優しさを持ち寄り
2025/11/03、若干の修正。
今日も随分と派手にヤリまくってるなあ。そう、ボロアパートの一室で断続的な振動の伝達を感じながら思った。思うだけでは空しいので、おいおい激しいなあ、と呟いてみる。呟きは思った程大きな声にならない。四十をじき回ろうかという年だ。浅慮な他人に生活空間を侵されて苛立っても、苛立ちに今一つ力が入らなくなってきているのを感じている。まあ、これが老化というやつだろう。
明らかにここの真上の部屋のセックスの音だ。15年住んでいるので、もう「家」と呼ぶべきなのかも知れないその部屋。築四十年。いや、入る時にそう言われたのだから、今は更に月日が加算されているか。当時は建築基準法だって随分違っていただろう、その間の建築法的な変遷なぞ見当もつかない程昔から建っている、この建物。この建物の各部屋。このムカつく揺れとも音とも付かぬものを毎晩みたいに起こしている上のカップルだって、熱心にヤっている部屋の構造自体は、ここと殆ど変わらない筈だ。だから響く。音が気持ちよい程、そして時に気持ち悪い程よく伝わる。
「…好きぃぃ…!」と、如何にも若々しい女のくぐもった声。独りぼっちの俺の陰茎は、その他人の女の瑞々しい声に、惨めに勃起し始める。しかし、他人のセックスの音だけで自慰しなければならないなんて、なんて浅ましいんだろう。この大部分の男性の体験に当てはまる事実には、歳なんかは本質的に関係無い、根源的な悲しみがある気がする。何故なら、恋人や性風俗に頼らなければ、アダルト動画などの抽象的情報に頼る必要がある。それは端的に言って、他人の性行為を覗き見るに過ぎないのだ。だが、それを分かっていても、そうなるだろう事は自分の陰部の形からして目に見えている。ある程度抑制出来る様でいて、ある程度はやはり抑制し切れない、性衝動という悲しみ。さっきは老化して呟き声に力が入らない事を嘆いていたのに、今度は年甲斐も無く赤の他人の営みに意志とは関係ない力が漲ってくる若さの名残を嘆いている。
ファスナーを下ろして、年甲斐も、男としての甲斐も無く、力を漲らせた自分の陰茎が飛び出して来るのを眺めた。眺めながら、それを自分の右手で握る事に、微かに意志でもって抵抗する。そんな盛んな歳かよ、もう色々終わってんじゃんか。そう呟くと、さっきより声に力が入ってしまっている事を自覚する。上の女の性愛の籠った溜息が聞こえてくるなら、自分のこのろくでもない人生への嘆息もあちらに聞こえてしまって居るんじゃないか?何でも、音波とか電波とかの空間を伝わる波は、上から下へより、下から上への方がよく伝わるんだとか聞いたことが…
「あ…好き、好き…んあぁぅ…!」
と、より高い、性的に好ましい女の最中の声が、家族の居ないネズミの様な自分の卑しい心配事を掻き消してしまう。誰が盛り上がってる情熱的なセックスの最中に、他所の部屋のボヤキなんか気にするものか。明日の仕事が早朝からである事を思えば、早く眠れない苛立ちが沸き起こるが、苛立ちが天井を隔てて染み出す湿った女の声と素直極まりない言葉と混ざって、却って陰茎の血流に変換され、結局はやはり人生の惨めさに帰着する。そして、俺はやっぱり陰茎を握るしかない。擦るのも億劫だった。強く根本を握る。このぐらいの勃起具合なら、それだけで出してしまえるだろう、あの惨めったらしい体液を。男性の業の不快な臭いがする、ゴミ箱に張り付いて取れなくなる、あれの臭い。俺みたいな人間には、ティッシュにくるんで捨てる以外に何の役にも立たないあの白い、忌々しい液。人生は腐ってる。でも、あと一声、この上で抱き合って満足してるだろう、幸せな女の声が聞こえれば、腐ってる俺の腐った絶頂は簡単に得られるはず…
「好きよ」
とイヤに鮮明に聞こえる一声が、俺の下腹部の待ち望んだ満足を満たしてくれた。
そして自分の臭い精液が溢れた。部屋中がその臭いになって、嫌だった。人生は嫌だ。上手くいかない人生はもう嫌だ。そう身に染みて思うと、冬に近くなって下がりつつある室温の中でも、パンツを上げる気にならない。すると、酷く冷えた。さっきは上のどんどん撥ねる女と男の共同作業の為に熱いものを感じた腹の奥も、すっかり冷え切った。上のあいつらのせいで俺の人生は惨めなんだ、と憎らしくも思えてきた。怒鳴りこんでやろうか、セックスが煩いって。そして「好きよ」と言って多分満足したろう女の温まって色づいた顔でも覗き込んでやろうか。そうだ、俺も、あれが言われたかったのだ。陰茎の根本を握るのは自分の右手じゃなくて女の股についてる方の唇の筋肉で、それで女は俺に対して「好きよ」と言って。そして優しく湿っているのが心に伝わって、とにかく安心する。そういうのが、良かった。俺もそういう人生なら良かった。そういう瞬間が、一時でもある人生なら良かった。そう思って、あらゆる事が嫌になってくると、頭痛がした。憎らしくて、憂鬱が高じ、高じた鬱は頭痛を呼んだ。そして、何より、寒かった。
すると、また上の、憎らしい幸せな連中の声。
「お前、寒くない?」
「寒くないよ」
今度は男の優し気な声もはっきりと分かった。既に、建物全体が軋む様な、元気の良いセックスの振動はおさまっていたから。
「ね、あなた、寒くない?」
「ああ、こうしてれば」
最中の声より大きい筈がないのに、奇妙な位はっきりと聞こえた。聞きたくないのに聞こえた。憎たらしいカップルの思いやり合う声なんて、聞きたくなかった。つらかった。だってそれは、俺のものじゃない。俺は覗いたり、聞き耳を立てたりすることが出来るだけのもの。部外者だ、本当の人生からの。全く酷いボロアパートだった。全く酷い人生だった。酷い、酷い…酷く心に染みる声のやり取りだった。
「寒くない?」
そうだ、ここは寒い。でも、あんな風に思いやり合う相手があるなら、どんなに違う事だろう。俺は上の奴らが憎らしいんじゃない、妬ましいんだ。そう分かると、やっと身体が納得してくれるのを感じた。あとはもう、眠るしかないだろうという事を。
仕事の帰り道、無償に尾崎豊の『I LOVE YOU』が聞きたくなって、オーディオに古いディスクを入れた。『軋むベッドの上で、優しさを持ち寄り』という歌詞が耳から臓腑の方にストンと落ちると、この歌が聞きたくなった理由が、昨晩寝る前に悩まされた、上の住人の性生活の音にあった事に気付かされた。なるほど、あの二人の立てる羨ましい音に苛立たせられながらも遂に怒鳴り込まないでしまった理由は、彼らが立てる軋みが、優しさをなんとか持ち寄って、この寒い夜になんとか堪えている事に過ぎないんだと、何処かで気付いていたからなのかも知れない。あいつらは、生き物として当たり前の過ごし方をしていたんだ。そして俺が、苛立ったり、深い憂鬱に頭を締め付けられたりしながら暮らしているのは、その当たり前の自然が、俺には手に入らないものだからなんだ。
『この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい』と尾崎が言う。『だからおまえは小猫の様な泣き声で』と歌う。そうだ、あの女の「好き」は、今考えると、まるで鳴き声みたいだったじゃないか。だからだ、あんな、珍しくもない隣家のセックスの音なんかに、酷く勃起させられたのは。俺はもう四十になる。気鬱に纏わりつかれる性格のせいも加算され、欲情の習慣など忘れかけている。筈だった。それなのに昨夜はあんなに勃起して、高く絶頂さえ感じてたまらなかったのは、あれに感じたのが欲情ではなく、愛情だったからだ。そう納得する思いがした。そして、つい彼らの様に「お前、寒くない?」と呟いてみた。車内でも独りぼっちは変わらなかった。本当に、ここは寒いよな、と声に出さずに自分に答えた。
帰宅すると、赤い回転灯が回っていた。パトカーと、救急車だった。居住者がお世辞にも多いとは思えないこの空室だらけのボロアパートに、沢山の野次馬が集まっていた。何の騒ぎか知らないが、とにかく部屋に帰りたい、疲れてウチに帰りたいんだと近づいていくと、警官が声を掛けてきた。そこの扉の部屋の住人なんだ、と答えると騒動の理由を教えてくれた。アパートで二人の死人が発見されたらしい。と言っても、状況や情報から事件性は極めて低い。ここは内密な話だが大方薬物に因る揃いの自殺、心中であろうと考えられる。だから、単に周辺状況や経緯の確認の為に、真下の部屋の住人であるという事で軽く聴取させてもらいたい次第なんですが、あなたが何かしらの危害の容疑を掛けられるという可能性は低い。まあ緊張しなくても宜しい…というような話を、驚くほど馴れ馴れしい口調で教えてくれた。
しかし一点酷く驚かされた箇所があった。
「真下?二人って、私の真上の部屋のカップルですか?」
とつい声を上げる。警官は、
「よくご存じですね、交流があったんですか」
と問う。
「いえ、面識は無いんですけど、昨夜も、その、性行為っぽい音と揺れに悩まされましてね。ほら、この古さですから、一部会話の内容まで筒抜けで」
と答える。すると、途端に警官が怪訝な表情を示す。
「昨夜…?本当に、昨夜ですか?記憶違いじゃありませんか?」
と、先ほどまでとは打って変わって鋭く問う。
「ええ、昨日の事ですから、記憶違いって事は考えづらいんですけども…何か…?」
と俺が返すと、警官はしばし考え込む。
「いえね、遺体が発見されたのは今日なんですが…まあ、キチンと司法解剖してみるまでは、確かな事は言えないのは確かなんですがね…」
もごもごと前置きを暫く続けてから、やがて意を決した様に
「パッと見でも明らかに、死亡したのは一週間以上は前なんですよ。臭いなんかは感じませんでしたか?蠅が異様に多かったとか?」
俺は呆然としながら、「ありません」とだけ答えた。
「そうですか…まあ、きっと記憶違いなんですよ。その話は」
と、急に初めの馴れ馴れしい感じに戻り、変に明るく言った。それから
「不確かな記憶で捜査に支障が出るとかはそれほどないんで、まあお気になさらず…それに、時々ある事なんですよ。こういう食い違いはね」
と言い残し、急激に感心が失せた様に、俺から離れて行った。そして、俺は困惑したまま部屋に戻った。
部屋に戻る事を誰も止めなかった。
職務に勤しんで、自分を困惑させる事実を与えた事に頓着しない警官は、機械みたいだった。きっと寒さを感じないんだろうな、俺や…彼らの感じる寒さを。と考えた。死んだ彼ら。俺が彼らの営みと愛の声を聞いた時には、間違いなく死んでいたという、彼ら。
確かに昨晩聞いたのだ。「好き」。その声音で射精して、臭くなったティッシュは、今も大して乾きもせず、ゴミ箱の中に入って悪臭を撒き散らしていた。警官は「臭いなんかは感じませんでしたか?」と警官は尋問の様に尋ねた。俺は、気付かなかったよ、と、赤色の回転灯の明かりが入り込んでくる暗い室内で、声にも出せずに返答してみる。「時々あるんです」と警官は答えて、俺に対する仕事をやめた。それを思い返し、そして何より、現実にこんな愛し合い方があったら良いのにと思う様な、美しいあの、
「寒くないよ」
「こうしてればね」
という、ありえない程鮮明に聞こえてきた会話を思い出して、そうして一人合点した。ああ、あれは話に聞く幽霊というものだったんだ。あの声は。
俺の様に加齢して歪んだ人間が、現実にこんな愛があったらいいのに、と心底思えたという事自体が、それを証明しているんだ。あれは、この世のものじゃあ無かったんだ。
みんな、あんな風に誰かと愛し合えたらいい、と思いながら死んでいく。誰も、多分誰しもが望んだ様には手に入らず死んでいく。だから、こんなに寒い。ここは、寒い。
そうして、みんな死んだ後に、本当の事が分かるんだ。
「ね、あなた、寒くない?」
と、もう一度聞こえてきて欲しかった。でも中々聞こえてこない。この赤色灯の明かりが入る室内では、野次馬や警官の立てる喧噪が入り込んでくる室内では、とてももう一度聞こえて来そうにはない。寂しくて、陰部を出して握ってみるが、いつまでも萎んだ風船みたいに力が無いままだった。俺は「お前、寒くない?」と、もう一度呟いてみた。




