8
アンの部屋に辿り着いたレイモンドは、小さな燭台に火を灯した。
「暗くて悪いけれど……」
ここに人がいると気付かれてはならない。そのため夜の今は特に、明かりを取ることが難しかった。
「かまわないわよぉ、呪術に顔色は関係ないもの」
さっそく、とアンの枕元に寄ったジェインは、その首元にある呪術の痕を見て眉根を寄せた。
「これは……」
「何かわかった?」
「なんていうかぁ……、この子が『聖女』じゃなかったら、たぶん今ごろ死んでたわよ」
「そんなに……、酷いものなの?」
ジェインは肩を竦めて頷いた。軽い調子で言われた言葉だったが、冗談であるような雰囲気は欠片もない。
自分があの時あのまま箱に触れていたならば、と考えれば、アンはまさしく己の命を救ってくれたのだと感謝の念が湧く。少しそれと同時に、やはり彼女を犠牲にしてしまったという罪悪感が胸を刺した。
「それで、ジェイン。この呪いは解けるの?」
「正直、かなり難しいわねぇ。この子が救った『聖女の力』が、呪いをより複雑にしているの」
かつて解呪に失敗してきた者たちが言っていた、「解呪を阻む大きな力」というのが、ジェインの言う「聖女の力」同等のものだろう。
「ほとんど無理、と言っても過言じゃないわ。ただし、わたし以外ならねぇ」
パチンと片目を瞑るジェインに、レイモンドは俯きかけていた顔を上げた。
「それって……」
「――――っう、く」
「アン!?」
その時突然、アンが呻き声を上げた。
十年ぶりの声だった。しかし喜ぶことはできない。ベッドを覗き込めば彼女の表情は苦しみに歪み、脂汗が浮かんでいる。手はギュッとシーツを握りしめていた。
何かしたのかとジェインを見るが、彼女も困惑の表情を浮かべて、何もしていないと首を振った。
「よくわからないけれど、呪術の力が強まっているみたい。見て、文様が光っているでしょう?」
ジェインの言葉通り、彼女の指差す先では、アンの首元の痣が赤黒さを増し、うっすらと光を帯びている。
「どうしたら……」
「今すぐ解呪しなければ。鞄を取ってくれる?」
レイモンドは、ジェインの持参していた鞄を彼女に渡した。その中には何かの器具や、薬草、液体の入った小瓶など、様々なものが詰められていた。
「これとこれ……、それから……」
ジェインは幾何学模様の描かれた小さな紙をアンの胸元に置いた。その上に薬草の葉を散らす。次に彼女は黄色味を帯びた少し粘性のある液体を取り出し、それをアンの額に塗る。
「それは?」
「聖油よぉ。呪術に絡まった聖女の力を抑えるために使うわ」
「それって、大丈夫なの?」
アンは聖女の力によって命を繋ぎ止めていると、ジェイン自身が言っていたはずだ。不安になって訊ねると、ジェインは少し困った顔した。
「……本当のことを言うと、少し危ないわねぇ。でも、それをしないと解けないの」
「――わかった、ジェインを信じるよ」
大丈夫だと安請け合いするよりも、彼女もその返答は信用できる気がした。
信じるという言葉に安堵したのか、少し表情を緩めたジェインは、頷き返すと表情を引き締めた。
「はじめるわ」
「あの、さ。アンの手を握ってもいい?」
レイモンドの問いに一瞬ぽかんとしたジェインだったが、ふっと笑って頷いた。
「えぇ、握っていてあげて」
レイモンドがアンの細い手を包み込む。呪いの影響で苦しいのだろう。握り返してきたその手の力は、痛みを感じるほど強かった。
ジェインがアンの上に置いた紙に手をかざす。そして、彼女が目を閉じた時、どこからともなくぶわりと風が吹いた。その風はジェインの服をはためかせ、髪を巻き上げる。それからアンにかざした手を中心に、淡い光が灯る。その光はアンの身体全体を包むように広がっていった。
「っ……」
ジェインの額から汗が滑り落ちる。
「もぅ、すこし……」
反発するようにアンの首元の痣が赤黒い光を放つ。レイモンドの手を握るアンの力も強まった。
「――ッ」
アンが苦しげに息をついて、ギュッとレイモンドの手を強く握りしめる。その瞬間、ジェインの手から放たれていた光も、目を開けていられないほど眩しいものとなった。
その光が治まるのと同じように、アンの手からも力が抜けていく。レイモンドは目をこすってアンの顔を覗き込んだ。
「あ……」
顔で首元の痣が消えている。そして、アンは何事もなかったかのようなやわらかな表情で、寝息を立てていた。
「ああ、アン……」
レイモンドはアンの頬に手を滑らせる。
この子が眠っている。今までのような、生きているのかもわからないような眠りではなく、ただ本当にすやすやと眠っている。握っていた手を手首に移動させれば、脈まで感じられた。
「もうしばらくしたら、目も覚めると思うわぁ」
ジェインは紙や薬草を片付け、額の聖油を布で拭いながらそう言った。
「ありがとう、ジェイン……。本当に、ありが――」
彼女には何度お礼を言っても言い足りない。そう思いながら感謝の気持ちを口にしていた時だった。
それ以上声が出ない。何かが上がってくるような嫌な感じガがした。口元を手で押さえ、アンから顔を背ける。
「レイモンド……!?」
酷い咳き込み方をした。身体を折り曲げて、その発作が治まるのを待つ。
「――ここにいるのですか!? 今の光は……、――!!」
その時、部屋へと入ってきたセイルが瞠目する。
レイモンドは、何をそんなに驚いているのだろうと、彼をぼんやり見上げながら、ふと己の手のひらを見た。
「あ……」
その手は真っ赤な血で染まっていた。受け止めきれなかった鮮血は、腕と胸や足まで、血に染めている。
「まさか、呪詛返し……!? どうして……」
レイモンドの傍に膝をついたジェインは、レイモンドの顔を覗き込んで青ざめている。
「――これではっきりしましたな」
セイルの後ろから現れたレニールが、愉悦と侮蔑の混じった笑みを浮かべながら現れる。
「我らが聖女様を呪ったのは、妹君の地位を奪おうとした貴様であると」
何か反論しなければ。
しかし血を失いすぎたのか、視界がぐらぐらして、もう頭がまともに動かない。
「…………けて、」
レイモンドは重い頭を必死で上げた。そこには、顔色を失ったまま動けないでいるセイルの姿がある。
「セイル……」
「――――、ッ!」
視界が急に反転して暗くなる。
レイモンドは意識を失った。