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「アン、入るね」
返答がないのを知りながらレイモンドは、律儀にそう声をかけて薄暗い部屋へと足を踏み入れた。
大聖堂の最奥。人の立ち入りが厳しく制限されたその区画に、愛する妹アンがいる。
部屋の中には広いベッドが置かれており、その真ん中で彼女は人形のように身を横たえている。
真っ白な肌に輝く銀色の髪、そして今は閉ざされて見えないが澄んだ青色の瞳をした、レイモンドに瓜二つの少女だ。
呪いを受けた十年前から、彼女は呼吸も鼓動さえも止めて――、それでありながらも、いまだに命を繋ぎ眠っている。触れればあたたかく、幼い少女だった彼女が今や妙齢の女となっているが、それでも目を覚ましはしないのだ。
「今日もいい子にしてた?」
ついてきていたセイルが持ってきてくれた椅子に腰を据え、本物の聖女の証である花模様が額に浮かんだアンの頭を撫でる。
もうすぐ十八になる娘に対してかける言葉ではないというのは分かっていたが、成長する彼女の姿を見てもなお、レイモンドの中では彼女はまだ幼い子供のように感じていた。
たとえ、見た目の年齢が逆転してしまっていても。
レイモンドは幼さの残る己の手に苦笑する。今年二十歳を迎えるレイモンドだが、その見目は精々一五、六歳で止まってしまっている。
聖女を名乗った時、十歳だったレイモンドも時が経てば、服装で身体の変化を隠すのに無理が出てくる。そこで数年前からレイモンドは、協力者の一人であるレニール枢機卿が持ってきた薬を飲むようになった。
それは「男」の身体になりつつあったレイモンドの成長止め、今もどうにか「聖女」を名乗り続けることを可能としている。
「今日も沢山の人が、おまえに会うために来てくれたよ」
近いうちに「本当の限界」が来る。
それに気付かないふりをしながら、レイモンドは日々聖女を演じていた。
一体いつアンは目を覚ましてくれるのだろう。
彼女の纏う夜着の隙間から、禍々しい紋様が浮かぶ首元が見える。まるで喉を締めようとするかのように首にぐるりと現れるそれは、呪われた証であり、迂闊だった自分を責めるもののようにも感じた。
解呪方法も探している。だがそれを見た解呪師たちは、皆一様に「手に負えない」と首を振った。
何か呪術とは別の大きな力が絡まりあっており、それを解くのは困難なのだという。
そんなわけのわからない状況に手を出しあぐねている。
「アン……」
その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
セイルがすぐさまそちらに近寄って、扉を細く開ける。
「……お入り下さい」
周囲に人がいないの確認した後、彼は部屋の中に訪ねてきたその誰かを招き入れた。
「バルディア卿?」
「良かった。ここにおられましたか、レイモンド」
入ってきたのは、白髪の交じり出した金髪を撫で付けた壮年の美丈夫だ。彼――バルディア枢機卿は、聖女を戴く国教、それを取り仕切る司教の一人である。また、聖女の補佐官という名目ながら実質、国の宗教機構を牛耳っている三人の枢機卿の一人でもある。
「何かありましたか?」
もうあまり呼ぶ者のいなくなった、己の本来の名前を口にされるのを、くすぐったく思いながらレイモンドはバルディアに問いかけた。
「ええ、この間お申し付けいただいたものを」
そう言って彼は手に持っていた数枚の書類を差し出した。
「ああそうだった。ありがとう、卿」
「それは?」
受け取ったそれに目を通していると、セイルが不思議そうに訊ねてくる。
ああそういえば、これを頼んだ時、彼はいなかったかと思い出しつつ、レイモンドは顔を上げた。
「君も言ってたでしょ? 『別の医者に診てもらった方がいい』って。その当てにできそうな人物の一覧だよ」
「そう、ですか……」
一覧を捲りながら、何度かバルディアに質問しつつ候補を絞り込んでいく。
「――あれ、これは?」
残りの数人になったところで、最後のページに小さな走り書きのようなものがあることに気が付いた。
「あ、それは――、医師ではないのですが……」
その走り書きには、女性と思しき名前が記されている。
「『ジェイン』……。姓は?」
この国の民には全員、姓が存在する。何代か前の聖女が「戸籍」を作り全国民の出生死亡が記録されるようになってから、いかな貧民でもこの国の民である以上はそれを持っている。
しかし問われたバルディアは渋面をつくる。
「――……わかりません」
「わからない?」
「はい。そもそもその『ジェイン』という名前自体、本名かどうかすらわからないのです」
「……どういうこと?」
そんなことあるのかと、呆れ交じりに言うとバルディアもますます困った顔をする。
「彼女は王都郊外の森に住む薬師なのです。腕がよく、彼女の薬を求める客は後を絶たないとか。……ですがなにぶん、正身体が分かりかねますので」
本名かどうかも分からない名前、森の中に住むという怪しさ。この名前を見つけた時のバルディアの焦るような困った顔も、得体の知れない人間に「聖女」を近付けられないと思ったがゆえだったのだろう。
レイモンドはアンの穏やかの寝顔をちらりと見た。
「――彼女にするよ」
「は!?」
バルディアだけでなく、セイルも驚きの表情を浮かべている。何か言い募りたそうな二人を制して、レイモンドはにっこりと微笑んだ。
「決めたから」
確かに情報だけみれば、「ジェイン」はとても怪しい。
しかしその「怪しさ」が、何か現状を変えてくれるのではないかと、期待する気持ちがあったのだ。