第14話「密約」
森を抜けると、廃教会が見えてきた。
古い石造りの建物は、長い年月の中で風化し、蔦に覆われていた。屋根の一部は崩れ落ち、壁には亀裂が走っている。それでも、かつての荘厳さを感じさせる佇まいだった。
ここは国境の中立地帯――人間と魔族、どちらの領土でもない場所だ。遠い昔、両種族が共存を夢見た時代に建てられた教会。今では誰も訪れることのない、忘れられた場所となっている。
「陛下、警戒を」
ベルナールが馬から降りながら言った。騎士たちも周囲に散らばり、森の中に異変がないか確認している。
レオニス王は馬を降り、教会を見上げた。朽ちかけた扉、割れたステンドグラスの跡、崩れかけた鐘楼。しかし、その全てが――かつてここに希望があったことを物語っていた。
「まだ誰も来ていないようです」
ヴァルクが周囲を見回しながら報告する。空は白み始めているが、太陽はまだ地平線の下だ。
「待つしかない」
レオニスは教会の扉に手をかけた。古い木材がきしむ音を立てて、扉がゆっくりと開く。
内部は薄暗く、埃が舞っている。床には落ち葉が積もり、壁には苔が生えていた。しかし、奥にある祭壇だけは――不思議なことに、まだ原形を保っている。
レオニスは祭壇に向かって歩いた。足音が静かに響く。ヴァルクが後に続き、ベルナールは入口付近で警戒を続けている。
「ここで、人間と魔族が...」
レオニスは祭壇の前に立ち、呟いた。
「はい」
ヴァルクが答える。
「共存を夢見た時代の遺産です」
「しかし、夢は叶わなかった」
「ええ。戦争が始まり、この教会は放棄されました」
レオニスは祭壇に触れた。冷たい石の感触。何百年も前の人々が、ここで祈りを捧げていたのだろう。人間も、魔族も。共に。
その時――。
「陛下!来ました!」
入口にいた騎士の一人が叫んだ。レオニスとヴァルクは振り向き、外に出る。
森の向こうから、影が近づいてきていた。
最初は黒い塊のように見えたが、やがて形が明確になる。数名の人影――いや、人ではない。魔族だ。
しかし、予想していたような大軍勢ではなかった。わずか五、六名。その中心に、一人の若い男が歩いている。
黒髪、整った顔立ち、額には小さな角。漆黒のローブを纏い、背筋を伸ばして歩く姿には、威圧感よりも――知性の雰囲気があった。
魔王ゼファル。
レオニスは直感的に理解した。あれが、この世界の均衡を保つと自称する存在だ。
魔王が教会の前で立ち止まった。護衛の魔族たちも動きを止める。両者の間に、数十メートルの距離。
緊張した沈黙が流れる。
やがて、魔王が単身で前に出た。護衛たちは驚いたようだったが、魔王は手で制止する。
レオニス側も、王とヴァルクだけが教会の前に残り、ベルナールたちは少し離れた場所で待機した。
魔王ゼファルが教会の入口まで来る。レオニスと向き合った。
数秒間、二人は無言で見つめ合った。
そして――魔王が口を開いた。
「よく来てくれた、人間の王よ」
その声は、予想していたものとは違っていた。低く、しかし落ち着いている。敵意は感じられない。
「...お前が魔王か」
レオニスは相手を値踏みするように見つめた。予想していた残虐な暴君とは、あまりにも違う。むしろ、宮廷の学者を思わせる雰囲気だ。
「私はゼファル」
魔王は軽く頭を下げた。
「この世界の均衡を保つ者だ」
「均衡...?」
レオニスは眉をひそめる。魔王が、自らをそう呼ぶとは。
「座ろう」
ゼファルは教会の中を示した。
「話は長くなる」
レオニスは一瞬躊躇したが、頷いた。三人は教会の中に入り、崩れかけたベンチに腰を下ろす。
薄暗い教会の中、朝日が割れたステンドグラスの隙間から差し込んでいる。その光が、三人の顔を照らしていた。
「まず、礼を言わせてくれ」
ゼファルが口を開いた。
「私の申し出に応じてくれたこと、感謝する」
「礼を言われる筋合いはない」
レオニスは冷たく答えた。
「我が国のために来たのだ」
「それで良い」
ゼファルは微笑んだ。
「利害が一致している。それが重要だ」
ヴァルクが前に出る。
「では、本題に入りましょう」
「手紙に書かれていた『異界の毒』とは?」
ゼファルの表情が真剣になった。彼は立ち上がり、窓辺に向かう。
「この世界には『理』がある」
「理...とは?」
レオニスが尋ねた。
「全てが均衡の中にあるということだ」
ゼファルは窓の外を見ながら続けた。
「人間、魔族、獣、植物、大地、空――この世界に存在する全てのものは、互いに繋がり、支え合い、均衡を保っている」
ゼファルは手のひらに小さな光を作り出した。それは淡い青色で、まるで生き物のようにゆらめいている。
「魔法も、この世界の理の一部だ」
光が形を変え、小さな鳥のような姿になる。それは空中を飛び回り、やがて消えた。
「我々の力は、世界の法則に従っている。魔力には限界があり、物理法則にも制約がある」
レオニスは真剣な表情で聞いていた。ヴァルクはメモを取ろうとしたが、やめた。この話は、記録するよりも理解することが重要だと感じたからだ。
「では、勇者は?」
ヴァルクが尋ねた。ゼファルの表情が曇る。
「勇者は...異界の存在だ」
ゼファルは振り向いた。その目には、深い憂慮が宿っている。
「彼らの力は、この世界の理を無視する」
「どういう意味だ?」
レオニスが身を乗り出した。
「我々の魔法には限界がある。どれほど強力な魔術師でも、一度に使える魔力には上限がある。物理法則にも逆らえない」
ゼファルは拳を握りしめた。
「しかし勇者の力は...まるで神のようだ。制約がない。法則を無視する。膨大な魔力を持ち、しかもそれが尽きることがない」
レオニスは自分が目撃した光景を思い出した。ハルの魔法が村を吹き飛ばした時。レンの拳が城壁を粉砕した時。あれは――確かに、この世界の法則を超えていた。
「それが、何を意味する?」
「世界が、壊れる」
ゼファルの言葉が、教会に重く響いた。
「どういうことだ」
レオニスは立ち上がった。
「この世界は均衡の上に成り立っている。しかし勇者の力は、その均衡を破壊する」
ゼファルも立ち上がり、レオニスと向き合った。
「彼らが魔法を使うたび、世界の理が歪む。彼らが力を振るうたび、均衡が崩れる」
「それを放置すれば――世界そのものが崩壊する」
沈黙が落ちた。レオニスは、その意味を理解しようとしていた。
「...我々だけの問題ではない、ということか」
「その通りだ」
ゼファルは頷いた。
「勇者は人間にとっても、魔族にとっても、そして世界にとっても――脅威なのだ」
ヴァルクが口を開いた。
「しかし魔王、あなたは我々の敵では?」
ゼファルは微笑んだ。しかし、それは皮肉な笑みではなく、むしろ悲しげな笑みだった。
「敵だ。しかし――」
ゼファルはベンチに座り直した。
「我々は殺し合うが、滅ぼし合わない」
レオニスは理解できない表情でゼファルを見た。ゼファルは続ける。
「人間と魔族の戦争は、数百年続いている。しかし、どちらも滅びていない」
「それは...」
「均衡の一部だからだ」
ゼファルの言葉に、レオニスは驚きを隠せなかった。
「我々が戦うことで、双方の人口が調整される。資源の奪い合いも、必要な競争だ」
ゼファルは窓の外を見た。
「しかし、それは『滅び』ではない。互いに生き続けるための、調整なのだ」
「我々は敵だが、同じ世界に生きる者同士でもある。お互いが存在することで、均衡が保たれている」
レオニスは、その言葉の意味をゆっくりと理解していった。人間と魔族の戦争は、憎悪だけで続いているのではない。それは――この世界の仕組みの一部だったのだ。
「では、勇者は?」
ヴァルクが再び尋ねた。
「彼らは違う」
ゼファルの声が硬くなった。
「調整ではなく、破壊だ。無自覚に、世界そのものを壊している」
ゼファルは立ち上がり、祭壇に向かった。
「私の領土でも、三つの村が壊滅した」
その背中には、深い悲しみがあった。
「死者三十名。すべて民間人だ。戦士ではない、ただの村人たちだ」
レオニスは息を飲んだ。
「...我が国も同じだ」
「知っている」
ゼファルは振り向いた。
「だから、お前に手紙を送った」
二人は向き合った。そこには――共通の敵を理解する者同士の、奇妙な連帯感があった。
長い沈黙の後、レオニスが口を開いた。
「では、どうすれば良い」
ゼファルは深く息を吐いた。
「還送の儀」
「還送...?」
ヴァルクが尋ねる。ゼファルは頷いた。
「古代魔法の一つだ。異界から来た者を、強制的に送り返す」
レオニスは身を乗り出した。
「そんな魔法が存在するのか」
「ああ」
ゼファルはベンチに座り、話を続けた。
「かつて、同じような事態があった。数百年前、別の世界から魔物が侵入したことがある」
「その時、我々の先祖が使った魔法だ。還送の儀――異界の存在を、元の世界へ送り返す儀式」
「それで、勇者を...」
「そうだ。しかし――」
ゼファルの表情が険しくなった。レオニスは、悪い予感を覚えた。
「条件が厳しい」
ヴァルクが前に出る。
「どのような?」
ゼファルは指を折りながら説明し始めた。
「第一、膨大な魔力が必要だ」
「私の配下の魔術師、全員の力が要る。数十名の魔術師が同時に魔力を注ぎ込まねばならない」
レオニスは眉をひそめた。それだけでも、相当な準備が必要だろう。
「第二、貴国の魔道士も協力が必要だ」
「なぜだ?」
「人間と魔族、双方の魔力でなければ発動しない。これは世界の理を操る魔法だ。片方の種族だけでは不可能だ」
ヴァルクは頷いた。
「我が国の魔道士を動員します」
「第三」
ゼファルは続けた。
「勇者たち全員を一箇所に集める必要がある。四人が別々の場所にいては、儀式は成立しない」
「それは...」
レオニスは考え込んだ。勇者たちを一箇所に集めるだけなら、難しくはない。しかし――。
「第四」
ゼファルの声が、さらに深刻になった。
「儀式中、彼らの暴走を抑えなければならない」
「儀式には時間がかかる。その間、勇者たちは自分が送り返されると気づくだろう。そして――抵抗する」
レオニスは想像した。儀式の最中、勇者たちが暴れ出したら――。
「どれくらいの時間だ?」
「最低でも十分」
「十分...」
それは短いようで、長い時間だ。勇者たちが本気で暴れれば、十分もあれば城ごと破壊できるだろう。
レオニスは深く息を吐いた。そして――尋ねた。
「...成功率は?」
ゼファルは長い沈黙の後、答えた。
「六割だ」
レオニスとヴァルクは、同時に息を飲んだ。
「六割...低い」
「ああ」
ゼファルは頷いた。
「しかし、他に方法はない」
「失敗すれば?」
レオニスの問いに、ゼファルは真っ直ぐに答えた。
「世界が壊れる」
その言葉が、教会に重く響いた。
外では、鳥のさえずりが聞こえる。朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしている。しかし、この教会の中では――世界の運命を決める話し合いが続いていた。
レオニスは立ち上がり、窓辺に向かった。外を見ると、森の向こうに自分の国が広がっている。あの国を、民を、そして――娘を守るために。
長い沈黙の後、レオニスは振り向いた。
「...やろう」
その言葉に、ヴァルクが驚いて顔を上げた。
「陛下...」
「他に道はない」
レオニスはゼファルを見た。
「やろう、ゼファル」
二人は、初めて互いを名前で呼び合った。ゼファルは立ち上がり、頷いた。
「良い決断だ、レオニス」
二人は祭壇の前に立った。ヴァルクも立ち上がり、メモを取る準備をする。
「具体的な計画を立てよう」
ゼファルが言った。レオニスは頷く。
「儀式の場所は?」
「王都の地下だ」
レオニスは答えた。
「かつての神殿跡がある。古い時代、そこで多くの儀式が行われていた。魔力が集まりやすい場所だ」
「良い」
ゼファルは頷いた。
「では準備期間は?」
レオニスは考えた。魔道士たちを集め、訓練し、魔法陣を準備する。それには――。
「一週間」
「短いが...やむを得ん」
ゼファルも同意した。
「私も準備を急ぐ」
ヴァルクが尋ねる。
「民衆には?」
レオニスは即答した。
「秘密だ」
「知れば、暴動になる。勇者を崇拝する者たちが、決して許さないだろう」
ゼファルも頷いた。
「私の民にも、秘密にする」
「魔族の中にも、人間との協力を良しとしない者がいる」
二人は互いを見た。この決断の重さを、共に理解している。
「一週間後」
レオニスが言った。
「王都の地下で、儀式を行う」
「了解した」
ゼファルが答えた。
「私は魔術師たちを連れて、その日に王都へ向かう」
「夜に来てくれ」
レオニスが付け加えた。
「昼間では、目立ちすぎる」
「分かった」
二人は立ち上がった。向き合う。
ゼファルが右手を差し出した。レオニスは、一瞬躊躇した。魔王と握手する――それは、考えられないことだった。
しかし――。
レオニスは、ゼファルの手を握った。
二人の手が、固く結ばれる。
教会の外では、ベルナールたちと魔王軍の護衛たちが、驚愕の表情で見ていた。人間の王と魔王が――握手している。
歴史的瞬間だった。
「世界を守るために、共に戦おう」
ゼファルが言った。レオニスは頷く。
「ああ」
二人は手を離した。しかし、その目には――同じ決意が宿っていた。
「では、一週間後に」
ゼファルは教会を出ていった。護衛たちが彼を迎える。ゼファルは一度だけ振り返り、レオニスに頷いた。
レオニスも頷き返した。
魔王軍が森の中に消えていく。その姿が見えなくなるまで、レオニスは見送った。
「陛下」
ヴァルクが傍らに立った。
「本当に、これで良かったのでしょうか」
レオニスは答えなかった。ただ、空を見上げる。
太陽が昇り、世界を照らしている。この世界を――守るために。
「帰るぞ」
レオニスは馬に乗った。一行は、城へ向かって出発した。
帰路は、行きとは違う重さがあった。
ベルナールが馬を並べる。
「宰相閣下、本当に...魔王と...」
その声には、信じられないという響きがあった。ヴァルクは答えた。
「他に道はない」
「しかし、フィリア王女は――」
ベルナールの言葉に、ヴァルクは表情を曇らせた。
「...秘密にせねばならぬ」
レオニスは黙って馬を進めている。その背中には、重い決断の重みが見えた。
ヴァルクは、心の中で考えていた。
娘を裏切る決断。
民衆を欺く決断。
しかし――国を守る決断。
王の苦悩は、計り知れないだろう。
森を抜けると、遠くに城が見えてきた。神殿の光が、朝日に照らされて輝いている。
「あの光が消える日が、近づいている」
レオニスが呟いた。ヴァルクは頷く。
「はい」
城が近づいてくる。いつもと変わらない光景。しかし、一週間後――全てが変わる。
城門が見えてきた。レオニスは一行に指示を出す。
「準備を始めろ。時間がない」
「一週間後――全てが決まる」
一行は静かに城に入っていった。誰にも気づかれることなく。
しかし――。
城の塔の一つから、一人の侍女が彼らの帰還を見ていた。フィリアの側近だった。
「王様が...どこへ行っていらしたのだろう」
侍女は不審そうに呟いた。そして――フィリアに報告するために、塔を降りていった。
城下では、相変わらず民衆が神殿に集まり、勇者への祈りを捧げている。
誰も知らない。
一週間後、全てが終わることを。
勇者信仰の時代が、終わりを迎えることを。
そして――新しい時代が、始まることを。
朝日が、王国を照らしている。
しかしその光は――希望の光なのか、それとも最後の輝きなのか。
誰にも分からなかった。
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