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第2話「氷の王子の不本意な安らぎ」

 第一王子テオドールは、生まれながらにして王になることを義務付けられた男だ。

 最強のアルファとしての資質、圧倒的な魔力量、そして鋭利な刃物のような知性。すべてを兼ね備えているがゆえに、彼は常に過負荷状態にあった。

 周囲の人間は彼の放つフェロモンに怯え、ご機嫌伺いの言葉しか吐かない。他者の感情、欲望、恐怖といったノイズが、敏感すぎる彼の感覚を常に逆撫でする。

 だから、彼は常にイライラしていたし、頭痛が止むことはなかった。


 ――あの日、あの執事が部屋に入ってくるまでは。


 翌日も、俺はテオドールの執務室に呼び出された。

 名目は「書類整理の続き」だが、昨日の仕事は完璧に終わらせてあるはずだ。

「失礼します」

 入室すると、テオドールはソファに深く沈み込み、片手で顔を覆っていた。

 部屋の隅には数人の側近が青い顔をして直立不動で立っている。どうやら、また何か気に入らないことがあって雷が落ちた直後らしい。


「下がっていい」

 俺が入った瞬間、テオドールは側近たちに手を振った。

 彼らは「助かった!」という目で俺を見て、逃げるように退出していく。

 部屋には俺とテオドールだけが残された。


「……ルシアン」

「はい」

「こっちへ来い」

 俺は言われるがままに近づく。

 するとテオドールは、子供が母親に甘えるように、俺の腹部に額を押し付けてきた。

 座っている彼と、立っている俺。ちょうどいい高さだったのかもしれないが、執事としては非常に困る体勢だ。


『重いんだが』

 内心で毒づきながらも、俺は身じろぎもせずに立っていた。

 彼の銀色の髪が、さらさらと俺のウェストコートに触れる。

「殿下、いかがなさいましたか」

「……黙っていろ」

 彼は深く息を吸い込んだ。

 俺の腹、というか、俺の存在そのものを肺に入れるかのように、深く、長く。

「不思議だ……」

 テオドールの声から、棘が抜け落ちていく。

「貴様のそばにいると、あの不快なノイズが消える。まるで静寂な雪山にいるようだ。……何の香水を使っている?」

「香水などつけておりません。職務の邪魔になりますので」

「なら、これが貴様の匂いか……」


 彼は顔を上げない。俺の腹に顔を埋めたまま、完全に脱力している。

 ベータである俺には匂いなどないはずだ。

 だが、彼にとっては違うらしい。

 実は俺も最近、妙なことに気づき始めていた。

 アルファの王子たちが俺に近づくと、その荒れ狂うオーラが急速に鎮静化するのだ。

 これは俺が特殊なベータ――極稀に存在すると言われる、フェロモンを無効化し、さらに相手を強制的にリラックスさせる「空白」の性質を持っているからかもしれない。

 だが、そんなことを口にすれば、実験動物のように扱われるのがオチだ。俺はあくまで「たまたま相性がいいだけの優秀な執事」を貫くつもりだった。


「殿下、そろそろ次の会議のお時間ですが」

「……あと五分」

 あの冷徹無比なテオドールが、駄々をこねている。

 俺のジャケットの裾を握りしめる指には、驚くほど力がこもっていた。

「五分だけだ。それ以上は離れないと、貴様を部屋に監禁して一生出さないぞ」

「それは困ります。給金分の働きはさせてください」

「ふっ……金か。いくらでもやる」


 冗談ではなく本気で言いそうなので、俺はあえて聞こえないふりをした。

 テオドールの呼吸が整っていく。

 まるで、ささくれだった神経を一本一本丁寧に撫でつけられているかのような、深い安息。

 俺はただ立っているだけだ。何の技術も使っていない。

 それでも彼は、砂漠で水を見つけた旅人のように、俺の「無臭」を貪っている。


『まあ、大人しくなるならそれでいいか』

 俺は心の中で時計を見ながら、そっと彼の方へ手を伸ばし、乱れた襟元を直してやった。

 テオドールの身体がピクリと震え、そしてさらに強く俺にしがみついた。


 この時、俺は重大なミスを犯していた。

 彼らに安らぎを与えるということは、彼らにとって俺が「なくてはならない薬」になるということだ。

 依存は、すでに始まっていた。

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