第15話「裏切りの前夜」
王城の最深部、かつての神殿跡には薄暗い光が揺れていた。
蝋燭だけが光源のこの空間は、普段は誰も立ち入ることのない場所だ。しかし今夜は違う。数十名の魔道士たちが集まり、床に巨大な魔法陣を描いている。
複雑な文様が、白い粉で床に刻まれていく。古代文字、幾何学的な図形、魔力の結節点を示す印。全てが精密に、しかし急いで描かれていた。
「この線は、もっと正確に」
魔道士長エドガーが、若い魔道士に指示を出している。白髪の老人だが、その目には鋭い知性が宿っていた。
「はい、師匠」
若い魔道士が慎重に線を引き直す。少しでもずれれば、儀式は失敗する。そして失敗は――世界の崩壊を意味する。
宰相ヴァルクが、階段を降りてきた。地下神殿の入口から、慎重に足を進める。
「宰相閣下」
エドガーが頭を下げた。ヴァルクは魔法陣を見渡す。
「進捗は?」
「順調です。しかし――」
エドガーは言葉を濁した。ヴァルクは理解する。
「一週間では足りない、と言いたいのか」
「...はい」
エドガーは正直に答えた。
「この儀式は、本来なら一ヶ月の準備が必要です」
ヴァルクは深くため息をついた。分かっている。しかし、時間がない。
地下神殿の奥には、反勇者派のメンバーも集まっていた。騎士団長ベルナール、貴族たち、信頼できる騎士たち。全員が緊張した面持ちで、準備の様子を見守っている。
ベルナールがヴァルクに近づいてきた。
「宰相閣下、兵士たちの配置は完了しています」
「ご苦労」
ヴァルクは頷いた。
「しかし...もし勇者たちが気づいたら」
ベルナールの声には不安が滲んでいる。ヴァルクは、その肩に手を置いた。
「その時は、力ずくでも抑える」
「世界のためだ」
ベルナールは頷いた。しかし、その表情には迷いがあった。本当に、自分たちは勇者を止められるのだろうか。
蝋燭の光が揺れる。影が壁に踊る。
誰もが理解していた。この秘密が露呈すれば――全てが終わる。
翌朝、王女フィリアの部屋には穏やかな光が差し込んでいた。
フィリアは窓辺に座り、朝食を取っている。しかし、その表情は曇っていた。数日前から、父の様子がおかしい。何かを隠している。
コツコツとノックの音。
「入りなさい」
扉が開き、侍女のマリアが入ってきた。フィリアの最も信頼する側近で、十年以上仕えている女性だ。
「王女様、報告がございます」
マリアの声は緊張していた。フィリアは振り向く。
「何かしら」
「王が...二日前の早朝、城を出られました」
フィリアは手を止めた。
「どこへ?」
「それが...護衛も少数で、密かに」
マリアは続けた。
「そして、地下で何かの準備が進んでいます」
「地下...?」
フィリアは立ち上がった。
「何の準備?」
「魔法陣のようです」
マリアの声はさらに小さくなった。
「そして、魔道士たちが頻繁に出入りしています。夜中に、こっそりと」
フィリアの心に、暗い予感が広がっていく。父が何かを隠している。それも、自分に知られたくないことを。
その時、別の側近が慌てて入ってきた。
「王女様!大変です!」
「落ち着きなさい。何があったの」
「城下で噂が広まっています」
側近は息を切らしながら報告した。
「王が...魔王と接触したという噂が」
フィリアの顔色が変わった。
「...何ですって?」
「確証はありません。しかし、複数の者が同じ噂を」
フィリアは窓の外を見た。城下には、いつものように神殿の光が見える。勇者様を崇める民衆が、今も祈りを捧げているはずだ。
しかし――父は。
「まさか」
フィリアは呟いた。しかし、心の奥では確信していた。
父は――勇者様を裏切ろうとしている。
「マリア」
フィリアは振り向いた。
「父上の部屋を監視しなさい。何か動きがあれば、すぐに報告を」
「かしこまりました」
マリアが去った後、フィリアは一人窓辺に立っていた。拳を握りしめる。
「父上...あなたは何をしようとしているの」
その夜、レオニス王は執務室で書類を確認していた。
机の上には、儀式の詳細な計画書が広げられている。魔法陣の配置、魔道士の人数、勇者を抑える方法――全てが記されていた。
時折、ペンを持つ手が震える。この計画を実行すれば――娘との関係は、永遠に壊れるだろう。
しかし、やるしかない。
突然、扉が開いた。
レオニスは反射的に書類を隠そうとしたが――遅かった。
フィリアが入ってきた。侍女たち数名を伴っている。その表情は、冷たく硬い。
「フィリア...こんな夜更けに」
レオニスは努めて平静を装った。しかし、声が震えている。
「父上」
フィリアの声も震えていた。しかし、それは怒りと悲しみによるものだった。
「魔王と手を組んだと聞きました」
沈黙。
レオニスは、娘の目を見ることができなかった。その沈黙が――全てを物語っていた。
「勇者様を...」
フィリアの声が、涙で詰まる。
「裏切るおつもりですか!」
レオニスは立ち上がった。娘と向き合う。もう、隠すことはできない。
「裏切りではない」
「では何なのです!」
フィリアは叫んだ。侍女たちが驚いて身を引く。
「国を守るためだ」
レオニスの声は、低く抑えられていた。
「国を守る...?」
フィリアは信じられないという表情になった。
「勇者様こそが国を守っています!」
「目を覚ませ、フィリア!」
今度はレオニスが声を荒げた。
「勇者たちは災厄だ!国を壊している!」
「災厄などではありません!」
フィリアは涙を流しながら叫んだ。
「神の使いです!私たちを導く光です!」
レオニスは苦笑した。その笑みには、深い悲しみがあった。
「光...?破壊の光だ」
執務室に向かい、窓を開ける。外では、神殿の光が輝いている。
「フィリア、お前は現実が見えていない」
「見えていないのは父上です!」
フィリアも窓辺に向かった。父と並んで立つ。
「勇者様は、私たちを救ってくださいます」
「救う...?」
レオニスは娘を見た。
「村を破壊し、街を壊し、人を殺して――それが救いか?」
「それは...仕方のないことです」
フィリアは目を逸らした。
「大きな目的のためには、犠牲も」
「犠牲...」
レオニスは娘の肩を掴んだ。
「お前は、何人死んだか知っているのか?」
「フェルナンドの村で百名。城壁崩壊で二十名。各地の被害を合わせれば、数百名だ」
「それでも、お前は勇者を擁護するのか」
フィリアは父の手を振り払った。
「私は王女です。勇者様を信じる義務があります」
「義務...」
レオニスは力なく笑った。
「私は王だ。民を守る義務がある」
二人は向き合った。かつては愛し合っていた親子。しかし今は――深い溝が横たわっている。
「私は...」
フィリアは涙を拭った。
「勇者様に報告します」
その言葉に、レオニスの顔色が変わった。
「待て、フィリア!」
手を伸ばす。しかしフィリアは、振り向かずに部屋を出ていった。侍女たちも慌てて後に続く。
残されたレオニスは、机に手をついた。
「...終わった」
呟きが、静かな部屋に響いた。計画が――露呈した。
フィリアは城の廊下を急いでいた。
涙が止まらない。しかし、今は泣いている場合ではない。勇者様に知らせなければ。父上の裏切りを。
勇者たちの部屋に到着し、扉を叩いた。
「勇者様方!」
扉が開く。ハルが顔を出した。
「お、王女。どうしたの?」
「大変なことが...」
フィリアは息を切らしながら部屋に入った。中には、レン、ミカ、そしてクロウもいた。全員、寝る前の服装だ。
「どうしたんですか?」
クロウが尋ねた。フィリアは、必死に言葉を紡ぐ。
「王が...魔王と手を組みました」
一瞬の沈黙。
「は?」
ミカが首を傾げた。
「魔王と?マジで?」
レンも立ち上がる。
「そして...」
フィリアは涙を流し始めた。
「勇者様方を...異界へ還送しようと」
その言葉が、部屋の空気を凍らせた。
ミカが最初に反応した。立ち上がり、壁を叩く。
「裏切り?マジ最悪なんだけど!」
レンも拳を握りしめた。その拳から、微かに光が漏れている。
「ふざけんな!」
ハルは困惑した表情で立っていた。
「えー、なんで?俺たち、何か悪いことした?」
フィリアは首を激しく振った。
「何も悪くありません!」
「王が...間違っているのです」
クロウだけが、冷静に座っていた。彼は、この展開をどこかで予想していたのかもしれない。
「待て」
クロウは立ち上がり、三人を制止しようとした。
「なぜそうなったのか、理由を聞こう」
しかしレンは聞かなかった。
「理由なんてどうでもいい!」
扉に向かう。
「王をぶっ飛ばしてくる!」
「やめろ、レン!」
クロウが腕を掴もうとしたが、レンは振り払った。
「邪魔すんな、クロウ」
ミカとハルも立ち上がる。
「頼む、落ち着いてくれ!」
クロウは必死に説得しようとした。しかし――誰も聞かなかった。
レンが扉を開け、廊下に出ていく。ミカとハルも後に続いた。
クロウは、その後ろ姿を見送るしかなかった。
ベルナールは、城の西棟を巡回していた。
深夜の見回りは、騎士団長の日課だ。静かな廊下を歩きながら、彼は考えていた。明日――いや、もう今日だ。今日の夜、全てが決まる。
突然、轟音が響いた。
城全体が揺れる。ベルナールは反射的に剣に手をかけた。
「何だ!?」
廊下の奥から、さらに音が聞こえてくる。破壊音。何かが砕ける音。そして――叫び声。
駆けつけると――。
レンが廊下を歩いていた。その後ろには、粉々に砕けた壁。レンの拳が、石壁を容易く破壊していた。
「王はどこだ!」
レンが叫ぶ。その目は、怒りに燃えていた。
「待て!」
ベルナールは剣を抜いた。
「これ以上の暴挙は許さん!」
レンは、ベルナールを見た。そして――笑った。
「邪魔すんな」
レンの拳が、ベルナールに向かってくる。
ベルナールは剣で受け止めようとした。しかし――。
金属が砕ける音。
剣が、まるで木の枝のように折れた。そして、レンの拳がベルナールの胸を直撃する。
世界が、回転した。
ベルナールの体は宙を舞い、廊下の奥まで吹き飛ばされた。背中から壁に激突し、石壁にひびが入る。
体中が痛い。呼吸ができない。
ベルナールは床に崩れ落ちた。意識が遠のいていく。
「団長!」
騎士たちが駆けつけてくる。しかし、彼らもレンの前では無力だった。
次々と吹き飛ばされる騎士たち。廊下が、戦場と化していく。
ハルも現れた。手のひらに光を集めている。
「王様、出てきて」
その声は、驚くほど軽かった。まるで、友達を呼び出すかのような調子だ。
しかし、手のひらの光は――危険だった。あれが解き放たれれば、城が吹き飛ぶ。
ミカは遠くから見ている。
「早く終わらせてよね。眠いんだけど」
城内がパニックになっていく。悲鳴が響き、騎士たちが次々と倒れる。壁が崩れ、天井が揺れる。
クロウが必死に追いかけてきた。
「やめろ!」
息を切らしながら、ハルの前に立ちはだかる。
「クロウ、どいて」
ハルは困った表情で言った。
「ダメだ」
クロウは両手を広げた。
「話を聞くべきだ。なぜこうなったのか」
レンが後ろから近づいてくる。
「理由なんてどうでもいい」
「俺たちを追い出そうとしてるんだぞ」
クロウは振り向いた。
「それには理由があるはずだ!」
「考えろ!俺たちが何をしてきたか!」
ハルが首を傾げる。
「...俺たち、助けてきただけだよ」
「本当にそうか?」
クロウは叫んだ。
「村を壊し、街を破壊し、人を殺して――それが助けることか!」
レンの表情が変わった。
「うるせえ!」
レンの手が、クロウを突き飛ばす。
クロウの体は、まるで人形のように軽々と吹き飛ばされた。廊下の壁に激突し、床に転がる。
「がっ...」
体を強く打ち、息ができない。肋骨が折れたかもしれない。
「頼む...やめてくれ...」
クロウは床に這いつくばりながら、手を伸ばした。しかし――誰も見ていなかった。
三人は、クロウを置いて先に進んでいく。
クロウは無力だった。唯一の理性の声は――届かなかった。
明け方、執務室にはレオニスとヴァルクが集まっていた。
外からは、まだ騒ぎが聞こえている。壁が崩れる音、騎士たちの叫び声、そして――勇者たちの怒号。
レオニスは窓辺に立ち、疲れ切った表情で外を見ていた。
ヴァルクが報告に来る。
「計画が露呈しました」
「...分かっている」
レオニスの声は、かすれていた。
「被害は?」
「城の西棟が半壊しています」
ヴァルクは報告書を見ながら続けた。
「騎士十五名が負傷。うち三名が重体です。ベルナール団長も...」
「生きているか?」
「はい。しかし、数週間は動けないかと」
レオニスは拳を握りしめた。ベルナール――長年仕えてくれた忠臣が。
「やむを得ん」
レオニスは振り向いた。
「儀式を急げ」
ヴァルクは驚いて顔を上げた。
「しかし、準備が――」
「明日だ」
その言葉に、ヴァルクは息を飲んだ。
「明日...ですか?」
「一週間など待てない」
レオニスは窓の外を指差した。
「このままでは、城が崩壊する。いや、城だけではない。王都全体が危険だ」
ヴァルクは、その意味を理解した。勇者たちの怒りは、もう制御できない。
「魔王に緊急の伝令を送れ」
レオニスは命じた。
「明日の夜、儀式を決行する」
「承知しました」
ヴァルクは深く頭を下げた。部屋を出ようとして――振り向いた。
「陛下...これで本当に」
「他に道はない」
レオニスは即答した。
「もう、後戻りはできない」
ヴァルクは何も言えず、部屋を出ていった。
一人残されたレオニスは、再び窓辺に立った。
外では、夜が明け始めている。城下では、民衆が目を覚まし始めているだろう。いつもと変わらない朝。しかし――。
「フィリア...すまない」
レオニスは呟いた。
娘の顔が、脳裏に浮かぶ。幼い頃、初めて歩いた日。初めて笑った日。父の膝の上で眠った、あの温かさ。
全てが――壊れてしまった。
外から、再びレンの叫び声が響いた。城の壁が揺れる。
ヴァルクが戻ってきた。
「陛下、避難を」
「いや」
レオニスは首を振った。
「ここにいる。王として、最後まで見届ける」
朝日が昇り始めた。しかし、その光は冷たい。
窓から、黒い伝書鳥が飛び立っていく。魔王への、緊急の知らせを乗せて。
「明日...全てが決まります」
ヴァルクが呟いた。レオニスは頷く。
「ああ」
二人は、窓の外を見つめた。
城内では、まだ騒ぎが続いている。勇者たちの怒りは、収まる気配がない。むしろ、激しさを増していた。
「準備を」
レオニスは静かに命じた。
「明日の夜――最後の戦いだ」
ヴァルクは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
一人残されたレオニスは、玉座に座った。重い王冠を被り、背筋を伸ばす。
外では、新しい一日が始まろうとしている。
しかしレオニスは知っていた。
これが――最後の朝になるかもしれない。
勇者との、最後の戦い。
世界の運命を賭けた、決戦の夜が近づいている。
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