28.翠との再会/藍河の料理
28.翠との再会/藍河の料理
墨月は料理をしない。できる料理といえばカップ麺と冷や奴ぐらいだった。
それでも、墨月の家には大きなキッチンがあった。
電磁調理器は全て藍河用だった。中華用の調理器は、クルーズ客船と同じく特注だった。
週に一二回、藍河が来て料理していた。
二人が暮らした〔慈悲の家〕でも、もっぱら藍河が料理していた。
〔慈悲の家〕には二十人近くいた。みんな孤児だ。何も持っていなかった。藍河も墨月も親はいない。
(チャアも……)
チャア――茶泉ひろみもいうなれば孤児だ。父は学校法人茶泉学院の理事だそうだが酷いことをする。愛人の子を理事長が運営する孤児院で育てている。
詳しい事は藍河は知らなかった。墨月は知っているだろうが……何でも知っていそうだが聞かなかった。
聞いても自分が何もできないから。
できない事に首を突っ込まない。それが藍河雅仁の処世術だった。「できる事を自分なりに」がモットーだ。
知っているのは、ひろみの母が茶泉の系列の薬局で働いていることだけだった。
(働かされている? ……のかも。子供を孤児院に入れたのも後継者争いから逃れさせるつもりだったのかとも考えられるが……)
所詮愛人の子だ。ひろみは茶泉学院大学附属の中等部の途中で渡米して、医師になった。父と同じ医師に。
(チャアが帰ってくる)
藍河と墨月は同じ歳だが、ひろみの方が上だった。
(幾つだったかな)
記憶が良い藍河も、女性の年齢は記憶していない。
赤いドマーニを立体駐車場に入れた。手前に緑色のレジェンドが止まっていた。
(この車は……)
自動車登録番号標の番号に覚えがあった。
「こんばんは」
藍河が墨月のマンションの扉を開いた。生体認証でロックは解除されている。
「どうぞ」
墨月の声が奥でした。
「それじゃあよろしく」
藍河がリビングに入ると、美しい女性が席を立った。
「翠さん……」
目が合った藍河が言った。
「お久しぶりです」
「こんばんは雅仁さん」
丹棟翠だった。緑のカチューシャが良く似合っている。
「食べていかないの?」
食材を調理台に置きながら言った。
「ごめんなさい。もうお店なの……残念」
目を細め、首を傾げた。とても残念そうだ。
「後でお店に持ってきてよ……冗談よ……またね」
伏し目がちにそう言って別れた。寂しそうだ。
「またね」
静かに藍河が言った。
「保険の更新だよ」
墨月が言った。
「聞いてない」
「店舗の火災保険」
「聞いてないよ」
窓の外から、レジェンドのV6の音が聞こえた。ホンダのV6エンジンは特別な音がする。藍河が売った車だ。なお、フェラーリのスターター音も聞いたら判断できる。
「てっきり気があるのかと思ったが……」
墨月が飲み終えたカップを横に、残念そうに言った。
「美人すぎる」
「理由になるかよ」
藍河がカップをシンクに置くと、キッチンテーブルに食材を広げた。
「りっぱな理由だ。不釣り合い。均衡って漢字で書けるか?」
「似合うと思うんだがなあ」
「いつから氷人になったんだ?」
氷人は月下老人のことで仲人だ。
「よくそんなことを知っているな。……杏ちゃんのお店の娘のことで相談していたんだ」
「今日はよく喋るな。もう飲んでいるのか」
食材を分別しながら、ゴミ箱を見るとワイン・ボトルが一本あった。イタリアのサンジョヴェーゼ。
「翠さんだよ。笊だ」
墨月が言い訳した。
「赤か……残しておいてくれよな」
藍河が残りをグラスに注いだ。
「海老チリに入れる(翠さん飲んで行ったのか……。今度注意しよう)
「美味しそうだ」
藍河と墨月と翠の妹の丹棟杏は同じ南の〔慈悲の家a〕で幼馴染みだった。姉の丹棟翠は東の〔慈悲の家c〕出身で、藍河が幼いころに何度か会っただけだった。
レジェンドの担当だが、引き継ぎだったので大人になってから、いま初めて会った。
丹棟翠がいた〔慈悲の家c〕は、シスターの一人が新しく造ったのだ。だから交流はあまりなかった。
どうして丹棟姉妹が分けられていたのか……藍河は聞いてない。
丹棟翠が幼いころから綺麗だったのを藍河は覚えている。
丹棟杏はどちらかというと明るい可愛らしい系だが、翠さんは淑やか綺麗系だった。翠さんは〔バー・アヴァロン〕を、杏ちゃんは〔クラブ・アヴァロン〕を同じビルディングで経営していた。ビルの持ち主は弁護士墨月信行。
「ところで聞きたかったんだが」
藍河が調理しながら、背中で聞いた。
「何? スリーサイズか?」
茶化す墨月。
「まさか」
俎板をアルコール消毒すると、中華包丁も拭いた。
「何?」
「アヴァロンって誰が名付けたの?」
「翠さんだよ」
「そう」
「何で?」
「……気になってな」
「アヴァロンの女主人がレジェンド(伝説)に乗っているってか?」
「そうそう」
ロックグラスに冷凍庫から出したプラット・ヴァレーを注ぐ藍河。カット・レモンを添える。とろみがついたとうもろこしウイスキーの香りがグラスから立ち登る。独特の味だ。香り。そしてコク。
「今度聞いてみたら?」
「え?」
今は料理に集中している。
「理由」
「ああそうする」
聞いていない藍河。完全にゾーンに入っている。
墨月がサンジョベーゼを片手に回想する。
最後に倒れ傷ついたアーサー王が貴婦人の船に乗せられ理想の島アヴァロンに旅立つ……だがその貴婦人の一人はアーサーの異父姉のモーガン・ル=フェイだ……傷つけた美しくも残酷な妖精(ル=フェイ)……白い貴婦人グイネヴィア王妃と湖の騎士ランスロットとの恋を利用した妖姫……アーサーの父は魔法使いマーリンの力でモーガンの美しい母を奪いその父を殺した時、見ていたのだモーガンは……異父弟アーサーを騙しその子を身ごもった同母姉モーガン・ル=フェイ……その子はアーサーの甥であり子であり味方であり敵だった……。
(マロリーだったか……ド=トロアだったか……)
酔っているので思い出せない。
トーマス・マロリーは『アーサー王の死』の、クレチアン・ド=トロアは『ランスロまたは荷車の騎士』の作者だ。
冷凍の海老を解凍する藍河。
かなり手慣れている。バットに海老を入れ、少しの塩とちょい重曹を入れる。これで冷凍の匂いが気にならなくなるし、海老がしゃんと……プリっとする。
生なら背ワタを抜いてから片栗粉と少しの塩とちょい重曹で軽く洗えばいい。綺麗になる。後は水洗いしてしっかり水を切る。
解凍できた海老をキッチンペーパーで水を吸いとった。塩・胡椒で下味をしてから、卵白でコーティングする。卵白の腰をきってから、片栗粉でまとめる。最後にオリーブオイルで艶をつける。
寸胴で沸騰させた湯に岩塩を加え、さらに沸騰させてからブイトーニを入れた。バラける。
BGMはプッチーニだ。彼もブイトーニをこよなく愛した。パスタは細目1・6mmのスパゲティーニだ。普通のスパゲティーよりやや細い。
大葉(青紫蘇)と白葱と大蒜・生姜を切る。
豆板醤に軽く水を混ぜ緩くする。水溶片栗粉も。
水はウィルキンソン。
フライパンにオリーブ・オイルを入れ手をかざす。
適温になったら海老を炒める。
良い音だ。
海老が跳ねる。
最後まで火を通さず出す。
音で分かる。
同じフライパンにオイルを足し、大蒜・生姜・豆板醤・モデナのバルサミコ酢を弱火で焦がさず炒め、薫りを出す。
オリーブ・オイルが赤く染まったら、赤ワインを入れアルコールを飛ばす。
ナガノのトマトジュース一缶を入れさらに薫りを深める。
トマトの薫りが広がったら鶏ガラスープを入れる。
ケチャップで炒めても良いし、スープがなければ創味シャンタンDXだ。
イタリアンなら麺を炒めて、トマト一缶に塩・胡椒だけで簡単だ。
ちょい砂糖、塩・胡椒で味を整える。
炒めた海老を戻し、葱を入れる。
水溶片栗粉を入れる時はフライパンを上げる。火から下ろさないとダマになる。何回も入れる。一度に入れない。
残った玉子の黄身を溶き入れ、強火で焼く。干焼だ。フライパンの縁が焦げ香りが立つ。黄身がオムレツのようになったら、化粧油にオリーブ・オイルを足す。辛味が好きならラー油だ。
最後に酢で味をまとめる。
プッチーニの時間だ。アルデンテ。どうもアンダンテ(ゆるやかに)といっしょになってアルダンテだと思っている人がいるが、デンテは歯だ。
残れば冷凍すれば良い。すぐ解凍できる。
冷製なら少し長めに茹でる。冷水で締めると硬くなるからだ。冷製は日本発だ。オリーブ・オイルを絡めて、くっつけかないようにしておく。
「できたよ」
ボールを底に、ステンレスのザルにパスタを上げた。
「はいな」
小皿にパスタを盛り、海老チリをかけた。大葉を添える。
「美味しそう……スパゲティにしたのか」
「スパゲティーニ」
ニを強調する。
「炊く時間がなくてね」
冷凍白米はなかった。
「スパゲティーニスパゲティーニ」
細目の竹箸で食べた。施設にフォークが足りなかった名残りだ。
(美味い。お箸のほうが美味しく感じられるのはなぜだろう)
「今日は炒めませんでした」
時間があるならパスタを炒めて、硬麺にしても美味しい。外道だが。
「十分だよ」
「まだまだだなあ今一」
「そうかな十分」
食が進む。
「奥は深い」
沸騰した寸胴鍋に冷凍した鶏ガラを入れる。スープだ。
灰汁を掬って弱火にする。
「替え玉あるよ」
藍河は沸騰させたスープは許せなかった。
(スープは透明だろう。豚骨スープも透明にできる)
白濁したら蘞味が出るというのが持論だった。
「頂戴」
ザルのスパゲッティーニを軽く湯にくぐらせて盛る。
「チーズあるよ」
「チーズ? 海老チリに?」
「トマトだもん。合うはず」
「した事ないでしょ」
「たぶん合う。maybe, perhaps, likely, probably, possibly, happen, peradventure」
上手な英語だ。
「だんだん冒険だな。モルモットにはなりたくない」
「ペニシリンを知らないのか?」
かけて食べる。
「美味しい?」
「普通。案外普通。普通に美味い」
「自分(藍河)が普通ならかなり美味しいな」
食べる。
「おお」
確かに美味しかったらしい。
「しかし、これは何料理なんだ?」
「さあ」
藍河が白ばっくれた。
「純粋な海老チリじゃあないな」
もはや海老チリとは言い難い。そもそもパスタを入れている時点でどうかしている。
「美味しければ良いよ」
藍河が鶏ガラスープの灰汁を取った。
ふつふつとスープが煮込まれていた。




