12
レイモンドが意識を保っていられたのは、ジェインの家の扉をくぐるまでだった。
身体が痛くて、痛くて、もう立っていることもできなかったのだ。
身体の内部から侵食してくる痛み。まるで肉体が作り変えられているような――。
それに気付いた時、不意に痛みの正体が分かった。
毎日、朝夕と飲んでいた成長を止める薬。それを最後に飲んでから、一日が経とうとしている。つまり――、レイモンドの身体は、これまで無理に止めていた成長がはじまっているのだろう。
ジェインの手によってソファへと寝かされたレイモンドは、これからどうなってしまうのだろうと、ぼんやりと思った。
「レイモンド、これを飲んで」
作業部屋の方へ向かったジェインは、慌ただしく戻ってきて薬の入った瓶を、レイモンドの口元に傾けた。
「……これは?」
「ただの痛み止め……」
レイモンドが薬を飲みきるのを見届けるとジェインは、休む暇もなく立ち上がった。
驚くべき早さで効きはじめた痛み止めは、レイモンドの呼吸を楽にしてくれる。
「どこへ、ジェイン……?」
少しだけ上体を起こして、家を出て行こうとするジェインの姿を目で追った。
「解毒薬を作るための薬草を取ってくるわ。今ある分じゃ作れないから」
「解毒?」
「あなたがずっと飲んでいた薬。その効果を打ち消すの」
行ってくるわ、と言ったジェインが扉を閉めると、レイモンドは薄暗い部屋の中で一人きりになった。
痛みはましになったが、体力が消耗していることには変わりない。黙って目を閉じれば、眠気が忍び寄ってくる。
ジェインは随分と焦っていた。このまま放っておけば命が危ないのだろうと察せられた。
だが――。
「…………つかれた」
レイモンドはソファに深く身を沈めて、ぽつりと呟いた。
もう、いいのではないだろうか。もう頑張らなくていいのでは。
十年間、張りつめ続けていた糸が切れてしまった気がする。
もうこのまま眠って、二度と目覚めなければどんなにか楽だろう――。
その時、キィと扉の開く音が聞こえた。ジェインが戻ってきたのかと思ったが、それにしては静かすぎる。
「――――、」
入って来た「誰か」は、レイモンドのすぐ傍までやってきて、こちらをじっと見下ろしているような視線を感じた。
うっすらと目を開く。ぼやけた視界は、なかなか焦点を結んでくれない。だが、そこに立つのが、やはりジェインではないのは分かった。
…………セイル?
一瞬そんなことを思うが、ここにいるわけがないと思い直す。
――いや……、僕を殺しに来たのなら、ありうるか。
目の前の男は夢の見せた幻か、それとも現実なのだろうか。
彼がレイモンドの頬へ手を伸ばすが、触れる寸前でその手を止めた。
「…………、」
目の前の彼が、夢か幻かなどそんなことはどちらでもよかった。ただ、死ぬ間際に見る夢のようなものなのならば、悪くない夢だと思った。
ただほんの少しだけ、その手がこれ以上近付いてこないのを残念に感じる。
これが夢ならば、この十年間を最も近くで見ていたこの男に、「頑張った」とただ一言、褒めて欲しかった。
しかし、そんな都合のいい夢など存在しなかったのだろう。
彼が己の懐に手を差し入れるのを見て、レイモンドは微かなの諦念と共に目を閉じた。
他の誰とも知れぬ相手よりは、自分を殺す相手がこの男でよかったと思う。きっと彼ならば、長くを苦しませることはしないだろう。
そうしてレイモンドは、襲い来るであろう痛みを待つ。
しかし、不意にあたたかな手が、レイモンドの頬に触れた。
「――ぅ……?」
そして、それに驚く間もなく、やわらかな感触がレイモンドの唇を塞いだ。
目を開ければ、整った男の相貌が目の前にあった。
ああ、これはやはり夢だ。
そうでなければ、この男が自分に口付けをするわけがない。
彼とはそんな関係ではなかった。だが、不思議と嫌ではない。レイモンドは、大人しく目を閉じる。
「ん……」
男が舌でレイモンドの唇を割るのも、そのまま受け入れた。合わさった唇の隙間から水のようなさらさらとした液体が流れ込んでくる。
「っ、……ぁ」
それを嚥下すると、彼の唇が離れていった。
それが何故だかとても寂しくなる。
「まって……、もっと」
レイモンドが手を伸ばせば、相手が驚いたような気配を感じた。しかし、彼はその手を優しく掴んでくれる。
「……んっ」
そして、再び唇が重なった。
戸惑いのようなぎこちなさが混じる。だがそれも次第に熱に浮かされるような甘さへと転じていく。
口付けの合間に、男の手がレイモンドの耳の後ろをなぞった。背筋を上るような背徳感に震え――、レイモンドははたと気付いた。
先程まで感じていた身体の不快感が、綺麗さっぱり消えている。
驚きにぱちりと目を開くと、こちらの異変を感じ取ったらしい男と目が合った。
「あ……? セイル、ほんとに……?」
「……レイモンド?」
妙に艶っぽいセイルの囁きに、頬がぶわりと熱くなる。
口元を押さえ、目の前にいる彼をぽかんとしたまま凝視する。
夢じゃなかったのか!? と混乱が頭を占め、何を言うことも出来ない。
それになにより――
「な…で、名前……」
今更、どうしてそんな甘やかな声で、自分の名を呼ぶのか。
「――名前?」
「い、いままで、一度も……、名前を呼ばなかった、じゃないか……」
なにをそんなネチネチとした嫌味のようなことを言っているのだろうと、レイモンドはセイルから視線を背ける。
「ああ……、それは……」
セイルがレイモンドの髪の一房を持ち上げて、そこに口付ける。
「私は……、憶病だったのです」
「――臆病?」
レイモンドの髪に視線を落としたままのセイルは呟く。
「『聖女』の貴方をそう呼んでしまえば……、貴方かそれともあの方か、選ばなければならないと、知っていたので」
あの方――。セイルがそう呼ぶ相手に、心当たりは一人しかいない。レニール枢機卿だ。
「貴方を、職務を超えて――恩人を裏切ってまで、守りたい人に……したくなかったのですよ、レイモンド」
顔を上げたセイルは、困ったような笑顔を浮かべた。レイモンドは彼のはじめて見るそんな表情に、ぎゅっと胸を掴まれるような心地がした。
「それなら、どうしてここに……」
「さあ……。でも、血を吐く貴方を見た時、心はもう決まっていた気がします」
セイルが再び身をかがめ、レイモンドも自然と目を閉じる。
昨日まで聖女と護衛、ただそれだけの関係だったはずなのに。だが、その変化を不思議に思いこそすれ、疎んではいない自分にレイモンドは気付く。
クスと笑いを漏らせば、唇が触れ合いそうなほど間近で、セイルが動きを止める。
「レイモンド?」
「いや、何でもない」
ただ君に名前を呼ばれるだけで、こんなにも嬉しいのだとは、口にするのは恥ずかしくて首を振る。その代わりに、続きをねだるようにレイモンドは、セイルの方へ手を伸ばした。
だが、唇が重なり合う寸前、バンッと扉の開く大きな音が聞こえ、二人は動きを止めた。
おそるおそる起き上がると、そこには急いで帰ってきたのだろうジェインの姿がある。
「あ……、ジェイン、その、おかえり……」
レイモンドが声をかけると、どこかでブチッと何かが千切れるような音を聞いた気がした。
「あなたたち……、一体そこで病人相手に何してるのか、よぉく聞かせてもらえるかしらぁ……?」
満面の笑みを浮かべるジェインの目は、全く笑っていなかった。