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93.藍河の苦悩(3)〈幕間劇〉

93.藍河の苦悩(3)〈幕間劇〉


 ボルドーレッドパールのドマーニの営業車を藍河雅仁が路肩に停車させた。フロントバンパーに傷がある。


 スマートフォンを手に電話しようとした時、ジュネーブグリーンパールのホンダ・アスコットとすれ違う。


「FBT−i? クラプトンアスコット――後期型か!」


 後期型FBT−iは、TVCMでエリック・クラプトン出演で「バッド・ラヴ」が使われた。


 ジュネーブグリーンパールは藍河のアコードと同じ色だが、6ライトウインドウの姉妹車のアスコットはやや高級感がある。


「4WSではない? 曲がりにくいぞ……。サングラスで黒服? ……水商売か? 今の時間に?」


 夕方から仕事の水商売は午前中眠っているものだ。


 思考を変えて、営業所に電話した。


『はいありがとうございます。ホンダカーズ神戸緑が丘店、ももでございます』


あいですー」


『藍さんお疲れ』


 営業チーフの百友一郎ももゆういちろうだ。藍河の上席にあたる。


「ういー。ゆうちゃんゴメンやけど工場長かサービスフロントお願いできます?」


『またなんかやったん?』


「その人聞きよ。またぶつけられた……」


『厄年じゃあないの(ちゃん)?』


おない年やろ」


『はっはっはっは! ……ちょっと(ちょう)待ってや。――雨宮あまみやさん、藍さんから』


 サービスフロントの雨宮は二つ上になる。


『……はい、フロントです』


「藍河ですがお願いが」


『何?』


「僕のドマーニのフロントバンパー注文してもらえますか? 赤ドマです」


『どうしたん?』


「路駐で当てられました。犯人見つかるまで、所長には内緒でお願いできますか? ……(バンパーは)塗ってますよね?」


『塗ってるよ、ドマーニは。赤……ボルドーレッドだよね』


「ええ」


『……今週ピット混んでるからなあ……』


 在庫を見ているらしい。


骨組ビームとインナーもるなあ……』


「両方けっこう(いい)です。がわだけなんで」


『曲がってたら入らんぜ』


「自分で替えるんで大丈夫です。中見たら大丈夫そうなんで」


『替えられるの?』


「前に一度、CB4なら」


 CB4(アコード)より小型のドマーニのほうが簡単だろう。


『そう、それなら。……苦労してもどうせ本人だし。……パーツ在庫有。明日あす便だから昼にはあるよ』


「お願いします」


『従業員(価格)で仕入れておくよ、自分の名前で。勝手に探して』


「はい分かりました」


 切ってスマートフォンを助手席に置いた。


 営業中の事故ならば経費で落ちるが、昨日今日で所長と言いあう気にはなれなかった。それにバンパー一本で始末書を書きたくなかった。


 警備会社にデータが残っていなかった。


(よくぶつけて逃げる人間がいるものだ……。車両保険に入っていないのだろう)


 それは藍河が考える普通の人間ではなかった。


(車に乗るには必ず車両保険に入らなくては)


 自費で修理するとかなり負担がかる。当てたということは自分の車も損傷しているのだから、保険で修理したほうが安い。当て逃げするということは修理するような車に乗っていない人物ということになる。


 中古車査定士資格(ディーラーの営業なら誰でももっている資格だが)をもつ藍河がバンパーを観察した。


(トヨタのダークブルー……クラウン?)


 トヨタは年式で色を変えていない場合もあるから判断のしようがなかった。だがかなりの低年式だった。塗装で分かる。屋外駐車だった。紺色の塗装の破片が陽で割れている。これでは素人が磨いただけではドマーニの塗装が相手車両に残っている確率が高い。


 おまけに当て逃げする人物はディーラーや板金屋には出さない。


 解体屋で探す手もあるが、紺色は見つけにくいだろう。


 白ならこちらも手間だが、紺色なら限定される。それに接触の位置から相手の車高も普通。


 改造して車高を落としているほうが探すのが簡単だった。


(住宅街に停めていたから、この付近の人物だろう。もしくはその友人知人)


 場所がはっきりすれば、さらに限定される。


 タイヤの跡からクラウンのベース車両だった。


 スマートフォンから電話をかける。


『はい、ありがとうございます。〔ガレージ二十一〕です』


 年配の男性だ。


「藍河です」


『あーあいさんかね。この間はうまかったー』


 良雄よしたかの父だ。


「それは良かったです」


『あれ、もう何本かあるかい?』


 お礼に渡した日本酒だ。金雨酒造の純米大吟醸酒だ。


「ごめんなさい。限定品なんで。また来年ですね。お持ちしますよ」


『うん旨かった旨かった。まーた生きとったら頼もう』


「またまたそんなことを。お父さん長生きしますって。ところで、良雄よしたかさんおられます?」


『あいよ。……おーい! よーし!良! 良雄よしたか! 内蔵助くらのすけ!』


 かなり大きい声だ。ピットに響いているだろう。


 時間がかかる。後ろの路上に白い流線型セリカが止まっていた。


(ST165!)


 映画『私をスキーに連れてって』の劇場車のGT−FOURだった。


(今日は……さっきのアスコットといい……)


『親父、内蔵助はよせって! ――はい、良雄ですが』


 良雄の父は忠臣蔵のファンなのだろう。


「藍河です」


『ああ藍さん。この間はどうもわざわざありがとうございました』


「いえいえ。こちらのほうがお世話になったんですから」


『でも、あんまり旨いお酒持ってこないでくださいよ。また飲み過ぎですよ……。――で?』


「ドマーニ当て逃げです」


『また? 赤ドマ?』


「ええ赤ドマ」


『だいぶイキました?』


 期待する声だった。


がわだけ。ごめんなさい」


 素直に謝る藍河。


「バンパーだけなんで自分で交換します。すみませんが、場所だけお借りできませんか?」


『そうですか……取りあえず(バンパーを)こっちに入れてくださいよ。ピット一ついてますから大丈夫なんで』


 残念そうな声だが気を取り直した。


「そんな……甘えられないですよ」


『たまには返させてくださいよ。それに一人じゃあ手間ですよ』


 それはそうだ。重くはないが大きい。


「じゃあ頼んでもイイですか?」


『ええ、部品回してください。ビーム(なか)までイってます?』


「ほんとがわだけ」


(走れば良いのだ車は)


 車屋は不必要に交換しない。


『……それとドマーニはたしかパッチンビスですよ』


「パッチン?」


『パッチンパッチン。使い捨てです。文房具みたいな……』


「ネジビスじゃあないんですか?」


『たしかパッチンですよ。再利用もできますがすぐ外れますからね。安いもんですし……サービスさんに確認してもらえますか?』


「分かりました。……それで犯人は低年式のクラウン系なので気にしておいてもらえますか?」


『(証拠が)残ってましたか……クラウンですか……多いですね』


「でもダークブルーですからそんな多くないと思いますけど。そちらにうかがった時でも確認してもらえますか?」


『もちろん。……でも案外多いんですよ。ここら辺は。いい加減乗りかえれば? っていうのが』


「犯人見つけて乗りかえさせようかな」


 笑う藍河だった。半ば本気だ。


『そりゃあイイですね。値引きゼロで売りますか。……見ておきますね』


 嬉しそうだ。


 電話を切り、再度ディーラーに電話して納品先を変更してもらった。請求先は自分だと念を押した。


『それとあいさん、ドマーニはビス止めなんだ。CB系とは違って』


「聞きました。それもお願いします」


『かなりある……一山ひとやまだな。いっしょに頼んで、バンパーに張りつけておくわ』


「お願いします」


 犯人探しは顔が広い良雄に任せた。結構見つかるものなのだ。警察でなくても。


 前にも何度か見つけたことがある。


 見つければバンパー交換費用一式を請求する気だった。もちろん、ビーム・インナー・取付工賃も。


(またアスコットだ。緑……今日はよく見る。さっきのクラプトンか……女連れか。やるね)


 つい習慣で二人の顔を見てしまう。


(女は美しいが……しかし若すぎないか……少女だ。それに男の目――)


 リアフェンダーに穴が開いていた。


(さっきはなかった……。板金では見たことがない穴……あれはたぶん銃痕じゅうこんだ……。つまり、あの男は……)


 藍河は見なかったことにした。我が身は可愛い。


 ステアリングが滑った。冷や汗だ。得体の知れない感覚が藍河を襲っていた。「アレに触れてはいけない」と本能が告げていた。


 スマートフォンの時刻を確かめてから、車の時刻を見た。一分遅れていた。


 アスコットが見えなくなってから、時計を進めた。


(触らぬ神にたたりなし。二度と会いませんように)


 心を落ちつけた。


 まだ誰かが見ていた。


(この感覚は何だ?)

   (了)


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