2.取り敢えず手を振った
突如現れた鎧姿の人は確かにフリッツの事を“大公”と言っていた。大公……って何だっけ?
こんなしっかりとしたお金のかかっていそうな鎧姿の人を間近で見たのは初めてで、私と母は怖さを感じていた。こんな人が何用でここに来たのかも分からず困惑するしか無かった。そんな中フリッツが大きな溜め息をついた。
「お前……俺の後をつけたのか?」
「大公夫人の御命令でしたので」
「お前の主は俺だろう」
「貴方様が御不在では大公代理の大公夫人の命を聞かねばどうにもなりませんでした」
「脅されたか」
「嫡子が生まれたばかりでしたので」
フリッツは再び大きな溜め息をついて、私と母の方に振り向いた。何の話をしているのか私にはさっぱりだったが、母は大方の事を悟ったようで突然床にひれ伏した。
「もっ、申し訳ありません!大公様とは知らず、申し訳ありません!」
体を震わせながら頭を床につける母を見て、私も同じ様にしなければならないのだと咄嗟に思い、床に跪いた。
「やめてくれ!そんな事をしないでくれ!」
フリッツは頭を床につけようとする私を慌てて止めた後、母を抱き起こした。
「お許しください、お許しください」
「ヘラ!大丈夫だ。何もしない」
「申し訳ありません、申し訳ありません……」
「落ち着いて。驚かせて悪かった」
フリッツは取り乱す母をなだめようと背を撫でていたが、母の震えは止まらなかった。
「お離しください、けがれます」
「どうしてけがれると言うのだ」
「こんなボロ家の、汚い平民の女ですから……」
「そんな事を言うな」
フリッツは母を抱き締めたが、母はずっと「お離しください」と言っていた。フリッツはそれに構わずに強く抱き締めていた。
母が敬語を使うのは、市の偉い人や町でたまに会う貴族らしき人だけだ。それでもこんなにも震えながら頭を下げる相手はいない。それだけフリッツはとても偉い人なのだろうと言う事は分かった。
「ヘラ。俺と一緒に城に来い」
今、城って言った?
母も驚いたのか一瞬言葉を失った。
城って……お城?凄く偉い人が住んでいるお城?フリッツの家は、お城……?
「お……お戯れを……」
「戯れでは無い。本気だ。ヘラにそばに居て欲しい」
お城に住んでいる様な偉い人に「城に来い」なんて言われたら、たかが平民に断れるわけが無かった。
フリッツは優しい人だ。少なくとも身分を偽っていたついさっきまでは。偽っていたとは違うだろうか。旅人だと言った以外は言わなかっただけだから隠していたと言うべきか。優しいフリッツの事だから泣いて嫌がれば無理に連れて行こうとはしなかっただろう。けれど母はこれを命令だと受け取った様で、怖がりながら受け入れた。
母は城に行く事になった。そして娘の私を一人には出来ないと、必然的に私も一緒に行く事になった。フリッツもその方が良いと言った。
もう直ぐに行くと言うので荷物も殆ど持たずに促されるまま家を出た。家の外には他にも鎧姿の人が二人と馬が数頭居た。
「町に預けていた俺の馬まで持って来ていたのか。用意が良いな、フィン」
「ありがとうございます」
「イヤミだぞ」
フリッツがそんな事を呟いていた。
フリッツは母を馬に乗せた。フリッツは母と二人乗りで行くらしい。フリッツがフィンと呼んでいる最初に家に現れた鎧姿の人が、「令嬢は私と共に行きましょう」と言った。私はこの人の馬に乗せて貰って行くらしい。
家の前に鎧姿の人が居る為に異変を感じ取ったのだろう、隣家の人達が不安そうにこちらを見ていた。
「あの……フィン……さん?」
「何でしょう」
「私はまたここに戻ってくる?」
「……それは分かりません」
この先の事は何も分からない。城に行って何をするのか。いつまで城に居るのか。ここに戻って来るのかも分からない。隣人に挨拶しようにも、何を言えば良いか分からない。
だから取り敢えず手を振った。怖い目に遭っているのでは無いとだけでも伝われば良いと思った。
フィンさんに手助けして貰って馬に乗った。馬なんて初めて乗った。視界が高くなって少し怖かった。馬が走り出すと体が浮いたり、体が揺れて振り落とされそうになったりした。フィンさんが支えてくれたので落ちる事は無かったけれど、フィンさん曰く、これでも母と私に気を遣ってかなりゆっくり走っているのだそう。
「あの……フィンさん」
「何でしょう」
「フリッツ……は、何者なの?」
「ここヴァイエルン大公領の領主、ルートヴィヒ様です」
ある程度の覚悟はしていたつもりだったけれど、驚くには十分だった。
私は教育を受けていないが、私が暮らしているのはこの国で一番大きな大公領のなんでもない田舎の村だと言う事は知っている。フリッツなんて、気安く呼んではいけない相手だったのだと一瞬で悟った。