10.淳の家族/〔慈悲の家〕
10.淳の家族/〔慈悲の家〕
神戸の東となり芦屋には意外と緑がある。芦有道路で山を越えればすぐ有馬だ。海も近くにある。住むには良い場所だろう。
芦屋はJR神戸線で南北に分けられているという。JRより北の山手が裕福な人たちが住む住宅。南が庶民の家。
特に北に登れば登るほど地価は高くなる。成金と煙は上に上がりたがるそうだが本当だ。
応仁の乱からこちら銀主は派手なことはしない。これみよがしの広大な敷地に噴水もプールもない。寝室がいくつあるか分からないような邸宅もない。ただ、何気ない庭石が地元の御影石だったりするだけだ。
本当の贅沢とは着飾ることでなく磨くことだと知っている人間が僅かでもいる。そうした街だ。
試しに飲食店に入ってみるといい。賑やかにしていても良いところの子女はきちんとお箸を使っている。身が美しいと書いて躾。日本で作られた国字だ。
淳の父、鮎川忠は芦屋の山手に住んでいるが庶民だ。
忠の義父で、淳の義祖父にあたる鮎川善は九州は博多の山奥から大阪に出てきた田舎者だった。善は戦後すぐに両親を亡くしている。ひとり西成の土建会社に勤めるようになったのは十五の夏だった。
善は不器用で真面目だけが取り柄だった。ちょうど高度成長期でもありお金を貯めた善は、同業で西宮に住んでいた外国人と共に会社を建てた。
岡山の遠縁に預けられていた亡妹の子の忠と平悟郎の二人を引き取ったのはそのころだった。
当初は景気が良かったせいもあり、大阪の新地で飲み明かした時代もあった。もっとも付き合ったのはもっぱら共同経営者の外国人と平悟郎で、善と忠はそうそうに退散していた。
忠が一人前になるころには、会社は大きくなりすぎていた。
翳りが忍びよると人は変な考えに囚われる。今まま景気はずっと続くものと思い込みたがる。真夏の日の水溜まりのようだ。暗雲が近づいても、蜃気楼になっても、その時が来るまで理解できない。
善は毒されていた。共同経営者はシビアに会社を整理し自らの保身を狙った。
平悟郎の一人接待が不備に終わると、善が詰った。
(どうしてだ?)
忠が気づいたときにはもう遅かった。
善は酒毒から病に倒れ還らぬ人となった。同郷の善の妻も後を追う。
鮎川忠に残されたのは膨大な借金と、手つかずの仕事だった。
忠は逃げた共同経営者を恨まなかった。同じ立場なら自分もそうしたかもしれないと思ったのと、気づかなかった自分にも責任があるからだ。
何より、家を待つお客さんが残っていた。自分たちが開拓し、やっとのローンでお金を用意できたお客さんがそこにいるのに、恨む余裕などなかった。
破産をしたとしても何も解決できない。
若い忠は一軒一軒、平悟郎と頭を下げて待ってもらった。今までの下請業者に頭を下げ支払を先延ばしにしてもらい仕事を続けてもらった。
腹を括った人間は強い。必ず返すと銀行の応接室で割腹自殺を狂言した事もあった。今でなければ話にならないと脅したのだ。
平悟郎は狂言だと笑っていたが、あのときの忠は話が通らなければ本気で死ぬ覚悟だった。
お金がないので下請業者の従業員の家族の食事まで忠の妻は作っていた。
忠と妻の馴れ初めは、下積みのころ今宮で毎日立ち食い饂飩を食べる忠を、働いていた妻が見初めたからだった。
華奢な腕の忠だったが毎日うどんをお代わりした。食べるものは他になかった。
同業者が飲みに行く間、忠は風呂もトイレもない部屋で内職をした。稼いだお金は借金を返した残りの全てを貯金した。郵便局の通帳を見て飢えを凌いだ。
他にすることがなかったのだ。
あるとき駅前で美しい女性に会釈された。
(誰だろう……)
すぐに顔を思い出せない。
(岡山の幼馴染とはもう何年も会っていない。なんと言ったろう……赤沼? 違うな……)
「こんにちは」
「あっこんにちは」
忠が照れながら顔を拭った。よけい油がつく。
「どちらさんでしたか……」
「あーお化粧してるから」
女性がバッグからハンカチーフを折り頭に乗せる。
「あっあー……?」
「判った?」
首を振る。
「いらっしゃいまっせー」
「あっ! うどん屋さんの」
「そう」
「分からなかった。えらい美人だから……」
「ふだんは美人じゃあないんだ」
声を上げて笑う女性に、忠も惚れた。
笑顔が心に残った。
*
妻の遺影の笑顔は若いころのままだ。
平悟郎が奥で幼いしおりを抱きながら、静かに酒を飲んでいる。
産後の肥立ちが良くなかったのだ。気丈な彼女は無理を押して隠していたのだろう。
平悟郎の妻がせわしく動いている。
小学生の淳は真一文字に口を閉じて正座したまま動かなかった。握りしめた手が白くなっていた。
*
妻への想いを仕事にぶつけた忠は、庶民派の住宅を造り出した。
それがヒットした。
低料金でありながら注文住宅並の融通が効くとあって大反響をもたらした。幼いころからの下積みで何でも器用にできたのだ。
借金の返済もようやく目処がつき始めたころ、音楽好きな淳の才能に気づいたのは平悟郎だった。
取り壊しの家にあった年代物のリードオルガンを持ってきたのだ。廃材であっても分別して有用に使用することが鮎川建設株式会社が安くできる理由の一つだった。
手先だけは器用な平悟郎が、埃を拭いてピカピカにしてから淳を座らせた。
淳が弾くが、音が鳴らない。平悟郎を見る。
(どうして? 外装の傷は関係ないし……。すこしくらい壊れていても……あっ!)
ようやくペダルを踏んで空気を送らないと音が鳴らないのに気づいた平悟郎は、淳を膝に抱いて踏んであげた。
平悟郎でも知っている曲だった。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲「エリーゼのために」は世界の誰もが知っている。
もっとも、いっしょにあった楽譜が「前奏曲とフーガ ニ長調」(BWV532)だったために、すべての音楽を「バッハ」だと誤解させることになってしまったが。
すぐに平悟郎が「兄さん、淳ちゃんすごいよ」と言いだした。
(いつものように大きく言っているだけだろう……)
家の外からも軽快な音楽が鳴り響いていた。
一部音が鳴らないので不協和音だが、音楽にはなっている。
音楽が分からない忠でさえ聞き惚れて、思わず息が止まるほどの演奏をしていた。
(この子は天才じゃあないか?)
早速、ピアノ教室に通わせるようにしたかったが月謝が払えない。
騒ぐ平悟郎を残し、どうにか工面する方法を考えながら街を歩いていると、どこからか賛美歌が流れてきた。クリスマス用に練習しているらしい。
(教会にはピアノがある!)
忠が教会の門を開けた。
忠は宗教などに興味がなかった。必死に生きている人間に、神さまは何も仰らない。困った時の神頼みで良いと忠は思っていた。神さまにお祈りするだけで物事がうまく行くとは絶対思えなかった。
だがピアノは別だ。ピアノなら淳一人で弾ける。
ワンパク小僧の一人が作業服姿の忠を見て隣の〔慈悲の家〕の建物に消えた。
礼拝堂の扉を開いた。
美しい賛美歌が続いている。
中に進む。
ちょうど遅れてきた白衣のシスターが一人やって来た。
「どうぞ前に」
シスターが声をかけた。
「お願いがあるのですが……」
「マリアさまが聞いてくださいます。どうぞ」
にこやかに案内するシスターに、忠は後に続いた。
(緊張する……)
生まれて初めて入ったのだ。それはそうだろう。
忠の職人の目が光る。
案外、中は広い。天井が高いと思っていたがここはそれほど高くない。建材も節が多い。だが上手に組み合わされ補強されていた。
(かなり安い……うちよりも安い? だがかなりの業師だ)
愛情が深いのが忠にも分かった。
見ると細部で補修が必要だった。
「どうぞ」
マリア像の前に案内されるが、忠は祈りの作法を知らない。
白衣の天使が察して隣りに跪き、十字を切り祈った。
「マリアさま……」
動揺していた忠には、マリアさましか聞きとれない。
忠も見よう見真似で祈る。
「マリアさま……息子がピアノを習いたいのですが家にピアノはありません。……通わせたいのですが月謝が払えません。……えーっ……ぜひマリアさまのお力で息子を……」
忠が横目でシスターを見た。
微笑むシスターだった。
「アーメン……」
*
さっそく淳の演奏を聞いたシスターが手を止めた。
(どこでこんな……)
淳は一度聞いた音楽を諳んじられた。
(これは……)
演奏中も楽譜を見ていない。
(天才に雑音は不要だわ)
賢明なシスターは自分が教えるより、レコードを聞かせた。シスター自身も弾けない高度なレベルの音楽ばかりを選りすぐって。
後は淳のしたいように弾かせた。
*
今日も曲が聞こえる屋根裏で、忠が鼻歌を口遊んでいた。ピアノを使わせてもらう代わりに無償で修理しているのだ。
淳は特にモーツァルトが好きだった。ベートーヴェンも。教会のレコード全てを聞き終えるのにそれほど時間は経からなかった。
〔慈悲の家〕ではワンパク三人組が悪さを考えていた。年長の痩せた少年が年下の二人に命じている。
礼拝堂を出た淳を赤毛の少年が不通坊した。
「あの……」
淳が何か言おうとしたとき年長の少年と小太りの少年が石を投げつけた。きれいなシスターを独り占めされたので腹が立ったらしい。
年長の少年の石が淳の頭に当たり倒れる。小太りの少年はコントロールできず礼拝堂と寮を繋ぐ廊下の窓を割ってしまった。透明な部分が十字の磨りガラスが一枚割れる。
音が響いた。
「こらー!」
屋根の忠が叱った。
三人は逃げ出したがすぐに、シスターに見つかってしまった。別のシスターが淳を抱き起こした。右目が充血している。
涙が流れるが淳は痛いと言わなかった。
「こら! 仲良くなさい!」
「だってピアノ弾いて生意気なんだもん」
「あなただって弾いて良いのよ。ちゃあんと練習すればね」
「大丈夫かしら?」
心配するシスター。
「こんなんじゃあ何時になったら慰問に行けるやら……」
*
淳が眼帯を取った。
あいにく視力は戻らなかった。眼鏡が必要だった。
「ごめんな。大丈夫か?」
「ごめんごめん。でもすごいよな。泣かないんだもん」
お蔭でワンパク三人組とは仲良しになった。
小太りの少年は忠に命じられてガラスを切っている。ナイフは得意なようだ。きれいにはめる。廊下の十字架が一つ欠けている。
忠がガラスをきれいに切り、十字にして貼った。遠目には同じに見えた。




