第1話「フェロモンの嵐が吹き荒れる職場にて」
【登場人物紹介】
◆ルシアン(24歳)
本作の主人公。前世の記憶を持つ転生者の執事。フェロモンを感じないし発さない「ベータ」として、アルファ至上主義の王城で実務に励む。常に冷静沈着、無表情で仕事をこなす完璧主義者。自分が「鎮静剤」として王子たちに依存されていることには無自覚。「平穏な職場」を求めているだけなのに、なぜか激愛される苦労人。
◆テオドール・フォン・オルヴァンス(27歳)
第一王子。氷のように冷酷な支配者と呼ばれる最強のアルファ。常に頭痛とイライラに苛まれているが、ルシアンが半径3メートル以内に入ると嘘のように症状が消える。ルシアンを「私のクッション」と呼び、執務室に監禁したがる。
◆レオナルド・フォン・オルヴァンス(25歳)
第二王子。好戦的で野性味あふれるアルファ。近衛騎士団長も務める。常にフェロモンを撒き散らすため周囲が恐れるが、全く動じないルシアンに興味を持ち、やがてその匂い(無臭)を嗅ぐと大人しくなる大型犬化する。ルシアンに抱きつくのが日課。
◆ウィリアム・フォン・オルヴァンス(22歳)
第三王子。美しい容姿の裏に狡猾さを隠し持つ知能派アルファ。神経質で不眠症。ルシアンの傍でだけ深く眠れることに気づき、睡眠導入剤として独占を画策する。策士だが、ルシアンの天然な対応には調子を狂わされる。
王城の廊下は、今日も今日とて目に見えない嵐が吹き荒れていた。
豪勢なシャンデリアがわずかに揺れ、すれ違うメイドたちが顔を赤くして震えている。彼女たちが壁に手をついて息を整えているのは、風邪のせいでもなければ、恋の病でもない。
この国の王族たちが放つ、強烈すぎる「アルファ」のフェロモンのせいだ。
オルヴァンス王国の王城は、言うなれば高濃度のフェロモン充満施設である。
第一王子は氷のような威圧感を、第二王子は灼熱のような攻撃性を、第三王子は絡めとるような粘着質の色気を、それぞれ呼吸するように撒き散らしている。
一般のベータやオメガにとって、ここは職場というより戦場に近い。
「ルシアン様、あ、あの、もうダメです……足がすくんで」
顔面蒼白になった新人メイドが、その場にしゃがみ込んだ。
俺、ルシアンは手にした書類の束を小脇に抱え直し、冷静に彼女を見下ろす。
「深呼吸をして。窓を三センチ開放してあるから、あそこの隅で外気を吸うといい」
「は、はい……すみません」
「謝罪は不要だ。その代わり、十分後に東棟の廊下のモップ掛けを頼む。レオナルド様が暴れた跡がある」
淡々と指示を出し、俺はそのまま歩みを進めた。
俺には何も感じない。
甘い香りも、押し潰されるような威圧感も、肌を刺すような情熱も。
俺は転生者であり、この世界における平凡な「ベータ」だからだ。
前世の記憶があるといっても、特別なチート能力があるわけではない。ただ一つ、この過剰なフェロモン社会において、俺の感覚器官が完全に遮断されているという一点を除いては。
廊下の角を曲がると、壁の一部が焦げていた。
近くには折れた剣の破片。
間違いなく第二王子レオナルドの仕業だ。朝の鍛錬で興奮しすぎたのだろう。
周囲には濃厚な残り香があるらしく、警備の兵士さえもが遠巻きにしている。
『まったく。王族というのは、自分のフェロモン管理もできないのか』
心の中でため息をつきながら、俺は懐から手帳を取り出し、修繕費の項目に数字を書き込んだ。
俺の仕事は執事だ。
それも、ただお茶を淹れるだけの係ではない。この荒れ狂う王城で、唯一「正常に稼働する」管理システムの歯車である。
「ルシアン! ああ、やっと来てくれたか!」
廊下の向こうから、顔色の悪い文官が泣きそうな顔で走ってきた。
「第一王子殿下が酷いご機嫌で……もう誰も執務室に入れないんだ。頼む、決裁書類を届けてくれ!」
押し付けられた書類の山。
執務室の扉の向こうからは、ピリピリとした殺気が漏れ出ているらしい。らしい、というのは、俺には分からないからだ。
「分かりました。至急届けます」
「助かる! 君だけが頼みの綱だ!」
文官は脱兎のごとく逃げ出した。
俺は書類を整え、衣服の乱れがないかを確認する。
ボタンは上までしっかりと留められ、手袋には一点の汚れもない。背筋を伸ばし、表情筋を「業務モード」に固定する。
怖いものなどない。俺にとってアルファの威圧など、ただの空気の流れだ。
俺は躊躇なく、魔王の城の門のような重厚な扉をノックした。
「失礼いたします。ルシアンです。至急の決裁書類をお持ちしました」
返事を待たずに扉を開ける。
瞬間、室内の空気がドンと重くなった気がした。
書類が床に散らばり、インク壺が転がっている。部屋の中央にあるデスクには、額に青筋を浮かべた第一王子、テオドールが座っていた。
「……誰も入れるなと言ったはずだ」
地を這うような低い声。
常人なら失神しかねないプレッシャーらしいが、俺には「機嫌の悪い上司」にしか見えない。
「はい。ですが、財務報告書の期限は本日までですので」
俺は散らばった書類を優雅な所作で拾い集め、倒れたインク壺を直す。ポケットから取り出したハンカチでデスクの汚れを拭き取り、新たな紅茶を淹れ直した。
テオドールが、信じられないものを見る目で俺を凝視している。
「貴様……この状況で、平気なのか?」
「何がでしょうか」
俺は淹れたての紅茶を彼の前に置く。
湯気と共に、ベルガモットの香りが漂う。俺にはこの紅茶の香りの方が、よほど重要だ。
「頭痛がおありのようでしたので、少し薄めにいたしました。蜂蜜を加えてあります」
テオドールは呆気にとられた顔をしていたが、やがてゆっくりとカップに手を伸ばした。
そして、一口飲む。
「……」
その瞬間、彼の眉間に刻まれていた深いシワが、嘘のように消え去った。
まるで憑き物が落ちたような表情だ。
「おい」
「はい」
「……ここにいろ」
テオドールは空になったカップを置き、俺の手首を掴んだ。
熱い手だった。
「書類が終わるまで、一歩も動くな。……貴様がそばにいると、なぜか頭が割れるような痛みが消える」
「それは良かったです。では、書類の整理をしております」
俺は素っ気なく答え、掴まれた手首をそれとなく外し、彼の背後で書類の仕分けを始めた。
テオドールは時折、確認するように俺の方を振り返り、また仕事に戻る。
彼が放つ(らしい)殺人的なフェロモンの中で、俺だけが涼しい顔でペンを走らせている。
これが俺の日常だ。
自分が王族専用の「空気清浄機」として認識され始めていることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。




