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「ふぅ……」
「本当にこんな場所に人が住んでいるんでしょうか……」
レイモンドのついた溜息にセイルがポツリと零す。
今レイモンドたちは、鬱蒼と木々の生い茂る森の中にいた。上を見上げても空すら見えない場所だ。道とも言えぬような獣道を辿り、ジェインの住むという家を目指していた。
木々が行く手を阻むだけで、凶暴な肉食獣などは存在しないこの森だが、女が一人で住んでいるとはにわかには信じがたかった。
額に滲む汗を拭おうとして、慌てて手を止める。額の聖女の証は多少のことでは落ちない特殊な顔料で描かれているが、乱暴に擦れば当然滲んだり掠れたりしてしまう。なのでレイモンドは、懐から取り出したハンカチで、花模様に当たらないようにポンポンと押さえた。
「大丈夫ですか?」
「うん、心配な――、あっ」
心配ないと言おうとした矢先に、何かに躓いて転びそうになった。
「っと……」
しかし上体がぐらついた時には、セイルに強く腕を引かれその胸に収まっていた。
「あ、ありがとう……」
転びかけたからか、心音が早い。それを早く落ち着けようと、彼の胸に顔を伏せたまま呼吸を整える。
そうしているとセイルは、レイモンドのその様子を勘違いしたらしく、心配げな顔でこちらを覗き込んできた。
「どうしました? もしかして、足を痛めましたか?」
「違うよ、大丈夫」
いつまでも彼に縋りついていたのが急に恥ずかしくなり、慌てて首を横に振った。
それよりも、何に躓いたのだろう。木の根などはなかったように思う。
レイモンドが、自身が転んだ場所を覗き込もうとした時、セイルが「あ」と声をあげた。
「セイル、どうかした?」
「あれではないですか、『ジェインの家』は」
そう言って彼が指差す先には、先程歩いていた時にはなかったはずの小さな家があった。
「いつのまに……」
よく見れば、自分たちは先程とは違う場所にいるようだった。森の中なのは同じだが、家の周囲を中心にその森は明るく開けている。
それを見てレイモンドは合点がいった。あの躓いた時に、この家を囲んでいる結界か何かを超えることができたのだろう。つまり――
「僕たちは、『魔女』のお眼鏡にかなったみたいだね」
ジェインは、彼女を慕う人々から、畏怖と尊敬を込めて「森の魔女」と呼ばれているのだそうだ。
その時、家の扉が開いた。
「あらぁ、いらっしゃい」
黒く長い髪を背に垂らした彼女は、オリーブ色の瞳を細めてそういった。
「あなたが『ジェイン』?」
「そう呼ぶ人もいるわねぇ」
どこか掴みどころのない雰囲気の彼女は、ゆったりとこちらに歩み寄ってくる。
「さあこっちへ、眠り姫のお兄様」
ジェインがそう言った瞬間、レイモンドは思わず後ずさった。セイルも緊張感を漲らせている。
彼女は確かにレイモンドの方を向いてそう呼びかけた。つまり、彼女はレイモンドが男であることも、その妹がいま動けないでいることも、知っていると言ったに等しい。
セイルは腰に佩いていた剣の柄に手をかけ、レイモンドの前に一歩出た。
「貴様、何を知っている?」
彼女の言葉に反応を返してしまった以上、何のことだととぼけるわけにもいかない。セイルの冷たい声は、場合によっては彼女を始末することも辞さないという気迫が見て取れた。
「警戒しないくていいわ。わたしは人よりほんのすこぉし、見えるものが多いというだけだもの」
「誰から何を聞いた」
「あらやだぁ……、話が通じないのねぇ。そっちのお姫様はどうかしら?」
ジェインに微笑みかけられたレイモンドは、小さく溜息をついて、セイルの腕にそっと触れた。
「セイル」
「しかし……」
後ろに下がっているように目線で伝えると、彼は渋りながらも一歩下がった。
それを横目にレイモンドはジェインに向き直る。
「僕は『お姫様』なんですか?」
「だってあなたは『囚われのお姫様』。そうでしょう?」
「……たしかに」
レイモンドは自嘲を浮かべながら、肩を竦めた。彼女の言うとおり自分は「聖女の地位」に囚われているとも言えるだろう。
「なら、あなたは何ですか?」
「さぁ……? お姫様を救う魔法使い、かしら」
わたしは魔女だもの。
そう言ってジェインは片目を瞑った。
招き入れられた家の中は、小さいながらもやわらかな居心地のよい空間に纏められていた。
入ってすぐの場所にあるリビングに足を向けたジェインは、セイルの方を見上げる。
「あなたは、ここにいてちょうだいねぇ。それから、お姫様はこっち」
「な……、待て!」
それだけ言うとさっさと歩いて行こうとする彼女を、セイルが引き止めた。
「私はこの方の護衛だ。一人にはできない」
「もぅ……、随分と頭が固いのねぇ……。そこの部屋でお話しするだけよ」
ジェインの顔にはうんざりとした表情が浮かんでいる。
「信用できるか」
「信用できないなら、どうしてここに来たっていうのぉ?」
レイモンドは、二人の間にバチバチと火花のようなものが飛ぶのを幻視した。仕方がないと、溜息混じりに彼らを制止する。
「セイル、僕は大丈夫だから、ここで待っていてほしい。……それじゃあ行きましょう、ジェイン」
「貴方がそう仰るなら……」
「……そうねぇ。行きましょうか、お姫様」
セイルの視線を受けながら、先程ジェインが指し示した部屋に入ると、ふわりと薬草の香りがした。
「ちょっと狭いから気を付けてねぇ」
その言葉通り部屋は、作業台らしき机と周囲には壁一面を埋める棚と本棚があった。鉢植えや乱雑に積まれた本のがあり、人の通れる隙間は少なかった。
「ここ、座ってちょうだい」
作業台の下から引っ張り出した小さな丸椅子を指差して、ジェインはその対面に置いた同じ椅子に腰をかけた。
「あの、どうして彼を遠ざけたのですか?」
「ん~? 聞かれたくないこともあるかな、って思って。特にあなた…………、名前を聞いていなかったわねぇ」
「……レイモンド、です」
「そう、レイモンド」
レイモンドは今日も聖女としての格好をしている。一瞬、妹の名前を言うべきかと悩んだわ、本名を口にして正解だったらしい。ジェインは満足そうに頷いて微笑んだ。
「さぁ、教えて。今日はわたしに何をして欲しくて、ここまで来たの?」
「……体調不良の原因が知りたくて」
そう告げると、ジェインはここに来て初めて驚いた顔をした。
「あらぁ、そっちなのねぇ?」
「『そっち』……?」
「それなら答えは簡単だわぁ」
レイモンドの疑問を無視して、ジェインはそう言った。
「まぁ……。簡単というよりも、本当は自分でも理由が分かってるんでしょう?」
ジェインの全てを見透かすような視線にドキリとする。
「なんの……」
「誤魔化さなくてもいいわよぉ? 飲んでいるんでしょう、薬」
ズバリ割り当てられて、レイモンドは息を飲んだ。
薬と言われて思いつくのは一つしかない。数年前から服用している、成長止める薬のことだ。
本当はうっすらとその可能性に気付いていた。ただ、自分にはどうしても必要だったため、気付かないふりをしていただけだ。
ただこれは誰にも――セイルにも、言っていないことだった。先程は「彼に聞かれて困ることなどない」と思っていたが、今はジェインと二人でよかったと思っていた。
あの薬を手に入れてきたのは、枢機卿の一人であるレニールだ。それが原因で体調を崩していることセイルに言うのは少し――
「やっぱり飲んでいるのねぇ」
「……どうして、分かったのですか」
レイモンドははっきりと答えたわけではなかったが、彼女の中ではもう決定事項らしい。それならばもう誤魔化しても意味がないと思った。
しかし不思議なのは、彼女は別に診察も何もしていない。それなのにどうしてと訊ねると、彼女はこともなげに言った。
「あぁ、だって……。あれ、わたしが作ったんだもの」
「え?」
「正確には、レシピを作って渡してあげたんだけどねぇ……」
触診のためだろう、少し触っていいかという問いに頷いて、レイモンドは服を少しはだけた。
薬の影響で幼さの残る身体を見て、ジェインは眉根を寄せた。
そして無言のまま、レイモンドの首筋、胸……と触れていく。
「あなた、何年薬を飲んでいたの」
問われて、いつからだったかぱっと思い出せず答えに窮すると、、その意味するところがわかったのかジェインは項垂れて首を横に振った。
「もういいわ。覚えてないほど昔なのね。――注意事項は聞かなかった?」
「注意事項?」
何のことかわからず問い返すと、ジェインは顔を覆ってしまう。
「伝えてないなんて、なんてことかしら……」
ジェインは顔を覆ったまましばらく嘆いた後、一転して真剣な顔でレイモンドを見た。
「あのね、あの薬は『長期間服用してはいけない』って、最初にちゃんと伝えたはずなの。無理やり身体の成長を止めるのだから、身体に何の影響もないわけがないでしょう?」
言われてみればその通りだった。必要に迫られて飲みはじめた薬だが、その服用を止めた時どうなるのか――。それを怖いと、はじめて思った。
「まだ飲んでいる?」
「……はい」
「今すぐやめなさい」
作った本人がこれほど厳しい顔で言うのだから、きっと素直に頷くのが一番なのだということは分かっていた。しかしレイモンドは、それにどうしても同意することができない。
「無理です」
「……どうして?」
「ぼ――、私は『聖女』だからです」
アンが目覚めるその時まで、その座を守らなければならない。それが彼女を犠牲にして今も生きながらえている自分の贖罪だと信じていた。
「このまま飲み続ければ……、死んでしまうかもしれなくても?」
レイモンドはジェインの顔を見ていることができなくなって俯いた。それでも問いには、頷く。引くことなんてできないのだ。
「…………わかったわぁ」
諦めたような困ったよなそんな声に、レイモンドはのろのろと顔を上げる。
「そこまで覚悟を決めた顔をされたんじゃあ、わたしからは何も言えないわぁ」
代わりに、と言って立ち上がったジェインは、戸棚から薬と思わしき小瓶や薬包を取り出してくる。
「とりあえずこれだけねぇ。対処療法だけれど」
今起こっている体調不良――身体力の低下や胸の苦しさに、多少は効果のあるものなのだろう。それを向こう暫くは保ちそうな分量を包んでくれた。
これがなくなる頃にまた来たらいいのか。そう思ったレイモンドは、包みを抱えて立ち上がる。
「ねぇ、本当に……根本解決しなくていいのぉ」
立ち去ろうとしていた背中にジェインの声が追いかけてくる。
「根本と言っても……」
レイモンドは振り返りながらも、そこで言葉を切る。薬をやめられない以上どうすればいいというのだ。そんな思いを込めて彼女を見つめるか、当のジェインは、素知らぬ顔で近くに落ちていた丸く平たい何かを弄んでいた。
その表面には鏡がはめ込まれているようだが、その裏面の模様がレイモンドには何故か妙に引っかかった。
一歩、二歩と戻ってその模様を観察する。
そしてそれに気付いた時、レイモンドは息を飲んだ。
「それ、どこで……」
「もらい物」
そう言ってこれみよがしに掲げられたそれを見て確信する。
その模様はあまりにも似ていたのだ。
アンと、そしてレイモンドの人生を狂わせた、あの呪いの刻まれた箱の模様に。
「あなたは、それに……詳しい?」
「まぁ、そうねぇ。贈られてきても、死なない程度には」