」

 その言葉は命令であり、懇願のようでもあった。

 彼の手は熱く、強く俺を握りしめている。

 俺の無臭の空間に安らぎを見出しながらも、彼らの独占欲は決して静まることがない。

 スポットライトを浴びながら、俺は「目立たず平穏に」という人生目標が粉々に砕け散る音を聞いた気がした。

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