15
「『罪人』は、一体どちらなのかしらねぇ」
その声が聞こえた時、レイモンドがどれほど安心したか知れない。
セイルに「大丈夫」だと言ったのは、殆ど願いに近かったのだ。
よかった間にあった、と安堵から力が抜けそうになる。だがまだへたり込んでいるわけにはいかない。レイモンドは握るセイルの手に力を込めた。
「……レイモンド」
握った手が力強く握り返される。隣に彼がいる。こんな心強いことはなかった。
「大丈夫、ジェインなら、手筈通り上手くやってくれる」
レイモンドの役目自体はもう終わったも同然なのだ。自分の役目は、ジェインがこうしてアンを救出するまでの時間稼ぎだったのだから。
「聖女様が二人……?」
さざめきのような人々の呟きからそんな声を拾う。
ああ、そんな風に見えるのかとレイモンドは、十年振りに見る立ち上がったアンを見つめた。
つい先日まで、寝たきりだったと思えないほど、しっかりと地面を踏みしめる彼女の姿があった。長い銀髪、纏う服すら奇しくも似た形のものだ。
聖女が二人いるように見えるのも、無理はない。
「――あそこにいらせられる方こそ、真実神より力を授けられた聖女様です」
「その通りよ」
アンを示しながら言ったレイモンドの言葉をジェインが引き取る。
「この方こそ、十年ものあいだ苦しみが人々に撒き散らされることのないようにと、たった一人耐え続けてくれていた御方です」
レニールの娘が怯えたように父の腕を掴むと、弾かれたようにレニールが口を開いた。
「デタラメを申すな! 彼らは我が娘が聖女となることを、妨害しようとしているのみである」
「あら、どうして?」
「……何?」
ジェインが人差し指を顎に添え、こてんと首を傾げる。
「だって、『聖女様』がこの世にたった一人だなんて、誰が決めたわけでもないでしょう? その子が本当に聖女だというのなら、誰が止められるものでもないわ」
そうよねと言うように、彼女はその背後にいるバルディア枢機卿を振り返る。彼はこくりと頷いて、それに同意した。
「それなのにそんなに焦っているのは、どういうことなのかしらねぇ……?」
レニールはさすがに平静を装っているが、その隣にいる娘は今にも倒れそうな顔色をしている。レイモンドはジェインの背後に一瞬、獲物を弄ぶ蛇を幻視したような気がした。
同じこと思ったのかバルディアが、少し疲れたような顔で口を挟む。
「……ジェイン。そろそろはっきりさせてはどうかな」
「それもそうねぇ」
頷いたジェインに、バルディアが小さな瓶を差し出した。その中には透明な液体が入っており、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
それを恭しく受け取ったジェインは、そのままアンに差し出した。
「さあ、聖女様」
しかしアンはそれを受け取るのを渋っている。
「やはりわたくしは、気が進みません……。他に方法があるのでは?」
「いいえ、聖女様」
ジェインは断固として首を振る。
「ここにいる人々は、この男の陰謀に巻き込まれた被害者……。真実を知る権利がありましょう。違いますか?」
「……わかりました。わたくしを救ってくれた、恩人であるあなたがそう言うのなら」
アンは瓶を受け取ると、それを両手で握り込み、祈りを捧げるような姿を見せる。そしてそれを、ジェインに返す。
「さて、この水は聖女様の祈りによって聖なるものへと変化しました。聖なるもの……すなわち邪を滅するもの――」
ジェインは、瓶の蓋を開けて半分を自分で飲み下す。そして、間髪入れずにそれをレニールに浴びせかけた。
「――このように」
「ぐわああああああああっっ!!」
途端にレニールが頭を押さえて苦しみ出した。ジェインは、それを悲しさの混じる静かな目で見下ろす。
「これは、この十年間に彼が行った悪行の報いを受けているに過ぎません。同じものを飲んだわたしが、この通り元気なのを見ればお分かりでしょう」
人々は緊張を滲ませてその様子を見守りながらも、納得が広がっていくのがわかる。だが、レイモンドとセイルには、それが本当の真実ではないことを、事前に知らされていた。
悪行の報いというのは、本当ではあるが、聖水の効果はそこではない。聖水はジェインにかけられていた呪いの効果を打ち消し、その呪いをかけた術者であるレニールには、呪詛返しが起きているに過ぎないのだ。
「――もう良いでしょう、ジェイン」
アンはレニールの傍に膝をつき、その額に手を当てる。すると、叫び声が不意に途切れ、レニールはどさりと地面に転がった。
「彼を連れていってください。――彼女も」
アンはレニールの傍らにいた娘も指し示す。その額にあった「精女の証」は、先程聖水がかかったのか、顔料が流れ落ちはじめていた。
レニールとその娘、それから彼に組した神官たちが捕らえられて、その場から消える。
「――さあ、これで誰が真実を口にしていたのか分かったでしょう」
場が騒然とする中で、ジェインがアンを人々の前に押し出す。彼らが口々に「聖女様」と呟くのを見ながら、レイモンドはその光景に背を向けた。
「レイモンド、何処へ?」
セイルに腕を掴まれて振り返る。
「もうアンは心配ないだろう? もう僕は必要ない。だから――」
「お兄様!」
ハッとして声の方向を見ると、割れた人並みの中をこちらへ走ってくるアンの姿が見えた。そしてその勢いのまま、レイモンドの胸に飛び込んでくる。アンはぎゅうっとレイモンドを抱きしめる。暫くそうした後、ようやく身体を離したものの、手は離さずにこちらを真っすぐに見上げた。
「……十年もの長い間、わたしの身代わりを務めてくださって、本当に、本当にありがとうございました」
「アン、僕は……」
「わたし、知っているのです。お兄様がご自分の身体を痛めてでも、わたしの居場所を失わせないようにしてくださったこと。それに、決して本物の聖女にも劣らぬほど、民のために祈ってくださっていたことも」
「アン……」
「このままいなくなるおつもり、だったのでしょう」
図星を刺され、レイモンドは黙り込む。これ以上は偽物の聖女が言い座り続け、混乱させるわけにはいかないと思っていた。
だがアンは、決して手を離さずに、首を横に振った。
「いけません、お兄様。あなたのような真に尊き御方を、失うわけにはいきません。なにより……、十年ぶりに再会できた愛するお兄様と、もう離れたくないのです」
決してどこにも行かせはしないという決意を表すように、アンが再びひしっとレイモンドの身体に腕をまわす。
「レイモンド、妹君の仰る通りではありませんか?」
セイルに後ろから肩へ手を置かれる。
「そうよぉ、諦めなさいな、レイモンド」
アンを追いかけてきたジェインも追い討ちをかける。
「…………仕方ないね」
レイモンドが肩を竦めると、アンがぱあっと顔を輝かせた。
その瞬間、周囲の人々もわっと歓声を上げる。どうやら、「聖女を騙った罪人」であるはずのレイモンドは、受け入れられたらしい。
どうしてこうなったと、空を見上げるとそこには抜けるような青空があった。耳が痛いほどの歓声が、その空に吸い込まれて消えていく。
血を吐いて倒れた時――、いや、「聖女」になると決めたあの日から、もう二度と堂々と明るい空の下を歩けると思っていなかった。
だが今周囲を見渡せば、嬉しそうに笑う元気な妹と、自分を愛してくれる人に囲まれている。
不思議な気分。
だが、悪い気はしなかった。