3.淳のピアノ/事故
3.淳のピアノ/事故
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの「ピアノソナタ ハ長調」(K.545)が奏でられる。
繊細な指先が鍵盤に踊る。
天才少年のポスターがホールの全面に貼られていた。
演奏は続く。
二時間を超えてアンコールに答える少年。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。今宵は満月だ。
喝采ののち、ホールから流れでる人の波。
蝶のブローチをした亜麻色の髪の少女が母を見上げた。
母は頷いて少女といっしょに少年の方に歩いていくが人混みで前に進めない。
母の薬指のリングにお揃いの蝶が止まっている。
亜麻色の髪の美しい少女に見惚れた少年が、隣の緑髪の少女にサインをせがまれた。
きれいな字で〈鮎川淳〉と書く。
「お名前は?」
淳が聞いた。
「静蓮です。静かに、植物の蓮と書きます」
「きれいな名前ですね。はい静蓮さん」
顔を見てにこやかに渡す淳から、しっかり受けとる静蓮だった。
雑誌の記者が写真を撮っている。
奥で取材が待っている。
シックブラックのドレスの美女がいっしょに写真を撮ってもらう。
女性の首のチョーカーの青い宝石が光っている。ブルー・ダイヤモンドだ。
時間切れで、亜麻色の髪の少女はサインしてもらえなかった。
少女の視線に屈みながら母が「今度ね」と言った。
「はい!」
はっきりきれいにお返事する少女だった。
心残りはあったがコンサート・パンフレットを手に会場を後にした。
*
記者からの質問に答える淳。
「将来を期待される天才ピアニストの夢は何ですか?」
「尊敬する人は?」
違う記者からも次々と質問される。
「もちろん両親です。今はいない母に自慢できるような息子になりたいです」
素直に答える淳だった。
「……ヨーロッパで演奏したいです」
「次の質問を」
フラッシュが眩しい。
*
会場を後にする流れに色紙を持つ緑髪の静蓮がいた。
父と母と三人のようだ。
「あれは売れる」
父が言った。
「まあまたお商売ですか?」
母が緩やかな広東語で言った。
「彼素敵でしょう? お父さん」
「あれは良い。間違いない」
「お母さんも応援してね」
静蓮が母に広東語で言った。
「もちろんあなたが好きな人を応援するわ、静蓮」
静蓮は大事に色紙を抱きしめるのだった。
ようやく亜麻色の髪の少女と母が歩いてくる。
「来月の十三日よ。お母さんいいでしょう?」
「仕方ないわね。ちゃんとお勉強するのよ」
「はい!」
「レッスンも」
「はい!」
「もうお腹痛は通用しないわよ」
少女のお腹をくすぐる母だった。
「は~い!」
笑い声がこだまする。
*
ホテル会場裏口に横づけされたベージュのVWベントレーに、コンサート・パンフレットを片手に乗り込む少年。本皮シートが大きい。
運転手がドアを静かに閉めた。表の混雑を避けるため裏に回したのだろう。
きちんとシートベルトをする。生命の大事さを教えられているようだ。
裏口の坂を下り音もなく去っていく。
かわって心地よい直列六気筒(R6)のサウンドが近づいて来る。
素早く坂を登る日産スカイライン・セダンGT−7th後期型の白MT。
慌てた運転手がサイド・ブレーキを上段まで上げていない。
*
亜麻色の髪の少女の声が聞こえた。
「良い声だ」
静蓮の父だ。
「お父さんはいつもお仕事なんだから……」
母が笑った。
「お母さん、わたし彼に恋しちゃった……」
静蓮の声が雑踏に消えた。
*
「お兄ちゃんどっか行っちゃうんだ……」
鮎川淳の妹のしおりが言った。
「すぐに行かないよ」
淳が答えた。
控え室にはもう二人しかいない。私服に着替えた淳はまだ幼い。
ノックと同時に入る父。
「平さんが車を回してくれた。先に帰っていなさい」
「お父さんは?」
しおりが悲しそうに言った。
「お仕事なんだよ」
しっかりしたお兄ちゃんの淳だった。
「行こう」
「平さんが肩車してくれるよ」
父がしおりに答えた。
「わーい。肩車肩車……」
しおりが走りだす。
「あっ待ってしおり」
淳が後を追った。
「しおりったら」
父は業者の人と連れだって廊下に出た。二人はもういない。
*
「急がなきゃ急がなきゃ」
鮎川平悟郎が『不思議の国のアリス』の三月ウサギのように廊下を走る。体型もどことなく似ていた。
くすくす笑いながらしおりがワイヤーの多い機材の影に隠れている。
案内板で確かめるが通り過ぎる平悟郎。
しおりが笑いながら走り出す。
気づかず走り続ける平悟郎。
再度案内板を確認して曲がる。
「あっ! 淳ちゃん」
淳を見つけ大声で駆けよった。
(いつもこうだ。この叔父は)
淳は恥ずかしそうに肩をおとした。
「淳ちゃん良かったですよ~。今日のバッハは特別です!」
平悟郎は誤りに気づいていない。
「最高! お礼に肩車しましょう!」
「ありがとう平叔父さん」
バッハは演奏していない。クラシックは全部バッハだと思っているらしいが、確かめるような大人げないことはしない聡明さを持つ淳だった。
「それよりしおり、見ませんでした?」
「肩車しましょう肩車」
聞いていない。屈んで淳を抱こうとする。
「しおりがいないんだよ! 平叔父さん見なかった?」
身体を躱しながら淳が言った。
「肩車……」
同じ視線で淳を見た。怒っているのが判ったようだ。
「しおりちゃん? 見てませんよ!」
逆に怒り出した。
*
しおりは一人ぽつんと裏口にいた。きょとんとしている。
若い長身の警備員が気づき声をかけようとするが、すぐにいなくなってしまう。
辺りを見回す警備員。
*
「警備の人に聞いてよ平叔父さんたら」
「お兄さんたちは忙しいの。お仕事のジャマしちゃよくないでしょ。それにしおりちゃんもどこかに隠れているだけなんだから心配いらないよ」
「ここは家の中じゃあないんだよ。何があるか分からないし。お願いだから……」
淳が心配そうに辺りを見ている。
機材の裏も見るがしおりはいない。
ワイヤーが邪魔でよく見えない。
*
静蓮がグリーンのフォードジャガーのベージュ革の後部座席に座った。
(恋……?)
シートベルトを閉める。
「なあに静蓮」
左の助手席の母だ。
「ううん何でもないの……」
色紙を抱いた。滲んでいる。
ブルーのメルセデスが横を抜けていく。
左ハンドルの女性のチョーカーの青い宝石が光った。
*
道に迷ったしおりが一人泣いている。
*
淳が警備の班長に説明していた。
「……これくらいの背の女の子で白のブラウス、白のスカート。髪は黒、目も……」
裏口の若い警備員からの連絡が入る。
「その子ならさっきここにいましたよ」
裏口付近に向かうみんな。
「平叔父さん。しおりを叱らないでね」
「どうして叱るんだい? 迷子になっただけだろう」
さっき走ったので平悟郎は汗が止まらない。
しおりが泣きながら廊下に立っている。
「しおりちゃん!」
平悟郎が気づき駆けよった。
「今までどこにいたの!」
大声だ。
しおりが裏口に走り出した。
「待ってしおり! 心配しただけだから怒ってないよ」
淳が叫ぶが届かない。
平悟郎の息が続かない。立ち止まる。膝に手をあてた。もう走れない。
裏口の若い警備員の脇をすり抜けしおりが表に飛びだした。
泣いて前が見えないしおりが白いスカイラインに当たってしまう。
衝撃でハンド・ブレーキがはずれ、ゆっくり前に車が動き出した。
見ていないしおりは前に走りだし車を横切ろうとする。
(あ!)
車に気づき、しおりが立ちすくむ。
淳が飛び出ししおりと車の間に入るが間に合わない。
スピードを出した白鯨は淳としおりを飲み込んだ。