6.城の塀の外は
剣闘大会の翌日、家庭教師に叱られた。
「貴女のせいで私まで恥をかきました!」
怒りに任せて鞭でバシバシと叩かれた。暴れまわる鞭は手の甲だけではなく、体にも当たった。
至らない生徒で申し訳無いとは思う。家庭教師の評判にも関わるのだろう。私には言い訳も反抗も何もする資格が無く、ただこの時間を耐えるだけだった。
その日の夕刻、いつもの様にエミルの口笛が聞こえ窓から外を覗くと、エミルが手を振っていた。いつもなら大急ぎで塔の下まで下りて行くが、今日は丁寧に一段一段階段を下りた。なのでエミルに「今日は遅いな」なんて言われてしまった。
「ちょっと走れなくて」
言って直ぐに言葉選びを失敗したな、と思った。エミルに見抜かれてしまう。嘘でも「淑女らしくしようと思って」ぐらい言えば良かった。
しゃがんでいるエミルの隣にゆっくり腰を落とした。背を塔の壁につけたらズキッとして直ぐに背を離した。この様子では夜寝る時に仰向けで寝られないだろうなと思った。
「元気出せよ」
「……へへっ」
きっとエミルは全部見抜いている。昨日あの場に居たのだから、今日家庭教師に叱られた事も鞭で叩かれた事も。
エミルの顔を見られず近くにある木を眺めた。夏には緑色だった葉が黄色に変化し、風に吹かれてはらはらと数枚地に落ちた。秋も深まって来ている。落葉させる風は少し冷たかった。
この木と同じ木が、育った家の裏手にもあった。この木よりもずっと大きかった。
「帰りたいな……」
小さい頃は登った記憶がある。木の上から見る夕焼けが綺麗だった。広い大地が見渡せ、遠くの山に夕日が沈んでいくのだ。
でもこの城は塀が高く、ここから見る夕焼けは塀に沈んでいく。塔の私の部屋は二階であまり高くないので、塀と木と空しか見えない。お城なのに冷たい石の壁が牢屋を感じさせる。
エミルの手がポンッと私の頭に乗っかった。エミルは何も言わなかったけれど、慰めてくれたのだろう。「帰りたい」という私の呟きが聞こえたのだろうか。言葉にして弱い心を認めてしまうと完全に負けてしまう気がして、口に出すのを我慢していたのについ言ってしまった。
せめて涙だけは我慢しようと瞬きをしない様にして、涙を乾燥させる事に必死だった。
それから数日後、初めて乗馬の授業があった。馬に乗るのは村から大公城まで来る時にフィンに乗せて貰った時以来だった。
練習場は城の外にある放牧場の横にあった。大公城に来てから初めて城の堀の外に出た。不思議な開放感があった。講師が家庭教師のデボラ夫人じゃないのも少し気が楽に感じた。
乗馬は怖さを感じたが心地良くもあった。秋の涼しい風や高い空、冷たい石の壁に囲まれていない広い牧草地、それから穏やかな性格の馬も、牧草の匂いも、畑の肥料で慣れて親しみ深い馬糞の臭いすらも、全てが心地良かった。
最初は講師が馬を引いてくれたので私は乗っているだけだった。
私専用の馬は無い。さすがに愛人の連れ子にそこまでは与えられないのだろう。これは練習用にと大人しい馬を選んでくれたのだ。私も専用の馬が欲しいなんて思わない。そんなに図々しくは無い。こうして馬に乗って気分転換が出来る時間を作ってくれた事が嬉しかった。気分転換になると思って設けられた授業なのか、貴族子女の嗜みとして覚えるべきだからなのかは分からないが、どちらにしろ一番好きな授業になりそうだった。
次に手綱の操作や発進、停止の仕方を教えて貰い、直ぐに実践になった。私が発進の指示をしても馬はピクリとも動かず、そう上手くはいかないよねと感じつつも諦めずに何度も挑戦した。大人しいとはいえ従順では無いのだと思い知った。信頼関係の構築も出来ていないし、初心者感満載で馬に舐められているのだろう。
しかしピクリとも動かなかった馬が突然鳴いて驚き、綱を掴んでいてくれた講師の手を振り解いて急発進した。うわっと体制を崩して振り落とされそうになったのを、必死に綱を握り足に力を入れ堪えた。周りの人が慌てている声がしたけれど、私の頭の方がパニックになった。体が大きく振られて落ちない様にしがみつくのに必死だった。ここで振り落とされたら大怪我をするかもしれないのだ。
馬が急にぐるりとカーブを描いて走ったので何かと思って顔を上げると、柵でぐるりと囲われている筈の練習場に柵が無い箇所があった。出入り用の門が開け放たれていたのだ。馬はそこから迷わずに練習場の外に出て行ってしまった。
心地良いと感じていたのが一転、ただただ怖い思いだった。馬は練習場を出ると真っ直ぐに走り、どんどん加速して行った。手綱の操作を教えて貰ったが体を起こすと振り落とされそうで何も出来なかった。
暫く走ると後ろから声が聞こえた。護衛の人が馬に乗って追い掛けて来てくれたようだった。私の隣に並ぶと「手綱を左右に引いて」と言われたので、怖いけれど言う通りに手綱を左右に引いた。怒った様に馬は首を振って私もバランスを崩しそうになったが、少し馬のスピードが落ちた。それを見て護衛の人が「手綱を引いて」と言ったのでやけくそ気味に手綱を強く引いた。そうしたらやっと馬が止まった。
護衛の人と二人で盛大に溜め息をついた。安堵からだった。護衛の人に迷惑を掛けてしまった。
護衛の人に馬から降ろして貰ったら、足に力が入らずにしゃがみ込んでしまった。震えていたのだ。怖かったからか、それとも振り落とされまいと足に力を入れていたからだろうか。
そんな私の様子を見て、「町で休憩しましょう」と言ってくれた。余裕が無くて気が付かなかったけれど、目の前には町があった。あのまま馬が暴走していたらこの町の中を走り抜けていたかもしれない。そして何かを破壊していたり町民とぶつかって怪我をさせてしまっていたかもしれないと思うと、無事に止まれて良かったと思った。
歩いて町まで行こうとしても立ち上がれなかった。護衛の人が引く馬に乗って行くにも、馬への恐怖心があり躊躇ってしまった。でも足も動かないし、護衛の人を信じて馬に乗せて貰い、ゆっくり町へと向かった。