23.大切にしているもの
どんなに迫られようと、触れてはいけない女性だと分かっていた。だからそれは、烏滸がましくも兄の様な気持ちだったと自分に言い聞かせた。
あの剣闘大会の日以来、クラウディア様に関する噂話が大公領にとどまらず、王都にまで拡がっていた。その内容は酷いものだった。「若い男と見れば部屋に誘なう妖婦」だとか、「見境なく男と遊ぶあばずれ令嬢」だとか。大公は相当怒り心頭だった。
明らかに誰かが意図して噂を拡めているとしか思えなかった。あの現場にいたのはクラウディア様本人と私以外には、招待した四人の男だけだった。クラウディア様を一人にした事が悔やまれる。
社交界にあまり顔を出さずにいたのも噂が拡がった一つの要因だったかもしれない。クラウディア様をよく知っている人がいないから、そんな方では無いと否定する人がいなかった。
それでも王室行事等、出席しなければならない場にはきちんと出た。陰口が聞こえてこようとも堂々と下を向かずに立っていた。下心を持って近付いてきた者は適当にあしらい、嫌みを言ってくる者には素知らぬ顔で笑顔を返していた。
大公の心配にも、反対に「迷惑掛けてごめんなさい」と返した。
翌年、クラウディア様に大きな縁談話が来た。噂が回ってから正直良い縁談は無くなっていた。どうせ貰い手も無いのだろうと、足元を見る様な話ばかりだった。しかし今回は現国王の伯母が嫁いだ公爵家の次期当主である十七歳のご子息との縁談だった。
これほどの良縁は、二十一歳になったクラウディア様には最後かもしれない。
「散々な噂が出回っている中、この様な良縁を受け入れなければまともな結婚は望めないでしょう。自身の行いの報いと逃げ回っていたツケを自覚し、公爵家に感謝して嫁ぎなさい」
大公夫人のクラウディア様に掛けた言葉から、こうなる様に追い込んだ様にしか思えなかった。ヴィゲリヒ家と公爵家に何かしらの繋がりがあるのかどうかは分からないが、ずっとクラウディア様を大公家から追い出そうとしていたのはこれで叶うだろう。後継男児がいない今、少しでも大公夫人の懸念を消し去りたいのだろう。
クラウディア様は何も言わなかった。嫁ぐとも、嫁がないとも。大公もクラウディア様の意思を尊重すると言い、結論を急かす事も無かった。
比較的意思ははっきりと言う方だ。これまでも沢山の縁談話を詳しく聞く事無く断っていた。それが今回は断るとも言わなかったから、きっと受け入れるのだろうと思った。
だから、いつもの様に私の執務室を訪れたクラウディア様に少し驚いた。
「お願いがあるの、フィン」
いつもならこの後に続く言葉は「結婚して」だった。
「今夜、私の部屋に夜這いに来てよ」
予想を遥かに越えるとんでもないことを言い出した。
「仰っている意味が分かりません」
「私、縁談を受け入れようと思うの」
「それなら尚更意味が分かりません」
「私、やっぱり貴方が好きなの。フィン」
思わずぐっときてしまった。あまりにも真っ直ぐな言葉に、あまりにも真っ直ぐな視線を向けられたから。
「これ以上お兄様に迷惑は掛けられない。我が儘も潮時なのは分かってるから、ちゃんと嫁ぐ事にするわ。でも、どうしても貴方が好きで、幼い頃からのこの気持ちは捨てられないの。だから思い出として蓋をする為に、一晩だけ貴方と過ごしたい」
「クラウディア様……それは出来ません」
「……どうして?」
「貴女は綺麗なまま嫁がなくてはなりません。噂があるなら尚更、そのまま嫁げば全ての噂はデマだったと証明する事が出来、公爵家でのお立場も守られるでしょう」
社交界の噂を公爵家も知っている筈だ。場合によってはクラウディア様を軽視しかねない。年下の子息といえ、心証が良いに越した事は無い。
「……それなら、キスをして」
「……それも出来ません」
「キスの一つも、駄目なの?」
「出来ません」
貴女は知らないからだ。情を交わし合うという事がどういう事なのかを。思い出の為にするものでは無い。愛があれば余計に情を深くしてしまう。深くなった情は忘れられなくなり、思い出にするのは辛く苦しい。
クラウディア様は静かに部屋を出て行った。泣いていたかもしれない。けれど私にはそれをどうする事も出来ない。
その夜、大公に呼ばれた。
「クラウディアが縁談を受け入れると」
昼間に本人から聞いていたから、「はい」とだけ答えた。
「俺はクラウディアが可愛い」
はい、知ってます。と、心の中で答えた。
「結婚は本人が嫌ならしなくても良いし、大公城にいたければ出来うる限りで支援する。想いを寄せる男がいるならそいつと結婚したって良い」
「……誰でも良いと言うわけではないでしょう。平民では無理です」
「いや、クラウディアが望むなら貴族じゃなくても騎士でも良い」
「本気で仰っているのですか?大公の愛妹ですよ?平民に下ってしまえば簡単に攫ってしまえ、貴方の弱みに利用されます」
「幸い歴史ある大公家には城の周囲に別棟もあるし領内には別荘もある。そこを警備する私兵を雇ったって良い。何せ可愛い妹の為だからな」
どれだけ妹に甘く、どれだけ可愛がっているのだ。
「……公爵家にはどう申し開きされるのですか」
「ああ……平謝りかな」
大公が直角に腰を曲げている様を想像してしまった。
「今回の縁談話は確かに有難い話だ。ただし、表面上だ。かなりこちらに注文を付けてきた。クラウディアを、いや、大公家を軽く見ている様で癪に障った」
ふっと笑ってしまった。
どう考えても大公は私を焚き付けている。公爵家の思い通りになるのも、大公夫人の思い通りになるのも嫌なのだろう。クラウディア様をそれの犠牲にするのも勿論嫌で、クラウディア様の望むものを与えたいのだと思う。
それでも結局は最後、私の決心を待ち、委ねている。
「私が貰っても良いと?」
「フィンの意思で欲しいのなら。お前は父親に似て忠誠心が人一倍だから命令したらそうするだろう。でも命令ではクラウディアは喜ばない。お前の意思が必要なんだ」
本当にどれだけ妹を大事にしているのか。
「私みたいなのが義弟になりますよ?」
「今更何言ってる。俺達は乳兄弟じゃないか」
大公がいつから気がついていたのか分からない。自分でも自身の気持ちに気がつかなかった。想いを抱かない様にしていたから、近寄られても触れない様に、想いを寄せられても拒む様にした。それが主君家の令嬢に対する正解だから。
それを飛び越えようとしてきたのを何度も拒んでいた私に、もしかしたら大公はやきもきしていたかもしれない。
大公城の中でも大公夫妻の居住区から離れた部屋の扉をノックした。寝ていてもおかしくない時間に部屋からは光が漏れていたから、直ぐに「誰?」と声がした。
「私です」
名を言わなかったのに、足音が聞こえて扉の向こうに気配を感じた。
「フィンなの?」
「そうです」
声で伝わった事に嬉しさを感じてしまうあたり、浮かれる気持ちがあったのかもしれない。
おそるおそる開かれた扉の隙間から、クラウディア様の顔が覗いた。
「どうしたの……?」
「夜這いに来ました」
「昼間は、出来ないって……」
「はい。大公様に許可を貰いました」
「夜這いって、保護者の許可が必要なの?」
「そうですね。あと、私の決心と」
「夜這いの、決心?」
「いいえ。貴女を愛する決心です」
これまで沢山の想いを伝えてきてくれたこの方に、今度は私が想いを沢山伝える番だ。抑えていたものを解放してしまえばもう想いがとどまる事は無く、溢れ出てきてしまう。
触れる事も、抱き締める事も、キスをする事も私達の想い一つで成り立った。それ以上も求め合えば、白い肌が与えてくれる快楽を越えて心が満たされ、同時に気持ちが膨らみ過ぎて切なく苦しくもあった。
愛とは不思議なものだ。
この夜、初めて深い愛を知った。
クラウディア様の縁談は大公によって辞退が伝えられた。勝手に断られた事に大公夫人は激怒したが、断ってしまったものを撤回するのはさすがの大公夫人も諦めた。次の手を考えてくるのだろうと思った。
しかし思いの外直ぐにクラウディア様の懐妊が判明した。
私とクラウディア様が結婚すると宣言しても大公夫人によって邪魔されるのは目に見えていたので、私達は強硬手段に出た。勿論子を作るつもりでいたがこんなにも直ぐに妊娠するとは思いもしなかった。まあ、それだけ盛った自覚はあるけれど。
皆に祝福される様な結婚では無いが、それでも良いと共に選んだ道だ。私の両親に報告した時は、父に思いっ切り殴られた。忠誠心の強い父からしたら主君家の令嬢を身籠らせたのだから、当然怒りもするだろう。父を信用して事情を全て話しても、完全に納得はして貰えなかった。
父に殴られた頬は暫く痛みが消えなかった。父は本当に麻痺しているのかと疑問に思う位に強い力だった。引退したとはいえ、元騎士を舐めてはいけない。
クラウディア様の妊娠期間、何かしらの妨害行為をされるかと警戒したが、有難い事に大公夫人も懐妊が判明した。大公夫人のお腹の子が男児であるかもとの期待があればこそ、平和に過ごす事が出来た。
そしてクラウディア様は無事に出産された。とても可愛らしい女の子だった。
「大公様、困りました」
「子に関する悩みか」
「可愛くて可愛くて仕方がありません」
「真面目な顔して言うか?」
それからあまり時を置かずして大公夫人も無事に出産した。またしても女児だった。何かの呪いかとも思えた。
「男児も欲しかった様な、女児で良かった様な」
その呟きは勿論私の前でだけだった。
これで再び子作りプレッシャーに悩まされるだろうが、男児が生まれていたら大公夫人の権勢が強くなるのは必然だ。どちらが良いのかは分からない。
一人の親としては健康的に生まれてきてくれ喜ばしいのだが、広大な大公領の領主としては悩みが尽きない。
「少し、休まれてはどうですか?」
「一時期よりは寝れているぞ?」
「いいえ、休暇です。大公位を継いで十年になります。今の大公領が貴方の治世でどうなっているのか、貴方自身の目で見てみるのも良いのではないでしょうか」
「視察か?」
「いいえ。休暇ですから、旅といったところでしょうか」
「旅か……」
大公のほぐれた表情を見て少し安堵した。大公としての悩みが多い中、心を休める機会になればと思った。
「フィンも休めよ」
「何を仰ってますか。私も大公様の護衛としてお供します」
「相変わらずの忠誠心だな。子が生まれたばかりなのだから家族を優先しろ」
「子が生まれたばかりなのは大公様も同じでしょう」
「俺はどうせ滅多に会わせて貰えない」
大公女達の教育に口出しさせて貰えないらしいので、会う事もままならない。この方がもっと威圧的で独裁的な面もあったのなら大公夫人に強く言えたのだろうが、優し過ぎるこの方は大公夫人すらも思い遣り、過ごし難くならない様に気を配っている。政略結婚であっても妻の権利を奪うべきではないとお思いなのだろう。
「最近、私に付いた従騎士がまあ優秀でして」
「そうなのか」
「ちょっとたまに自由な所もありますが、先を読む事が出来るので指示出しする前に動いてくれているので楽をさせて貰っています」
「優秀なんだな」
「グラッツィ男爵家の三男です」
「ああ、あそこの。グラッツィ男爵家は大公領の辺境なのもあって騎士の養成に力を入れているからな」
「なので今は業務に忙殺される事も無くなりました」
「なので連れてけと?」
大公は仕方が無いといった様子で折れた。
と、思ったのだが、休暇予定日の朝、もぬけの殻になった大公の部屋を見て顔を青くした。まさか一人で旅に出る算段をしており、私を出し抜くとは思いもしなかった。
机の上には私宛のメッセージカードが置いてあり、『お前も休め』とだけ書かれていた。
そのカードを持ってクラウディア様と愛娘の居る部屋に戻ると、クラウディア様は笑った。
「お兄様は大公領を大切にしているけれど、大公城は息苦しくて逃げ出したい所だったのかしら」
「それにしても警備兵の誰にも気づかれずにどの様に城を出たのでしょう」
「大公家だけが知る秘密の通路だと思うわ」
「秘密の通路?」
「これは内緒よ。騎士団長の貴方にだけよ。お兄様は大公夫人にも教えてないわ」
大公は旅から帰って来て以来、予定を空けては度々旅に出た。そんなにも旅が楽しいのだろうか。広い大公領を周るには何回かに分けなければ無理だろうが、その度に護衛の一人も付けずに城を抜け出していたので、帰って来る度に「護衛を一人でも良いので付けてください!」と怒っていた。けれど毎回一人でいなくなってしまっていた。
それから二年が経ち、私とクラウディア様の間に男児が生まれた。大公家では女児しか生まれない呪いでもあるのかと思っていたが、それを払拭する様な大きな声で泣く元気な男の子だった。
「フィン、おめでとう!だが暫くはヴィゲリヒ家の動向も気になるので、休暇を取ってクラウディアと子ども達のそばにいてやれ」
「大公様はまたお一人で抜け出すおつもりで私に休暇を与えていませんか?」
「気にするな」
「気にします」
大公のお忍びもすっかり開き直られ困ってはいるのだが、大公は以前よりも生き生きとしているし、さらに休暇を取る為に執務を効率良く行っているので良い事の方が多かった。
数日後の朝、大公の部屋に行けば、やはり大公は城を抜け出していた。こんなに頻繁に秘密の通路を使っては秘密が露見してしまわないかと心配にもなる。
大公の部屋から出ると、廊下の向こうから大公夫人がやって来た。これは面倒だなと思いながらも、頭を下げた。
「大公は、また、お出掛けですか?」
「ハッ」
“また”をやたらと強調されて、怒りの感情が含まれているのを感じてしまった。
「いつもどちらへお出掛けなのかしら」
「領内を見ておられるのかと」
「ねえ、騎士団長さん」
「ハッ」
「主人は、今日、どちらへ、お出掛けなのかしら」
大公夫人が私に直接圧を掛けてくるのは珍しい事だった。私の主君は大公であるから、大公の命令に従うのだが、大公の不在時には代理権が大公夫人にある。それを利用しようとしているのだ。
「どうも最近、主人は浮かれているようなの。そう思わなくて?」
「ハッ」
「ああ、貴方も浮かれているわね。大公家の後継になりうる男の子がお生まれになったから。さぞお浮かれでしょう」
大公夫人の艶のあるゆったりとした話し方に、背筋が冷える様だった。
「大公家からの支援を受けられているでしょう?子どもが増えたのなら予算を増やさないとね。あの人はちゃんと処理して行ったかしら。予算を増やすならそれなりに調査もしなくてはね。赤子に病気や問題は無いか、大公代理として見に行かなくては。調査官を連れてね」
その調査官の素性がどんなものか分かったものでは無い。これは脅しだ。クラウディア様と子どもに近づく口実で、二人を危険に晒しても良いのかと私に問うているのだ。
「……大公様のご帰城を促してまいります」
「お浮かれの原因も妻として把握しなければ」
「……ハッ」
大公夫人は不気味な笑みを浮かべると、私に背を向けた。
私は心の中で舌打ちをした。
私は数名の騎士を連れて直ぐに城を出た。大公の馬がいなくなっていたので馬に乗って行ったのは分かった。城下町で目撃情報を探して大公の足取りを追った。
ある町で大公の馬を発見し、馬を預けていた店主におおよその行き先を聞いた。いつも馬を預けて同じ家に行っているらしい。大公の馬も連れて教えて貰った家の方角に向かうと、大公らしき後ろ姿を見つけ、尾行した。大公には申し訳無いと思ったが、こちらは妻子の安全が掛かっている。後で事情を話せば大公なら理解を示してくれるだろう。
大公が辿り着いたのは、母娘が暮らす小さな家だった。
数ヶ月後、剣闘大会が行われた。私は決勝でヴィゲリヒ家の騎士に負けてしまった。ここ数年は決勝で勝ったり負けたりだった。三十歳になった私は剣の上達を感じられなくなっており、維持するので精一杯だった。ヴィゲリヒ家の騎士に負けない騎士が台頭してきてくれればと思うのだが、育成はそう簡単にはいかない。
「フィン。今日お兄様の愛人の方と娘が遠くで観覧してたわね」
「ええ」
「未亡人、なのね」
「そうですね」
「未亡人……なんてそそる言葉かしら」
「私の妻はオッサンでしたか」
「遠くてよく見えなかったから今度はお話してみたいわ」
クラウディア様は兄である大公がある日突然連れて来た愛人に興味津々だ。大公城に連れて来てから大公が頻繁に住まいの塔へと足を運んでいるのも噂で聞いているのだろう。
大公の初めての恋だった。恋を知らずに結婚をして、妻も子どももいるのに恋をしてしまった。けれど、初めて安らぎの場所を見つけたのだ。本当なら誰にも見つからずにあの小さな村の小さな家で幸せな時間を過ごしたかったに違いない。私のせいでそれは叶わなくなったが。
誰も呼んでくれなくなった大公の愛称の“フリッツ”は、愛人とその娘が呼んでくれている。それは大公ではない素のルートヴィヒでいられるという証だろう。
「娘は結構大きかったわ」
「十四歳です」
「あら、年頃じゃないの。どんな子なの?」
「そうですね……。少し、クラウディア様に似ているかもしれません」
「そうなの?どんなところが?」
「人に助けを求められずに一人我慢してしまうところでしょうか」
私の従騎士だったエミルが正式に騎士になり、護衛の任務にあたっており、唯一悩みを聞きそれを報告してくれている。
大公城に来て様々な葛藤があるのだろう。
「私に似ているのなら、騎士の誰かに恋してしまうかもしれないわね」
「そうしたら大公はまたやきもきしながら見守るのでしょうね」
それはまた別の物語だ。
以上で【追録】終わりです。
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