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「え?」
——仕事?!
とつぜんの申し出にびっくりした。
ルードヴィッヒの笑みが大きくなる。思わずボーッと見惚れてしまいそうになるほど、美しい微笑みだ。
その神々しいほどの笑顔でルードヴィッヒは話をつづける。
「もちろん、わがままで自分勝手な悪役令息どのならば、こんなにいい条件の申し出を断ったりはしないはず」
悪役令息どの——と呼ばれると、断ろうにも断れないではないか。
——仕事をいただけたらすごく助かる⋯⋯。だけど、こんなに親切にしてもらっていいのかな?
思いがけない申し出にどう答えたらいいのかわからない。ほんとうに困ってしまった。
「いえ、あの⋯⋯。そんなによくしていただけるのはありがたいのですが、あまりにももうしわけありませんし⋯⋯」
「ほお——。なんとも悪役令息らしくない返事だ」
「え? 悪役令息⋯⋯? あ、そうですよね! 僕は悪役令息ですよね! ということは、つまり、⋯⋯僕は悪役令息なので、その⋯⋯、あの⋯⋯」
「つまり——ほんとうにそなたが悪役令息ならば、俺の申し出を断ったりはしない——ということだろう?」
「え? は、はい⋯⋯、あの⋯⋯、はい」
——どうしよう、これじゃあ永遠に断ることができない⋯⋯。
いつのまにか、うなずくしかない状況になってしまっているではないか。
アレクシアが戸惑いながらもうなずくと、ルードヴィッヒの笑顔はますます大きくなった。
「では、決まりだな、悪役令息どの——」
*****
「え? このお部屋に僕が泊まってもいいのですか?」
アレクシアは信じられない思いで部屋を見回した。
ルードヴィッヒが案内してくれた部屋は、可愛らしい中庭に面していた。
中庭には小さな噴水があり、低木に囲まれた小道がそのまわりを囲んでいる。
大きな窓には真っ白なレースのカーテンが揺れている。座り心地が良さそうなクリーム色のソファ、優雅な猫脚の書き物机⋯⋯。
隣の部屋は寝室のようだ。天蓋付きの寝台が見える。
とても華やかで豪華な部屋だった。
「狭いか? ならばもっと大きな部屋に⋯⋯」
「いいえ、いいえ! 十分過ぎるほど広いです! 広すぎて僕にはもったいないお部屋です。もっと小さな、たとえば屋根裏部屋などはありませんか?」
「屋根裏部屋? そのような部屋を望むとは、悪役令息とは思えない言葉⋯⋯」
またしてもクスッと笑いながらルードヴィッヒがつぶやいた。
「え?」
——ああ、どうしよう、ほんとうに困ったな。悪役令息のふりをしたせいで、なにも断ることができない⋯⋯。どうしたらいいんだろう? 聖女だって言えたらどんなにいいか⋯⋯。こんなにお優しくて親切なルードヴィッヒさまを騙しつづけるのはもうしわけないし⋯⋯。ルードヴィッヒさま、嘘をついてごめんなさい!
心の中で深く頭を下げて謝った。
「しつれいいたします、ルードヴィッヒさま、アレクシアさま——」
そこに元気に飛び込んできたのは少年従者のカールだ。華やかな色とりどりのリボンで飾られた大きな衣装箱を抱えている。
「アレクシアさまのおめしかえの用意ができました!」
衣装箱の中には淡いブルーのフロックコートとそろいのズボン、手の込んだ刺繍入りの靴下、上質な革靴、そして艶のあるシルク製のオメガ襟などが入っていた。
高級な衣服に縁がない身でも、一眼で最高級の技術で仕立てられたものだとわかる品々だ。
フロックコートの襟元には花模様がびっしりと刺繍してあるし、シルクのオメガ襟には何枚も重なったレースの飾りもついている。すばらしく美しい⋯⋯。
——なんて素敵な服なんだろう⋯⋯。だけど辺境伯さまを騙している僕には、こんなに気遣っていただける資格はないんだ⋯⋯。
断らないとぜったいにだめだ、と強く決心した。
「ありがたいお申し出でございますが、急ぎのようがありますので、僕はもう旅立ちたいと思い⋯⋯あれ?」
手をギュッと握りしめ必死で断ろうとしたのに、ふりむいたら、いつのまにかルードヴィッヒの姿がないではないか?
「カールさん、辺境伯さまはどちらに行かれたのですか?」
「ルードヴィッヒさまは紳士でいらっしゃいますから、ご遠慮なさったのだと思います」
「ご遠慮? なにをですか?」
「アレクシアさまのご入浴とお着替えでございます。さあ、これからお風呂にお入りください」
「え? お風呂⋯⋯?」
「はい、そうでございます。長旅でお疲れでしょう? さあ、どうぞこちらへ」
「でも、僕は急ぎのようが⋯⋯」
なんとか断ろうとしたときだった。壁にかかった大きな鏡に映った自分の姿に気がついた。
「あっ⋯⋯!!」
思わず声をあげてしまったほど、みっともない⋯⋯。
もちろん、髪や服がボロボロなのは自分でもよくわかっている。だけどこうしてあらためて自分を見ると、目を背けたくなるほどの姿ではないか⋯⋯。
——こんな格好でルードヴィッヒさまのおもてなしを受けてしまったなんて⋯⋯。なんて失礼なことをしてしまったんだ。
恥ずかしさともうしわけなさに泣きたくなってきた。
「アレクシアさま、どうかなさいましたか?」
カールが不思議そうに首をかしげる。
「いえ⋯⋯、なんでもありません。ほんとうにいろいろとありがとうございました。あの⋯⋯、じつは急ぎのようがあるので、そろそろ失礼したいと思います。心のこもったおもてなしにたいへん感謝しております——と、ルードヴィッヒさまにお伝えください」
「なにをおっしゃっているんですか、アレクシアさま。アレクシアさまはルードヴィッヒさまの命の恩人でいらっしゃると聞きました。今ここでお帰りになったら、わたくしはルードヴィッヒさまにものすごーく叱られてしまいますよ! さあ、どうぞどうぞお風呂に行きましょう! 遠慮は無用でございますよ!!」
カールがぐいぐいと背中を押す。
「でも、あの⋯⋯」
結局は断れないままバスルームに連れていかれた。
「さあ、お脱ぎください! お手伝いしましょうか?」
「え? いえ、大丈夫です⋯⋯」
「お湯が冷めないうちにどうぞ!」
「⋯⋯あ、はい」
カールの勢いに負けて服を脱いだ。
真っ白な大理石のバスルームだった。壁や柱には美しい金色の飾りがある。小さな窓から低く入ってくる冬の日差しに、バスルーム全体がキラキラと光っている。
バスタブも真っ白な大理石製で、優雅な猫足は金色だ。
たっぷりのお湯が入っていて、湯の表面にはふわふわの白い泡が浮かんでいた。石鹸の泡のようだ。花々に包まれているような甘い香りが漂っている。
そのお湯の中に、そっと足を入れると⋯⋯、
——なんて気持ちがいいんだろう!
身体中の力がすーっと抜けていくような感じがした。
お湯は心地よい熱さだった。息をするたびに甘い花の香りがする。
体を動かすと、湯の表面の泡が、ふわり、ふわりと透明なシャボンになって飛んでいく⋯⋯。
——夢の中にいるみたいだ⋯⋯。
長旅の疲れと緊張が、一瞬で溶けていった。
「アレクシアさま、お髪もきれいになりました」
「⋯⋯え?」
カールの声にハッとして目を開けると、目の前には着替えを手にしたカールがニコニコと笑っていた。
どうやら、あまりの気持ちよさにウトウトと眠ってしまっていたようだ。
しかもカールは髪も洗ってくれたらしい。ホコリだらけだった銀色の髪が今ではサラサラで花の香りまでしている。
「さあ、どうぞお着替えください」
「⋯⋯ほんとうにありがとうございます」
淡いブルーのフロックコートはピッタリと体にあった。ズボンを身につけ、ピカピカに光る革靴を履き、レースがたっぷりと飾られたオメガ襟を首に巻いた。
「わあっ! お美しいです、アレクシアさま!」
カールが感嘆の声をあげる。
きっとお世辞だと思った。だけど鏡を見ると、そこにはとても上品な雰囲気の貴族の令息がいるではないか⋯⋯。艶のあるサラサラの銀髪に紫色の瞳。風呂上がりの肌は、淡いピンク色に美しく色付いている。
「これが、僕⋯⋯?」
信じられなくて、穴が開きそうなぐらい鏡をじーっと見つめた。
そのとき、後ろから低くて男らしい声が聞こえた。
「とてもよくお似合いだ」
「えっ?」
振り向くと、見上げるほど背が高くがっしりとした体格のアルファ騎士——ルードヴィッヒ辺境伯がじっとこっちを見つめていた。
——ルードヴィッヒさま、いつのまに?
いなくなるのも現れるのも、まったく気配を感じさせないのは歴戦の勇者だからだろうか?
——いつからいらしたんだろう?
とたんに胸がドキドキとしてくる。オメガ襟の下の首がカーッと燃えるように熱くなっていった。
ルードヴィッヒに見つめられると、なぜか必ず首が熱くなるのだ⋯⋯。
——似合っている? ほんとうかな⋯⋯。こんなに品がよくて高級な服、僕には不釣り合いじゃないかな?
ものすごく照れくさかった。
「ありがとうございます、ルードヴィッヒ辺境伯さま⋯⋯。あの⋯⋯、食事も服も、ほんとうに感謝しています」
「感謝してもしきれないのは俺のほうだ。命を救ってもらった」
ルードヴィッヒが強い視線で見つめてくるので、鼓動がますます速くなった。
——どうしてこんなに僕をご覧になるんだろう?
こんなに見られたら恥ずかしくて仕方がないではないか。隠れるところがあるならば隠れてしまいたいほどだ。
カールが、「お茶のご用意をいたしますね」と部屋から出ていく。
ふたりきりになっても、ルードヴィッヒの視線はずっとこっちを見つめたままだ。
「あ、あの⋯⋯、あれは薬草がよく効いたからなんです⋯⋯。だからそんなに感謝していただいたら、恐縮してしまいます⋯⋯」
「薬草? そうだ、薬草園に案内しようと思っていたのだった。あまりにお美しい姿に見惚れてしまい、すっかり忘れていた」
「う、美しい⋯⋯?」
続く