3.納得がいかない事
大公城に来て半年が過ぎ、秋を迎えていた。
大公城は周囲に堀が巡らされ、石が高く積まれた城壁の中にある。城内はとても広く、半年を過ぎても全てを把握出来ていない程だ。いや、把握出来ないのもその筈、私と母は午前中は暗く午後の西日が容赦無く差し込む城の西側にある塔から殆ど出られないのだ。
大公城に来てから少しずついろんな事を知っていった。
大公であるフリッツは十一年前に両親を病で失い、十七歳でこの広大なヴァイエルン大公領の大公となった。まだ若かった為に周囲は今後の大公領を危惧し、国内でも有力貴族のヴィゲリヒ家の娘カサンドラとの婚姻を勧めた。そして翌年結婚、ヴィゲリヒ家の優秀な人材に支えられながら若き大公としてその任をこなした。そしてカサンドラ大公夫人との間には三女をもうけ、現在九歳、七歳、二歳のとても愛らしい娘に囲まれている。
以上の事は私が家庭教師から教えて貰った内容だ。端的に事実だけの内容。実際は、大公夫妻の婚姻はヴィゲリヒ家の策略により成った政略結婚で、城内で昔からヴァイエルン大公に仕えてきた者とヴィゲリヒ家の者の間で派閥争いが起きているのだとか。ヴィゲリヒ家が大公を乗っ取りたいが為に大公夫人は男児を生む事に必死になっているとか、ナントカ。本当かどうかは噂なので分からないが、フリッツは三人目の子どもまでもが女児だった事で夫人からのプレッシャーに耐えられなくなり城を脱走した……旅に出た?いや、休暇を無理矢理取得して誰にも知られずに城を出たのが二年前で、その時私と母に出会った。母に惹かれてしまったフリッツは、城に戻っても度々抜け出し無理矢理休暇を取得して母に会いに来ていたらしい。
しかしそんなフリッツの怪しい行動に夫人がフリッツの専属護衛のフィンに命令を出しフリッツを連れ戻した。それに連れられてしまったのが母と、巻き込まれた私。母はフリッツの、大公の愛人となったのだ。そして私は大公とは血の繋がりの無い、大公の愛人の娘となってしまった。
そんな私は何の教育も受けていなかった為、母とは別に家庭教師がつけられた。母は母で家庭教師がいる。毎日その意地悪な家庭教師と二人っきりで勉強をしている日々だ。
今日も家庭教師にこってり絞られ私に与えられた部屋で気落ちして今日の学習の復習をしていると、窓の下からピュウと口笛が聞こえた。慌てて椅子から立ち上がったら、見事にスカートの裾を踏んでしまいつんのめってしまった。
「やばっ!また怒られるかな」
ここでは立派な服を着せて貰っている。大変動きづらい。私の世話をしてくれる使用人はとても目ざとく、裾の足跡を見つけては家庭教師にチクるのだ。
踏んでしまったものは仕方ないので、今はとにかく窓の外だと、窓を開けて窓の下を覗き見た。
「おい、そんなに身を乗り出したら危ないぞ」
「平気よ!エミル、今休憩?」
「夕刻の鐘が鳴るまでな」
「直ぐそっちに行くわ!」
「転ぶなよ」
エミルの声を聞き終わる前に窓を閉めて部屋から飛び出した。長いスカートの裾を踏まない様に摘んで走った。全力で走りたいところだが走れる様な靴では無いし、大股で走ろうものならきっとまた使用人に見られ家庭教師にチクられる。以前スカートの裾をたくし上げて一纏めにして抱えて走った時は使用人が悲鳴をあげていて、それを聞きつけた家庭教師に怒鳴られたのだ。そして丸一日歩き方のマナーを受けさせられ、足はパンパンになるし何度も手の甲を叩かれた。市まで歩いて行くのは平気だったのに、何故歩き方のマナー講座はこんなにも疲れてしまうのか。不思議だ。
階段を駆け下り塔の外に出ると、塔の壁に凭れ掛かってエミルがしゃがんでいた。
「相変わらず早いな。歩いてこいよ」
「私にとってはこれくらい普通なの」
私もエミルの隣で壁に凭れ掛かってしゃがんだ。
エミルはこの塔周辺の護衛を任されている騎士の内の一人だ。フリッツがヴィゲリヒ家の者から守る為にヴァイエルン大公派の人間から護衛騎士を厳選した。その護衛騎士の中で一番若い十六歳のエミルとは自然と仲良くなった。エミルは私を平民だと馬鹿にしないし、愛人の連れ子だと腫れ物扱いもしないから、一緒に居て居心地が良かった。
「今日もデボラ夫人に怒られたわ」
デボラ夫人とは家庭教師の事で、ヴァイエルン大公家の縁戚の子爵夫人だ。
「今日は何で?」
「訛よ。何で訛ってはいけないのかしら」
「貴族は訛を田舎臭いと馬鹿にするからな」
「訛ってた方がその人が何処の出身か直ぐに分かって良いのに」
「他人を見下して優位性を得たいんだよ」
「そんな事で?私からしたら訛が普通なのに」
「それなら訛を馬鹿にするヤツを心の内でくだらないと馬鹿にすれば良い」
思わずくすっと笑ってしまう。エミルのそういう所が良いと思う。
エミルは比較的裕福な騎士の家系で、代々ヴァイエルン大公家に仕えているらしい。元はヴァイエルン大公家の縁戚であり分割相続で男爵位を与えられた家だという。なので一応貴族としてそれらしい教育も受け、年頃になると大公家に騎士見習いとして預けられたのだとか。エミルは三男と言う事もあり、そのまま家に戻る事無く大公家の騎士団に入団をして、現在護衛の任に就いている。
貴族だけれど貴族らしく無く貴族を皮肉るのだ。その世界を理解しているが染まりたくないのか一歩引いている。だから平民の私は一緒に居て居心地が良かった。
「私、こんな教育を受ける必要あるのかな……」
思わず右手で左手の甲を擦る。左手の甲は赤と紫が混ざって腫れていた。ジンジンとしている。でも今日はまだマシだ。初めの頃は血が出ていた事もある。
これは鞭の痕だ。家庭教師のデボラ夫人に小さな鞭で叩かれるのだ。
私は鞭なんてこれまで使われた事は無かった。母に叱られる時でも怒鳴られる事はあっても叩かれた事は無い。
「今日も叩かれたのか?」
「私の記憶では叩かれなかった日は無いわ」
「……後でちゃんと冷やしておけよ」
「貴族は躾が厳しいのね」
「まぁな。家にもよるかもしれんけど」
「大公家だから?でも私は連れ子よ?」
私は大公の実子じゃない。大公家の一員とは呼べない連れ子の平民だ。だから貴族じゃない。
「大公様の親心だろ」
「鞭打ちが?」
やれやれといった様に鼻から息を吐き出すと、エミルは手を伸ばしてきて私の頭に乗せるとガシガシと豪快に頭を撫でた。
「お前はお前の母親の弱点になる。大公様のヘラ様へのご寵愛から後継者になり得る男児が生まれると都合の悪い奴が多いからな。ヘラ様を遠ざける為の交渉材料として誘拐でもされたら困るから、今後嫁入りの事も考えるとしっかりと警護も出来るそれなりの家へ嫁げないとお前を守れない」
そんなこと、もう何度も聞かされた。もう何度も聞いているのに、どうしてか納得出来ない。
私のそんな気持ちを表情から読み取ったのだろう。エミルはガシガシと撫でたせいでボサボサになった髪を整える様に、今度は優しく頭を撫でた。
「まあ、単純に結婚後お前に苦労をさせたくないのだろう。お金や生活に困る事の無い裕福な家に嫁がせたいんだろうな」
撫でてくれた手が頭から離れる。それが寂しく思う位に心地良かった。
「嫁入りだなんて、まだ早いわ。私、十四よ」
「貴族なら何も珍しくない。それに今の調子じゃあ適齢期にマナー習得が間に合うか怪しいぞ」
それはそうかもしれない。一年後に家庭教師が納得する様な立派な淑女になれている気がしない。さっきも裾を踏んでしまったばかりだ。裾を捲って踏んでしまった所の汚れを手で払った。完全に汚れは取れないけれど、踏んだとは分からないかもしれない。チクられなければ良いな。
「間に合わなかったら一生独身で良いわ」
「安心しろ。間に合わなければ俺が貰ってやる」
ヘラヘラ笑いながら言うからムスッとしてしまう。嫌な冗談だ。
「モノ扱いされているようで嫌だわ」
「お嬢様は我が儘だな」
エミルは笑いながらまた私の頭をガシガシと撫でた。結局また髪がボサボサになった。そして今度はこの髪を直してはくれなかった。仕方が無いから自分で整えた。