第03章
もし――死の先に、何らかの裁きがあるのだとしたら。もし――自分の過去を弁明する機会が与えられるのなら。俺は、きっとこんな風に口を開いていただろう。か細い声で、すべての前置きを。
「俺は……どこで生まれたのかも、実は覚えてないんだ」
そう告げて、言葉を濁す。「最初の記憶は……ストリートにいたこと。それだけだ」
そこで、思考が自然と止まる。記憶の奥底、痛みとともに呼び起こされる幼少期の情景。
「まあ、覚えてる人間もいるっちゃいる。人間って呼べるのかも怪しいけどな。少しの間だけ一緒にいた。でも俺は、あまりにも多くの場所にたらい回しにされすぎて……名前も、どれだけの日々を共にしたかも、もう分からない」
深く息を吸い、脳裏に浮かぶのは、かつて俺の全てだったストリートの風景。
「一番古い記憶って言ったら、ゴミ箱を漁ってたことだな。まるでアライグマみたいにな。あの頃は、別に楽しい人生じゃなかったけど……俺にとっちゃ、充分だった」
わずかに笑いが漏れる。その笑いには、苦々しい皮肉が滲んでいた。
「ニックネームまであったんだぜ。“ハッサン、ストリートの王子様”だってさ」
もちろん、分かってた。あれが皮肉でしかなかったことなんて。俺は“王子”なんて言葉が似合うほど、誰かに囲まれてたわけでもないし、仲間や手下がいたわけでもない。ただの孤独な少年だ。それでも――それでも、俺は自分なりに、ちゃんとやってた。尊敬されてたわけじゃないけど、恐れられてはいた。それで、十分だった。
そして俺は、静かに人生の記憶を語り続けていく。それは、生存と野望が織りなす、苦くも美しい一枚のタペストリーだった。
「どうして野心を持ったのか、そのきっかけまでは覚えてない。でも……俺には、確かに“夢”があった。大それたもんじゃない。けど、俺にとっては十分な野望だった」
「スラム街から出たかった。自分だけの家が欲しかった。車も欲しかった。ちゃんとした服も着たかった。ただ、それだけだ」
その野心に、初めて火がついた瞬間を思い出す。
「はっきり覚えてる。俺がその夢を持ったのは……たぶん十二歳の頃。そこから、少しずつ変わろうとした。まずは、自分の人付き合いの下手さを何とかしようって思った」
「で、ゴロツキになった。……だって、その方が手っ取り早く上に行けそうだったからな。ギャングを渡り歩いて、同盟を変えて、少しずつ上に上がっていった。忠誠心?そんなもん、最初から持ってなかった。だって分かってたんだ、俺が一緒にいた連中は、俺の夢を叶えてくれるような奴らじゃないって」
「だから、俺にとっては全部“踏み台”だった。そういう連中を、俺は踏んで、前に進んだ」
少し、声が静かになる。思い返す記憶は数えきれない。
「何回それを繰り返したか、もはや覚えてない。でも、たしか十五のときだった。ある出来事があった。俺の人生を、大きく変える出来事だ」
「拾われたんだ。裏の世界で動く、とある組織にな。あらゆる“汚れ仕事”を取り扱う、アンダーグラウンドのプロ集団。……その組織を率いていたのが、“あの人”だった」
その顔が、まざまざと脳裏に浮かぶ。
「何が彼の目に止まったのかは分からない。俺の完璧主義っぷりか、徹底した忠実さか……他に何がある?」
「でも、あの組織に入ってからは――早かった。夢はすぐに叶った。いや、正直、叶えるどころじゃない。遥かに超えていた」
「高級車。複数の邸宅。センス抜群のスーツ。全部、あの組織が与えてくれた。……“あの人”が、俺にくれたんだ」
そのとき、言葉の端々に感謝の気持ちが滲み始める。
「冷酷とか、感情がないとか、よく言われたけどな……感謝だけは、忘れたことなかった。俺は、すべてを彼らに与えられた。確かに、俺がやってた仕事は“醜い”とか“汚い”って呼ばれてるけど――正直、何が違うんだ?」
「スラムで、居場所を奪おうとしたバカの頭をレンガで砕くのと、年老いたマフィアのボスをプールで沈めるのと。違いなんてねぇよ。唯一あるとすれば……“値段”だけだ」
そこで、ふと口をつぐむ。目に映るのは、複雑に絡み合う倫理と現実。
「俺を“化け物”だって言う奴もいる。でも俺は、違う。人間だ。ただの、一人の人間だよ。値段を決めるのは俺じゃない。俺は、ただ“値段に従って”動いていただけ」
「その“値段”を与えてくれたのが、あの組織だったんだ」
そこまで語り終えたとき、声には疲労と、わずかな後悔が滲んでいた。
「だからこそ、俺は――本気で、その組織を敬っていた。忠誠なんて自分には無いと思ってたけど……全部、捧げた。組織にも、“あの人”にも。なのに、今の俺は……」
その瞬間――どうしても、納得がいかなかった。
こんな結末、こんな扱いが、本当に“公平”なのか?内側から、理不尽への怒りが沸き上がる。
「……俺は、こんな仕打ちを受けるような奴だったか? まあ……そうかもしれねぇ。でも、それでも。せめて、言い訳くらいさせてくれてもいいだろ? もっと上の存在にさ、俺の人生の背景、語らせてくれてもよかったんじゃないか?」
「貧しい生まれ、まともじゃなかった育ち……俺が罪に手を染めたのには、それなりの理由があった。今だって、全部話しただろ?」
「それなのに、何のチャンスもなく、こんな場所に放り出されるって……おかしいだろ……! こんなの……あんまりだ!」
俺の叫びは、虚空に溶けるように消えていった。耳に響くのは、己の声――苦悶と絶望の叫び声だけだった。
「熱い……! 焼ける……っ! 痛い……っ、痛すぎる……!」
俺は、ただその苦しみに、呑まれていた。
寝転んでいる……そう思ったはずだが、自信はなかった。目を開けているのか閉じているのかも分からない。見えるのは、ただ眩しすぎるほどの光だけ。色の区別もつかず、それが“光”と呼べるものなのかさえ、もはや判別できない。
ただ、その光の存在感だけが、俺を焼き尽くそうとしていた。灼熱が、肌を、肉を、魂をも蝕んでいく。
身体があるのかどうかも分からなかった。手足の感覚すら曖昧で、己の肉体という存在をまったく認識できなかった。それでも確かに感じていた。この身が――何か、強烈な光に包まれているということを。それは、これまで味わったどんな痛みよりも凄絶で、言葉では到底言い表せない地獄そのものだった。
他人の悲鳴も、呻き声も聞こえない。姿も見えない。だが、それでも“誰か”がいる気配だけは、確かにあった。
その中で――何かが聞こえた。いや、音というには違和感があった。それはまるで、誰かが遠くで泣いているような“気配”だった。それは、俺ではなかった。
その存在があることで、ほんの少しだけ孤独が和らいだ気がした。だが、それでも苦しみは変わらない。この絶え間ない灼熱と痛みに囚われたまま、俺は、どこまでも孤独だった。
俺は……地獄に来てしまったのだ。かつて何度も他人に言われた、“地獄に堕ちろ”というその場所に。
時の流れは、歪み、溶けていた。一瞬ごとが永遠に感じられ、逃れようにも逃れられない苦痛が、永遠に続いていた。
もし、ここが“死後の世界”というものなのだとすれば――俺の過去が、砕けたガラス片のように脳裏をよぎった。
普通なら、こういう場面では、愛する人の顔とか、忘れかけていた幸せな記憶とか……そんなものが浮かんでくるものじゃないのか?でも、俺の前に現れたのは、かつて俺が手にかけた人間たちの、歪みきった顔ばかりだった。
俺の邸宅は? あの高級車たちは? オーダーメイドのスーツは?今こそ、それらが必要だった。すべてが「価値あることだった」と証明してくれる、何よりの証拠のはずだった。
だが、時間が経つにつれ――いや、実際にはそれが“時間”だったのかも定かではないが――俺は、ようやく気づいてしまった。
……全部、無意味だったんだ、と。
その瞬間、心のどこかがポキリと折れた。
「結婚、しときゃよかったな……。身長一七五くらいの金髪美人……いや、金髪じゃなくても別によかった。子供も、作ってりゃよかった。男の子と女の子、もしくは二人ずつでもいいし、全部男でも全部女でも……今思えば、なんでもよかった」
「なんで、あんなに理想にこだわってたんだ、俺……?」
そう思った時には、もう手遅れだった。すべてを悟ってしまった今、俺はただ“終わり”を求めた。
この灼熱の世界から抜け出したかった。どんな形でもいい、せめて一瞬でも楽になりたかった。だが、希望すらも焼き尽くされたかのように、出口など存在しなかった。
ここには、救いはない。贖罪もない。あるのは、ただ容赦なく焼き尽くす炎。肉体だけでなく、魂すらも焦がし尽くす、終わりなき業火。
他人の姿は見えず、声も聞こえない。だが、確かに存在する。無数の魂が、俺と同じようにこの地獄に囚われ、苦しみ続けている。
あの“光”――それは、もはや“神”のような存在だと思えるようになっていた。冷たく、無慈悲で、感情を持たぬ光。俺がずっと信じていた“神なんてそんなもんだ”という像そのものだった。
その光に焼かれながら、俺は考えずにはいられなかった。ここから出る方法はあるのか?救いは、贖罪の道は、存在するのか?それとも、これが永遠の運命なのか?
答えは、どこにもなかった。もし答えがあるのなら、それは人知の及ばぬ場所に隠されていた。
まるで現実の構造そのものが崩壊して、俺という存在が、苦しみだけが満ちる無形の虚無に放り込まれたようだった。
永遠に終わらない、終わりなき苦しみの中で――俺は、意味を探していた。この苦痛に、果たして意味はあるのか?終わりはあるのか?どうすれば、この運命に終止符を打てるのか?贖いの可能性は、どこかにあるのか?それとも――これは本当に、“全ての終わり”なのか……?
だが、答えはどこにもなかった。
それだけは、確かだった。
この悪夢のような世界で、時間は俺の“敵”であり、“味方”でもあった。容赦なく続く苦痛の永遠を突きつけてくる存在でありながら、その一方で、わずかな“内省”の時間を与えてくれるものでもあった。
その内省の中で、俺は何度も過去を辿った。犯してきた罪、取り返しのつかない失敗、後悔の数々。それらはまるで、悪意に満ちた劇場のように繰り返し目の前に再現され、俺を責め立てた。
他人に与えた苦しみ、見捨てたチャンス、そして俺自身が選び続けてきた冷酷さ。それら全てが、止まることのない痛みと共に押し寄せる。
やがて、その絶え間ない苦悶の中で――ひとつの“気づき”が、じわじわと心に染み込んできた。それは、自分がどれほどの“業”を背負っていたのかという、あまりにも明白で残酷な理解だった。
「……もう、分かったよ」
俺は誰に向けるでもなく、声を発した。いや、発した“つもり”だった。その声は虚空の中に掻き消え、届くのは自分自身の耳にすらかすかな響きだけだった。
「終わらせてくれ……この痛みを……この存在を……」
言葉は途切れ途切れで、苦しみと混じった叫びにも近かった。それは懇願というより、もはや“本能的な訴え”だった。
その声は、形なきこの世界に反響し、他の誰かの、いや“無数の”魂の嗚咽と混ざり合った。この終わりのない静寂の中で、俺は――ほんのわずかな希望にすがった。誰か、あるいは何かが、この絶望の果てに耳を傾け、俺を解放してくれるのではないかと。
この苦しみは、本当に“罰”だけなのだろうか。もしかすると――もしかすると、これは“救済”のチャンスではないのか。この地獄のような光の中で、自らの闇と向き合い、業火によって浄化され、許しへと辿り着く――そんな道が、あるのではないかと。
……ああ、今思えば、あの時の俺はもう“正気”を失い始めていたのかもしれない。いや、きっとそうだったんだろう。
でも、そう考えることでしか、救われなかった。“これには終わりがある”と信じるしかなかったんだ。
だけど、その“救い”への道があるとしても、それは果てしなく長く、そして過酷なものに違いなかった。この地獄を彷徨う魂たちの、無言の悲鳴がそれを証明していた。
もし“救済”という戦いがあるのだとしたら、俺の戦いは、まだ始まったばかりだったのだ。
この時の流れが存在しない空間――秒と永遠が入り混じり、現実の輪郭が曖昧になるその“何か”の中で、それは起きた。
“それ”が起きた瞬間がいつだったのか、俺にはもう分からない。“今”だったのか、“前”だったのか、“後”だったのか……時間という概念は、とうに意味を失っていた。
あの光――俺を焼き尽くし、すべてを蝕んできた、絶対的な存在。神か、神に近い何か。そう思わずにはいられなかったその圧倒的な輝きの中から、それは現れた。
圧倒的な光柱。世界の中心から噴き出すように現れた、凄まじいまでの輝きが、俺を包み込んだ。
その瞬間――痛みが、消えた。
長きに渡り、俺を蝕んできたあらゆる苦しみが、まるで幻のように消え去っていった。その光の中にあって、俺は初めて“安らぎ”というものを知った。
それは、言葉にできないほどの静寂と安堵だった。長く続いた痛みの残滓すら残さず、ただただ――穏やかだった。
そして、俺はもう“終わり”を願うことすらやめていた。ただ、あの光に身を委ねた。無限の優しさに包まれながら、自らの意識が、何か大いなるものと一体化していくのを感じた。
それが“救い”だったのか、“消滅”だったのかは、分からない。もはや、言葉に意味などなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
――俺は、ようやく、自由になれたのだ。