16
「お兄様、たすけてぇ!」
レニールの巻き起こした騒動から早半月。
部屋に走り込んできたアンを抱きとめたレイモンドは、目を白黒させつつ、おいおいと泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。
「どうしたの」
「アン~? 逃げても許さないわよぉ?」
「ジェインがこわいのー!」
レイモンドの問いにアンが答える前に、額に青筋を浮かべたジェインが現れる。その手には分厚い本が握られていた。
レイモンドは、ああそういうことかと苦笑いした。
「アン……、僕にも出来たんだから大丈夫」
「お兄様のいじわる!!」
アンを半ば強引に立たせると、ジェインが彼女の腕をむんずと掴み上げた。ぎゃあぎゃあと二人が喧嘩する様を見ていると、後ろにいたセイルが、そっとレイモンドに耳打ちする。
「あの、レイモンド。あれは?」
「聖女として振る舞うための勉強……、ってとこかな。ジェインの持ってる本は聖典で、僕も昔、随分苦労して覚えたよ」
「ああ、あれが……」
レイモンドが説明するとセイルにも、アンとジェインのやり取りの意味が分かったのか、同情するような目線をアンに向けた。
「いいこと、アン? 先代聖女に教えを請えるなんて、破格の待遇なんだからね!」
「わ、わかってるけどぉ!」
「――あ、バルディア卿」
二人の声が廊下まで聞こえていたのか、今度はバルディアが顔を覗かせる。
「ユリアナ、ここにいましたか」
「あら、バル」
彼に気付いたジェインは、アンの腕を掴むのを止めて振り返る。
「もう……、ジェインと呼んで、って言ってるのに……」
ジェイン――、本名はユリアナという彼女の正体は、十五年ほど前に夭折したとされていた先代聖女だった。
彼女の聖女としての力は、アンとは逆の呪いの力。それを悪用しようとしたレニールによって、力を奪われ、これまで逃げ続けていたのだそうだ。
レニールの使っていた力は彼女から奪われたものであり、残されたほんの少しの力を使って薬師ジェインとなり、成長を止める薬などといった、通常ではありえないような薬を作っていたのだった。
長い間奪われていた力が、あの日に飲んだ聖水によって戻って来た。だから今の彼女の額には聖女の証があるはずなのだが、それは化粧によって巧妙に隠されている。
いわく、「今更、聖女に戻るなんてやぁよ」とのことだ。
「それで、わたしに何か用なの、バル?」
「ああそうでした。レニールの被害者が現れまして」
「えぇ、またぁ……?」
レニールが使っていた呪いの被害者を、今はジェインが見ている。予想以上に被害者はかなりの数に上り、こうして定期的に呼び出されている。
いつのまにかレイモンドの後ろに隠れていたアンが、少しほっとしたような顔をしたが、ジェインもそれを見逃しはしない。
「それじゃあ行ってくるけどぉ……。アン、これ、読んでおきなさいね」
そう言ってにっこりと笑い、分厚い聖典をアンの手に乗せた。
「うぅ……、わかりましたぁ……」
めそめそしながらも頷いたアンに、ジェインは表情を緩めてアンの頭を撫でた。
「いいこね、がんばるのよ」
「はい」
まんざらでもなさそうなアンの表情を見て、レイモンドは内心、ジェインは飴と鞭の使い分けが上手いと感心するのだった。
「さて、いきましょうか、バル」
「ええ」
バルディアが差し出した手を、当然のようにジェインが握り、二人は手を繋いで部屋を出て行った。
「わたしも…部屋に戻ってお勉強しますね、お兄様」
「うん、おまえならできるよ」
「はい!」
アンは満面の笑みで頷くと、来た時とは打って変わって軽い足取りで部屋を出て行った。
三人が出て行くとあっという間に部屋の中は静かになる。
「賑やかでしたね」
「そうだね……、こんな日々が来るなんて、想像してなかった」
一時は死さえも覚悟していた。それなのに、なんと今は幸福な日々だろう。
「それより君は良かったの?」
「……何がです?」
まるで思い当たることがない、とでも言いたげなセイルのきょとんとした顔を見て、少し眉根を寄せた。
「何が、って……。護衛のことだよ。どうして、アンじゃなくて僕の護衛を続けようなんて……」
レニールのあの事件以降、色々なものが変わった。
枢機卿は一人欠員が出て、新任を選定中。神官もかなりの人数が入れ替えになった。アンは聖女として正式に立ち、ジェインはその教育係となった。
そして今レイモンドだけが、聖女の兄というだけの微妙な立場に置かれている。何は身の振り方を考えなければならないだろう。
そんな中でセイルは、何故かレイモンドの護衛を志願した。彼の元々の身分は「聖女の護衛」である。ならば、そのままアンの護衛につくのが筋であるはずなのに、だ。
「僕は、アンが何と言おうと、いずれここを出て行く身だ」
あの時のように、「何も言わずに姿を消す」ということは、さすがにするつもりはないが、何者でもない自分が、このままここに居続けられると思えるほど楽観はしていない。
「――存じています、レイモンド」
「なら、なぜ――、っ!?」
不意に唇を塞がれる。口付けられている。そう悟るのに、あまり時間はかからなかった。
この半月、ジェインの家での出来事が夢だったのではないかと思うほど、セイルはこれまでとなんら変わらない態度をとってきた。
レイモンドは、セイルの腕をぎゅっと掴む。
甘い唇に、舌に、熱に浮かされながら、動きが鈍る頭で必死に考える。
何故今更、こんな――。
「っ……」
唇が離れ、レイモンドは息をついた。
「貴方が、ここを出て行くと言うなら……、共に参ります」
「なっ!?」
「貴方を守りたいのです。聖女でも誰でもない。レイモンド、貴方を。…………それ以上に、理由が必要ですか?」
セイルの熱を帯びた瞳に射抜かれて、レイモンドは二の句が継げなくなる。
何といえばよいのやら分からず、ぱくぱくと口を動かしていたレイモンドだったが、彼の決意が変わらないのを悟り、観念して溜息をついた。
「君も物好きだな」
「……先に『もっと』とねだったのは貴方では?」
一番はじめは、聖水を飲ませるための口移しだった。それをただの口付けにしたのは、たしかに自分である。
レイモンドは頬を真っ赤にして俯く。そして、やけくそ気味に真っ赤な顔のまま、セイルを睨み上げた。
「ああ、たしかに。その通りだ。だから……『もっと』だ」
セイルはふっと笑って、レイモンドの頬に触れた。
「仰せのままに、私だけの聖女様」
Fin.