8.里帰りの夜
「ああ、疲れた」
ドカッと家の中の椅子に座った。行儀が悪いとかそんなの構っていられない位疲れていた。ずっと馬に乗って移動して来て足はガクガクだし、その後も隣家の幼馴染に捕まりあれこれ聞かれて答えていたのだ。やっと解放されて休める。
「でも良かったな。ごはんご馳走になって」
エミルが私の向かいの椅子に座って言った。何も持って来ていなかった私達に隣家が夕食を分けてくれた。私と母が畑に植えた農作物をそのまま放置していたので隣家が収穫をしたらしく、その分を考えれば夕食位安いものだと言っていた。しかも朝ごはん用のパンとチーズまでお土産に貰った。
「息抜きになったか?」
エミルが顔を覗き込んできた。
「まあ……」
「ずっとここに居たいか?」
「……」
直ぐに返事が出来なかった。ぐるりと部屋を見渡す。私が生まれ育った家、見慣れた家。
「……記憶の中の家は、もっと、温かかった気がするの」
「暖炉に火を入れるか?」
「そういうんじゃないの」
「ヘラ様が居ないからか?」
「そうかも」
「悪いな。俺一人じゃ温かくしてやれないな」
母はフリッツのそばに居る事を選んだし、今更それを諦めて欲しくは無い。
大公城は冷たいけれど、母がいる。ここに居た頃みたいにずっと一緒に居られる訳じゃないけれど、一人でここにいるより寂しくは無い。
母が居ないと寂しいなんて、子どもみたいだ。
「お城は、石の壁が冷たいよね」
この家に戻って来て大きいと思っていた木が、実は大きくはないのだと気がついた。比較対象する家と城の大きさが違い過ぎたせいだろうか。小さな家の裏手にある木は大きく見えるし、大きな城にある木は小さく見えるのだろう。
記憶なんて曖昧なものだ。受けた印象で記憶も誇張される。
温かい母が居たからこの家は温かかったと思ったのだ。一人になる大公城の自室は母が居ないから冷たい。母の温かさが当たり前だったから余計に大公城が冷たく感じるのかもしれない。
「タペストリーを掛けたらどうだ」
「連れ子の私なんかが欲しいなんて言えないよ」
「じゃあ俺が買ってやる」
「高いんじゃないの?」
「さあ。値段は知らん」
全く、そういう所は適当なんだから。
「期待しないでおくわ」
「男を調子に乗せるのが下手だな」
エミルは私の頭をガシガシと撫でた。いつも容赦無く髪をグシャグシャにする。でも今日はもう人目を気にする必要が無い。口煩い家庭教師のデボラ夫人も、告げ口する使用人も居ない。ただ心地良かった。安心感からだろうか。眠気がやって来た。
「さあ、疲れてるだろうから子どもはもう寝ろ」
眠そうな目をしている私に気がついて言ったのだろうが、“子ども”と言われて少しムッとした。でも自分はまだ子どもだと自覚したばかりだから、口答えも出来なかった。十四歳は子どもなのだろうか。
「少しだけここで休みたい」
正直一度座ってしまった足は鉛の様に重く、動かせそうになかった。
「ここで寝る気かよ」
「足が回復するまで……」
「そりゃ明日だろ。仕方ないな」
溜め息をつきながら椅子から立ち上がると、エミルは私を抱き上げた。そんな事をされた記憶が無くて吃驚して思わず「わっ!」と声が出てしまった。もしかしたら昔父にして貰っていたかもしれないけれど、幼さ過ぎて私の記憶には残っていない。
「寝室は?」
「……あっち」
エミルは軽々と私を抱えている。エミルはこんなにもガッシリとした体つきだったろうか。
「ずり落ちそうだから首に手を回して」
言われた通りにエミルの首に両腕を回した。エミルの顔が近かった。こんなに近づいたのは初めてだった。エミルの細い目の中のブルーとグレーの中間色の瞳が綺麗に見えた。この辺りの地域にはブラウンの瞳の人が多いから、エミルの瞳は珍しい。
エミルに運んで貰って「楽だわ」なんて言ったら寝室に入って寝台の上に雑に落とされた。そうしたら見事に埃が舞った。二人でゲホゲホと咳き込む羽目になった。仕方無く二人で埃を叩いた。
「……やっと寝れる」
「良かったな」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「エミルは隣の母の部屋の寝台を使いなよ」
「え……」
「え……?」
エミルが躊躇った。
ここは小さな家だ。居間とキッチンと寝室が二部屋しか無い。私の部屋と母の部屋だ。寝るならもう母の部屋しか無い。
「……ヘラ様の部屋だろ?」
「そうよ」
「つまり……大公様も使ってたんだよな」
エミルが躊躇った理由を悟った。フリッツが使った寝台で寝るのが気まずいのだろう。
「……まあ、そうね」
「使いづれえ……」
エミルからしたらフリッツは仕える主だ。フリッツは私には娘の様に優しく接してくれるけれど、臣下や騎士団の者には基本的には厳しい。それに母は今やフリッツの愛人だ。その主の愛人が使っていた寝台を使用するという事、さらにその二人が愛し合った場所で眠るという事は、エミルが言った通り“使いづらい”のだろう。
「じゃあ、この寝台で一緒に寝よう」
「いや、もっとダメだろ!」
結構食い気味に言われた。
「何故?」
「何故って……」
少しの沈黙の後、エミルは寝台の脇にしゃがみ、寝台に腰掛けている私よりも視線を低くした。
「お前が女で、俺が男だからだ」
ちょっと意外だった。エミルには私はちゃんと女として見られていたらしい。
「私、平気だよ。いつもエミルには助けて貰って、今日も里帰りに付き合って貰った。私は何もエミルに返せる物が無いから、性欲の解消位なら出来る」
エミルは手を顔面に当てて首を垂れ、「あのなぁ」と言った。呆れと怒りが混ざった様な声だった。
「そんな事を言うもんじゃない。自分を大切にしろ」
「……大切にする必要も無いよ。所詮愛人の連れ子よ」
「……お前、経験あるのか?」
「……無い」
「お前はまだ子どもだ」
「でも、もう初潮は来てる。体は大人だよ」
「初潮が来ていても、骨格はまだ幼い。ヘラ様と比べてどうだ?お前はまだ線が細い。腰回りもそんなにやわで、男が欲求に任せて腰を振ってみろ。壊れてしまったらどうする」
そんな壊れる事があるのだろうか。耳年増なのに、経験が無くて詳しい閨事が分からない。
「それにもし子が出来てしまったらお前は育てられるのか?例え初潮が来ていて子が作れると言っても、生まれてくる子を養って育てて独り立ち出来るまでの責任が持てるのか?それだけじゃない。出産は命懸けだ。そんなに細い体が出産に耐えられるのか?命を落とす事だってざらだ」
エミルに言い連ねられて何も言えなくなってしまった。たった二歳しか違わないエミルは、こんなにも精神的に大人だった。
何も言わなくなった私の頭をエミルはまたガシガシと撫でた。
「それにな、大公様はお前を大切に思っている。もし俺がお前に手を出してみろ。バレた瞬間に殺されるぞ」
ふふっと笑ってしまった。確かにそうかもしれない。
フリッツと母は結婚する事は出来ない。宗教上妻は一人しか認められていないからだ。愛人関係でいる以外無い。だからフリッツが私の義父になる事は無い。それでもフリッツは私を邪魔に思う事も無く読み書きを教えてくれたし、寝る前には額にキスもしてくれる。私に教育を与えてくれているのもフリッツの想いがあってこそだろう。分かっていた筈なのに、あまりにも辛い日々に受け止めきれずにいた。
「ごめん、エミル」
「ん」
“ん”って、何だ。口を固く閉じた表情からは何を考えているか感じ取れない。
「俺は居間で寝る。じゃあな」
「待って」
行こうとするエミルの裾を握った。
「眠るまで手を握ってくれない?」
「……子どもかよ」
「子どもよ。エミルが言ったんじゃない」
「……そうだな」
「昔、寂しくて母と寝てた時、手を繋いで貰っていたの」
「……眠るまでだぞ」
「ありがとう」
エミルは寝台に腰掛けて横になる私の手を握ってくれた。
「大公様にバレたら殴られるかな」
「大丈夫。私、言わないから」
「助かる」
「私がお願いしたんだもん」
「……手、痛々しいな」
鞭の痕を見て言った。これでも今日は鞭で打たれていないから痛みは無かった。
「いつもは冷たい石の壁に手の甲を当てて冷やしながら眠るの。でも今日はあったかい方が良い」
「……そうか」
その会話以降お互いに無言になった。そしてそのまま私は眠りについた。疲れていたし、エミルが握ってくれる手が温かくて、あっという間に意識が遠のいた。