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「う、美しい⋯⋯?」
美しいなんてとんでもない⋯⋯。
——僕に『美しい』などという形容詞が似合うはずがないのに?
だけどルードヴィッヒはもう一度、
「ほんとうにお美しい」
とつぶやき、ますます強い視線で見つめてくる。
——こんなに見つめられたら、穴が開くんじゃないかな?
本気でそう心配するほどの視線の強さだ。
「あ、あの⋯⋯。ではぜひ、薬草園を案内してください⋯⋯」
なんとか話題を変えようとすると、
「ああ、そうしよう」
ルードヴィッヒはやっと視線を外してくれた。
ホッとしてルードヴィッヒのあとにつづいて部屋を出る。
長い廊下を歩いていると、少しずつ胸の鼓動も落ち着いてきた。
「あ、あの⋯⋯、辺境伯さま?」
「ん?」
「ほんとうに僕を雇ってくださるのですか?」
「もちろんだ」
「でも、僕は、身元もはっきりしないのですが⋯⋯」
「追放された悪役令息ならば、とうぜん身元は隠したいだろう。それはよくわかっている。アレクシアどのの過去を深く詮索するようなことは絶対にしない。だから安心してくれ」
安心してくれ——ルードヴィッヒのその言葉を聞くと、心の中のもやもやしたものがさーっと消えていくような気がする。
大きな安心感が心に満ちていく。こんな感覚は初めてだった。幼いころからいつもなにかに怯えていたのに⋯⋯。
——いいのかな? このまま、ルードヴィッヒさまの優しさに甘えていいのかな?
だけど同時に、自分がルードヴィッヒを騙していることも気になって仕方がない。
——僕はルードヴィッヒさまに嘘をついている。こんなにやさしいお方を騙している。
心苦しさでいっぱいだ。
「あの⋯⋯、でも、やっぱり僕は⋯⋯」
「薬草園を見たら、きっと断りたくなるかもしれないな」
「え?」
どういう意味だろうか?
「我が城の薬草園はもうずっと薬師がいない。手入れをしていないので、雑草が生えている。ひどい状態だ。そんな状態の薬草園を任されても嫌だろう?」
「えっと⋯⋯、どうでしょうか⋯⋯。あの、⋯⋯薬師の方を、今まで雇われなかったのはどうしてですか?」
「国王が住む首都にならば薬草術を教える学校があるだろうがここにはない。ゆえに薬師も多くはない——ということだ。そういえば、首都にあるセント・リリィという名の修道院が、薬草術の最高峰だと聞いたことがあるな⋯⋯」
——セント・リリィ修道院!?
その名前を聞いたとたんに、アレクシアの体はビクッと大きく震えた。
セント・リリイ修道院はアレクシアがいた修道院だ。アレクシアに罪を着せた場所だ。
——落ち着け、落ち着け、僕の心臓⋯⋯。
そっと両手で胸を押さえて、心の中の動揺をがんばって隠した。
——ルードヴィッヒさまは首都のことをよくご存知なんだ。だったら、きっと、王を呪った罪で逃亡中のオメガ聖女のことも、お聞きになっているはず⋯⋯。
「アレクシアどの?」
「え?」
「——ここが薬草園だ」
「あっ⋯⋯」
顔を上げると、そこには眩しいほど明るい冬の日差し⋯⋯。そしてその光をたっぷりと受けたとても広い薬草園が広がっていた。
「雑草ばかりだろう?」
「⋯⋯はい」
たしかに雑草がいっぱいだった。あちこちに枯れて茶色くなった薬草らしきあとがあるが、それ以外はすべて雑草だ。
「薬草は領民の役に立つ。アレクシアどのの薬草の知識があれば、ここも復活できると思ったが、嫌なら仕方がない」
ルードヴィッヒの声はとても残念そうだ。
——領民のみなさんのため? たしかに、この広い薬草園が完成したら、たくさんのポーションを作れるに違いない⋯⋯。そうすれば人々を癒すことができる。それに、もしかしたら、⋯⋯もしかしたらだけど、こんな僕でも、お役にたてるかもしれない?
生まれてからずっとセント・リリィ修道院で暮らしてきたのだ。貴族出身のオメガ聖女たちのように授業を受けさせてはもらえなかったが、こっそりと薬草術の本を読んできた。薬草の知識はたくさん持っている。
その薬草の知識に聖女の奇跡の力を加えることがもしできたならば、きっと素晴らしいポーションができる⋯⋯。
——こんなに親切にしてくださったルードヴィッヒさまにご恩返しができるかもしれない。いつかは逃亡中のオメガだと知られるとしても、それまでは、ここで薬師として働く⋯⋯。ああ、そうできたら、どんなにいいだろう!
「ほんとうに、放浪中の僕のような者で、よろしいのですか?」
「ここは国境の地だ。中央のような保守的な思想では生きてはいけない。放浪中でもまったく構わない。過去は問わぬ——と、言ったであろう?」
「では、あの⋯⋯、どこまでできるかわかりませんが、やらせていただきます。マジョラムやネロリなら比較的簡単に⋯⋯。うわっ!」
と大きな声をあげたのは、ルードヴィヒがいきなり手を握ってきたから⋯⋯。
「アレクシアどの——」
「え? は、はい⋯⋯?」
「心から感謝している——」
ルードヴィッヒの声はすごく優しくて、大きな手はとても温かかった。
*****
「夢?」
パチッと目を開けるとすぐに左右を見回した。
アレクシアは天蓋付きの豪華な寝台に寝ていた。窓の外は冬晴れ。明るい朝日がまぶしいほど輝いている。小鳥たちがチュンチュンとかわいらしい声で鳴いている。
「ああ、よかった。夢じゃないんだ⋯⋯」
アレクシアはほーっと大きな息を吐いた。
きのうからずっと夢のなかにいるような気持ちがしているのだ。
初めて食べる美味しくてたっぷりの食事に、とてもいい香りがする高級な衣服、それに暖かくて居心地のいい豪華な部屋も——。
薬草園の薬師の仕事までもらえた。
「ルードヴィッヒさまはなんて親切で心の大きなお方なんだろう⋯⋯。命を救ったことに感謝するとおっしゃったけど、感謝すべきは僕の方だ。僕は、いつかはここから去らなければならない逃亡オメガ聖女だけど、とにかく今はルードヴィッヒさまのために、僕にできることを精一杯がんばろう。さあ、薬草園へ行こう!」
自分を元気づけるようにそう言って、寝台から足をおろしたとき、ちょうど黒髪の少年従者のカールが茶器の乗ったトレイを手に入ってきた。
「おはようございます、アレクシアさま! 今朝のお目覚めの紅茶はアールグレイをご用意いたしました、さあ、どうぞ!」
「おはようございます、カールさん。とってもいい香りですね」
花と蝶が描かれた茶器が美しい。そっと紅茶カップを口に運ぶと、ふわりと甘いエキゾチックな花の香りがした。
「とっても美味しいです。ありがとうございます」
お礼を言いながら思い出す。
——あ、そうだ! また忘れていたけど、僕は悪役令息のふりをしているんだった。
こんなにおだやかな会話をしていたら、『悪役令息らしくない』と思われるかもしれない⋯⋯。悪役令息はわがままで意地悪な令息のはずなのだから。だけどどういう態度をとったら悪役令息らしくなるんだろう? わがままで、意地悪ということは⋯⋯?
頭に浮かんだのは、セント・リリィ修道院で自分が受けてきた数えきれないほどの意地悪だ。
紅茶のカップを投げつけられたり、わざと転ばされたり⋯⋯。
——この紅茶カップをカールさんに投げつける? そんなこと、できない。
こんなに優しくしてくれる相手に熱い紅茶が入ったカップを投げるなんて、ぜったいにできるはずがないではないか。
——悪役令息は難しいな⋯⋯。だけど、やらなきゃいけないし⋯⋯。
カップをギュッと握りしめて決心した。
——よし、このカップを投げるぞ!
だけど実際にやれたのは、紅茶カップを少しかたむけて数滴だけ床に落とすこと⋯⋯。
「あっ、ごめんなさい!」
これだけでもひどく動揺した。紅茶の水滴が落ちたのはフカフカの白い絨毯の上。うっすら茶色い紅茶のシミがついてしまったではないか!
「カールさん、ごめんなさい! ほんとうにごめんなさい! すぐに拭きます、ほんとうにごめんなさい!」
「どうぞそのままになさっていてくださいアレクシアさま! わたくしが拭きますから」
「いいえ、僕がやります!」
掃除は子供のころからずっとやってきたのだ。得意技といってもいいほどだ。
「布をお借りしてもいいですか? できればお酢かなにかがあれば⋯⋯。あ、こっちにもなにかのシミがありますね。⋯⋯ついでですので、この猫足のテーブルの裏も拭いておきますね。あっ、ここにも汚れが!」
いつのまにか夢中になって掃除をしてしまった。
「あの⋯⋯、アレクシアさま⋯⋯?」
カールが呆気に取られているのにも気がつかないほどだ。
「さあ、きれいになりました!」
ふぅーっと大きく安堵の息を吐くと、カールが大きな拍手をした。
「うわーっ、アレクシアさまってすごい才能がおありなのですね! そのシミはずっと取れなくて、侍女たちが悩んでいたのですよ。ほんとうにありがとうございます! 侍女たちもすごく感謝するはずですよ!」
「えっ? 感謝ですか?」
ちょっと待って⋯⋯。感謝されたら悪役令息にならないのではないだろうか⋯⋯?
「⋯⋯どうしよう、困ったな」
「どうかなさいましたか、アレクシアさま?」
「い、いいえ、⋯⋯なんでもありません」
「ではお召替えをいたしましょう! アレクシアさま、今日のお召し物はどれになさいますか? クローゼットルームにはまだ数十着しかありませんが、あすには数百着に増えるはずでございます」
「数百着⋯⋯?」
聞き間違えだろかと思いながらカールと一緒にクローゼットルームに行くと、どうやら聞き間違えではないようだった。
クローゼットルームは驚くほどの広さだ。色とりどりの服がずらりと数十着ならんでいる。それでもまだじゅうぶんに余裕があった。数百着ぐらい軽く入る広さだ。
「そんなにたくさんの服はいただけません、一着でも十分なほどです」
「アレクシアさまはルードヴィッヒさまの命の恩人ではありませんか、数百着の服ぐらい少ないぐらいですよ。さあ、今朝はどの服になさいますか? このクリーム色のフロックコートなどいかがですか? 真珠の飾りが、上品な雰囲気にきっとよくお似合いでございます!」
カールはいつも押しが強い。
戸惑っていると、あっというまに寝着を脱がされ、着替えが始まってしまった。
真珠の飾りが胸元に入ったクリーム色のフロックコートは艶のあるシルクだ。しっとりと冷たいシルク生地の感触が、うっとりするほど肌に気持ちがいい。
オメガ襟も同じ色のシルク。中心に大きな一粒の真珠の飾りがついていてとっても上品だ。
「銀色の髪によく似合っていらっしゃいます!」
「⋯⋯そうでしょうか?」
鏡の中には、上品な真珠飾りの服に、艶のある銀色の長い髪の少年オメガがいる。
まるで真珠の精霊のような清らかな姿だ。
——なんだか夢のつづきにいるみたいだな。
ふわふわと高揚した気持ちがした。
服を整え終わったら朝食の間に向かう。
「今朝は大きなオムレツをご用意しました。料理長はオムレツの名人なんですよ」
カールの言葉を聞いただけでとっても美味しそうで、お腹がグーッと鳴ってしまった。
朝食の間は二階だ。広いバルコニーにテーブルと椅子が用意され、銀器の紅茶セットや、淡い黄色のほんとうに大きなオムレツ、そして新鮮な果物などが美しく並んでいた。
大きなグラスにたっぷりと注がれたオレンジジュースもある。焼きたてのパンがカゴに入っていて、香ばしくて食欲をそそるバターの香りがする。
バルコニーの手すりは淡いピンクの花が咲くツル薔薇で飾られていた。
まるで絵画の中の完璧な朝食シーンのようだ。
「こんなにたくさん用意してくださってありがとうございます。でも僕はパンと水がいただければじゅうぶんです⋯⋯」
「パンと水でございますか? ご冗談がお上手ですね、アレクシアさまは」
「い、いえ⋯⋯。冗談ではないのですが⋯⋯。それにしても、冬に薔薇が咲くのは珍しいですね」
「雪待ちの薔薇という品種でございます、とっても珍しい冬に咲く薔薇で、遠い異国の小国からの貢ぎ物なんだそうです。でも、この薔薇が咲くということは、そろそろ雪が降るということなんです。この辺りはものすごく雪が降るんですよ。降り出すと吹雪のようになるんです。⋯⋯なんだか今日あたり、降りそうですよね?」
カールが空を見上げた。
「そうですね、あれは雪雲のようですね」
遠くの空に黒い雲がたくさん見える。
「あっ! アレクシアさま、下をごらんください!」
「え?」
「ほら、あそこですよ。もうすぐルードヴィッヒさまがお出ましになられますよ。国境警備におでかけなんです」
カールがバルコニーから身を乗り出す。
「ルードヴィッヒさまが?」
アレクシアも下を見た。
城門の前の広場には、馬に乗った騎士が何十人も並んでいた。
黒くて短いマントを羽織っている。腰には剣。どの兵も屈強でとても強そうだ。
「ほら、いらっしゃいました!」
「あっ⋯⋯!」
現れたのは、どの騎士よりも逞しいアルファの騎士——。
ルードヴィッヒ・フォン・シュタイン辺境伯だ。
白馬に乗り、漆黒の長いマントを羽織っている。馬の動きに合わせてマントが優雅に揺れている。
「辺境伯閣下!」
騎士のひとりが大きな声をあげた。他の騎士たちがいっせいに「おお!」と叫んで剣を天に突き上げる。
ものすごい迫力だ。
——かっこいいなあ⋯⋯。
うっとりと見惚れてしまった。胸がドキドキするし頬は燃えるように熱い。
——ルードヴィッヒさまは、まるで神話の中から抜け出してきた、伝説の騎士のようだ⋯⋯。
ルードヴィッヒが騎士たちをぐるりと見渡した。
静かだが力強い声で、
「我が軍の勝利に——」
と言い、長剣を天に高くかかげた。
「おお!」
「辺境伯さま!」
「勝利に!」
「勝利に!」
騎士たちが声上げ、城門を出ていく。
騎士団の姿が道の向こうに小さくなって消えるまで、アレクシアはいつまでもずっと見つめていた。
続く