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中編

 さて。


 公平公正かつ神聖な“トカゲスポックジャンケン”の結果、先に守備についたのは、我々白組 《ホワイト・アディポーズ》であった。


 キクチ・カナ嬢は、ながい赤髪をうしろでくくり、ライトのあたりを守っていた。


 ヒカルに無理を言って代わってもらったかっこうだが、左利き用のアイツのグローブを左手にはめ、カッコイイからとの理由で、あまっていた赤のキャッチャーマスクを頭に、青のアームガードを左腕に着けている。


 そんな彼女の様子をわたしは、ときどき三塁ベースのうえから眺めていたのだが、その視線に気付くと彼女は、うれしそうにこちらを向いて手を振って――まあ、見られたすがたではなかった。


 彼女には、出来るだけうしろを守り、飛んできたボールは、セカンドやセンターに任せるようにと、念を押していたつもりなのだが、気付けば内野のあたりにまで侵攻、その都度ファーストやセカンドに下がるよう言われていたし、


 カキン。


 という気持ちのよい音が、バッターボックスからするたびに、ファーストやセンター、それにレフトの位置にまで入り込んでいた。


「ねえねえ、あたしの守備どうだった?」


 攻守交替の際、はしゃぎながら彼女が訊いて来たのでわたしは、このまま続いてくれればよい。とだけ答えておいた。――結局、幸か不幸か、一回表にライトへボールが飛ぶことはなかったからである。


 それから、一回裏の、我々 《ホワイト・アディポーズ》の攻撃は、予想以上のスムーズさでもってまわっていき、わたしとリーダーは、顔を見合わせることになった。その回のうちに、九番のキクチ・カナ嬢にまで、打順がまわってしまったからである。


「これ、みじかくないの?」長身細身の彼女が訊き、「こども用だからね」リーダーは答えた。


 審判役がバッターと話し込んでいてはゲームがすすまないが、この頃になると、さすがの悪ガキ連もあきらめというものを覚えていったのだろう、文句の言葉は鳴りをひそめ、とにかくいまは、皆がみな、彼らの成り行きを見守っているかっこうである。


「とにかく、ボールから目を離さないことだ」と、リーダーは言い、


「オッケー、ボールから目を離さない」と、キクチ嬢は返す。


「バットを握り過ぎてもダメだ。うまく振れなくなる」


「握りしめ過ぎない。了解」


「バットが重たいようなら、ピッチャーがモーションに入るまで、肩に乗っけておくのもいいよ」


「“モーション”ってなに?」


 と、それからさらに、三つ四つのやり取りがあって、最後にリーダーが、


「ほんとうにそれでやるのかい?」と、ショートパンツからのぞく彼女のながい足を見詰めながら言ったところで、


「オッケー、いいからもうどいて」と、リーダーを押し退けながら彼女は、なぜだか右側のバッターボックスへと、入って行くのであった。


     *


 旅を続けるドクターとアメリアのもとにふたりの人物が現れる。


 ひとりは、謎めいた金髪の淑女、妖艶なるリヴァー・ソング博士であり、ひとりは、アメリアとおなじ田舎町に暮らす彼女の幼なじみ、ローリー・ウィリアムズ少年であった。


 ソング博士は――リーダーのお話のなかでは明確に語られることはなかったものの――どうやら将来、ドクターの奥方となられる方のようで、セクシーかつ圧倒的な彼女の魅力に、とくに年長のトーチウッダーたちは、こころを奪われていたようである。


 ウィリアムズ少年は――こちらはリーダーのお話のなかでもはっきりと語られていたが――どうやら少女アメリアに恋をしているらしく、ドクターとふたり危険な旅をつづける彼女を心配し、また、彼女をつれ歩くドクターに、嫉妬にちかい感情を抱いているようでもあった。ふだんは、彼らにふり回される役回りの多いウィリアムズ少年であったが、アメリアが危険にさらされると命がけで彼女を守り、ドクターに強い態度で抗議することもあった。


「あんたは、おそろしいくらい危険なヤツだ。みんな、あんたの期待にこたえようと、危ないことでも平気でしてしまう。あんたのまわりのひと達が、どれだけ危険な目にあってるか、分からないのか?」


 アメリアのことを想いドクターに詰め寄る彼の言葉は、ドクターはもちろん、彼らの旅を手放しでよろこんでいた我々のこころにも、強い印象を残すようであった。


     *


 カン。


 金属バットの小気味よい音がグラウンドにひびき、キクチ・カナ嬢の打ったボールがおおきくセンターを越えて行く。おどろいたのは、彼女の実力を過小評価していた紅組 《レッド・フェズ》の外野陣である。


 彼らは、キクチ嬢の実力を見くびるがあまり、誰がショートで誰がレフトで誰がセンターかも分からなくなるほどの浅さで、守備についていたのである。


 転がり続ける白球を、ライトとセンターが同時に追い掛け、グラウンド内の誰もが、「これは見事な三塁打だ」そう想ったつぎの瞬間、キクチ・カナ嬢は――あのお洒落なショートブーツで、なぜあれほどまでの速度が出せたのかはいまもって不明であるが――サードベースを蹴っていた。


 センターからの送球に二塁手が中継に入り、


 パスッ。


 という音とともに振り向いた彼がキャッチャーのシラタニ・タクマめがけボールを投げた。


 が、それでも時すでにおそく、彼女は見事、スライディングのひとつもせずに、ランニングホームランを達成したのであった。


 呆気に取られ、且つ、舞い上がったのはわたしだけではなかった。


 審判役のリーダーは、その立場上、彼女を抱擁することははばかっていたようだが、それでも、見開いた目と、うれしそうな口もとと、地面より3mmばかり浮いた足もとを見れば、彼が、いままさに天国にいることは、誰の目にも明らかであろう。


「どう?!」興奮気味に彼女は訊き、我ら白組は全員、彼女を両手ハイタッチで祝福、正式な仲間として認めることになるのであった。


 特に、彼女にポジションと打席をうばわれた格好になっていたヒカルなどは、まるで我がことのようによろこぶと、リーダーになり代わり、彼女にたっぷりの抱擁を与えていた。


「アームカバーとマスクは、取ってもらったほうがイイんじゃないっスか?」4回の表がはじまる直前、ヒカルは言った。キクチ嬢の絶望的な守備能力を心配してのことである。「あと、キクチさん、きっと左ききっスよね?」


 なるほど。たしかに、先ほどのホームランも、右のバッターボックスから放たれていた。


「ああ、それでちょっと痛かったのね」そう言うと彼女は、あのころころとした笑顔で、右手にグローブをはめ直し、「ありがとねー、ヒカルくんーー」と、ベンチにすわるアイツに向けて手を振った。


 振ったのだが結局、赤いマスクと、青のアームガードのほうは、最後の最後まで、取ってくれることはなかった。「だって、カッコいいでしょ?」


     *


「アメリア、はやく離れろ」


「いやよ、彼をひとりにしておけない。はやく助けなきゃ」


 西暦2020年のウェールズを訪れたドクターとアメリア、それにウィリアムズ少年を、悲劇が襲った。


 この地の人間は、豊富な地下資源を得るため、地下の採掘計画を進めていたのだが、そこで使われていた巨大なドリルが、地下の奥深い場所で休眠状態にあったサイルリアン――高度な知性と文明を持ったみどりの肌のトカゲ人間――たちを目覚めさせてしまったのである。


 彼らサイルリアンは、この地下採掘を地上人からの攻撃であると解釈、軍隊を復活させると、彼らに武器を取らせ、逆に、地上人類への反撃を開始しようとするのであった。


 何故なら彼らは、人類よりもずっと以前に、地上で栄えた地球の先住民であり、自分たちこそが、地球の主人であると考えていたからである。


 まさに一触即発の状況のもと、ドクターは、人類、サイルリアン双方に共生の道を探るよう進言、話し合いの場を設け、この協議は、うまく行くように想われた。


 が、しかしそれでも、運命の歯車は狂いに狂い、戦争のボタンは押されてしまう。


 和平への道を断たれたドクターは、最後の手段として、地下世界のエネルギーを使い、問題のドリルを破壊、サイルリアン達には再度の休眠状態へとはいってもらい、とおい未来で――人類がいまよりは賢明で寛容になっているであろうとおい未来で――、改めて彼らとの共存を図るよう、お願いするのであった。


 そうして、彼らと別れたドクターたちは、地上世界へもどることになるのだが――本当の悲劇は、そこにあった。


「まさか、ここにもか」地上へともどる直前、ドクターはそれを見付け、「しかも、おおきくなってる」


「あの“裂け目”だわ」アメリアもそれを目にした。「わたしを追って来てるの?」


 そう。サイルリアンのこの地下洞窟に、アメリアの家の壁にあったのと同じ“ひび割れ”、“時空の裂け目”が、とつぜん現れたのである。


「そこに手をつっこむのだけはやめろ」裂け目に向かうドクターをウィリアムズ少年は止めたが、そんな彼にはかまわずドクターは、壁の裂け目を調べはじめ、そこに――、


「よくも……、すべておまえのせいだ!!」


 サイルリアン兵士の生きのこりが、ドクターを襲撃したのである。であるが――、


「ローリー!」


 なんと撃たれたのは、ドクターをかばおうとした、ウィリアムズ少年であった。


     *


 問題のランニングホームランをきっかけとして、我らが 《東石神井トーチウッダーズ》の一員となった、俊足&快足キクチ・カナ嬢であったが、彼女は、週に一度 (ときには二度)、大学が休みの日を利用しては、私たちと合流、紅白戦に参加することとなった。


 その、三度目の試合のことである。


 このとき彼女は、ひき続き、ヒカルに代わってライトを守っていたのだが、その、4回裏。


 カキン。


 という軽めの音がして、彼女のほうに、平凡なライトフライは飛んで行った。


 がしかし、これまでの、壊滅的な彼女の守備から、我々白組も、相手の紅組も、このライトフライは、かならずや落とされるものとして、次の準備にはいっていた。


 いたのだが、なんと彼女は――ヒカルが教えてやったかたちそのままに――そのライトフライを、取ったのである。


 目はつぶらずに、ボールの下に入る。


 右手のグローブは、ひたいのあたりで、しっかりと構える。


 あとは、ボールが落ちて来るのを信じて待っていれば――、


 ポスッ


 という、ボールがグローブに着地する音が聞こえ、と同時に、


「キャー!」と叫ぶキクチ嬢の歓声が、グラウンド中にひびき渡った。「取れたわよーー!!」


 が、しかし、と同時にこんどは、


「タッチアップ!」そう叫ぶシラタニ・タクマの声が、二塁ランナーへと出された。「ホームをねらえるぞ!!」


 すると、これより一瞬おくれて、


「キクチさん!」レフト役として守備に復帰していたヒカルが叫んだ。「バックホーム!!」


 が、この言葉だけでは、キクチ嬢にはなにがなにやら分からない。


「え? え? なに? なに?」と彼女は、うろたえながらボールをグローブから出し、


「いけるぞ!」シラタニ・タクマが、ランナーに向かい腕を回した。そこでわたしは、


「キャッチャー!」彼女とホームの間へと走り込みながら叫んだ。――中継が必要だと考えたのである。「キャッチャーに向かって投げて!!」


 が、ここでわたしたちは、ふたたび彼女におどろかされることになる。


 と言うのも、わたしの声にしたがいキクチ嬢の放ったボールは、中継役のわたしのはるか頭上をとおり過ぎると、そのまま、


 ポス。


 と、ホームベースで待つキャッチャーのもとへと、たどり着いたからであった。


     *


「アメリア、きみが頑張ってるんだから、おれも頑張らないと」


「わたしは別に、頑張ってないけど?」


 サイルリアンの地下洞窟より逃げ延びたドクターとアメリアは、ふたたび旅をつづけ、こんどは、西暦1890年の北フランスへとやって来ていた。その地に住む、ある絵描きに会うためである。


「ほらアメリア、見てごらん。あの窓のなかだ」


「顔?」


「顔つきが悪いよな――邪悪なものは、見ればすぐ分かる」


 未来の美術館で、この絵描きの絵をみたドクターが、その教会の絵のなかに、なにか不吉なもののあることに、気付いたからである。


 どうやら、この絵描きの目には、ふつうのひとには見えないものを見る能力が備わっているらしく、それが、彼の絵を、一種独特のものにし、また、その地に迷い込んだ、すがたの見えないエイリアン、“クラフェイス”の存在をも、彼に気付かせたようであった。


 しかもこの頃、絵描きの住む村は、この怪物が暴れまわったせいで、深刻な被害を受けており、ついには死者までをも出していた。


「やつを、倒さなくてはいけない」


 そこで、ドクターとアメリアは、絵描きと協力、この怪物を、みごと退治することになるのであった。が――、


「気にするな、分かるよ」北フランスの田舎道を歩きながら、絵描きは言った。


 彼のよこを歩く少女が、ひと筋のなみだを、自分でも気付かぬそのなみだを、そっと、拭いたからである。「わたしには、なんのことだか分からないわ」


     *


「アメリア、ひかりからはなれろ。これに触れたら、きみは消える」


 サイルリアンの地下洞窟で、銃弾に倒れたウィリアムズ少年。彼をおそった悲劇は、それだけではなかった。


「アメリア、はやく離れろ」


 例の、“裂け目”から漏れ出たひかりが、彼の身体を、包み込んで行ったのである。


「いやよ、彼をひとりにしておけない。はやく助けなきゃ」


 死よりもおそろしいもの。それは、愛するものの記憶から、自分自身の存在を、存在そのものを、永遠に消し去らわれてしまうことである。


「もうひかりに包まれている。助けられない」


 そうして、“裂け目”には、それが出来た。


     *


「いや、アメリア、きみの悲しみが聞こえるんだ――誰かを失くしたんだね」


「べつに、悲しんでない」


 ひまわりを戴いた葬礼の列が、彼らのよこをとおり過ぎて行った。


「じゃあ、」問いつめるような瞳で、絵描きは訊いた。「なぜ泣く?」


     *


 “裂け目”から漏れ出たひかり――時間エネルギーは、別れのことばを告げるウィリアムズ少年の全身を包み込むと、そのまま、彼の時間、彼の存在そのものを、この宇宙から、永遠に、消し去ってしまったからであった。


     *


 キクチ・カナ嬢と、我々の待ち合わせは、いつも、いつものスーパー、『いつものスーパー・ミステリオ』の、いつもの駐車場であった。


 彼女は、遅れて来ることもあったし、まったくの時間通りに来て、買い出しを手伝ってくれることもあった。ときには、はやく着き過ぎたのだろうか、『ミステリオ』のコーヒースペースにすわって、なにやら難しそうな本を――それはつまり、マンガでもなければ、アニメのような表紙や挿絵が入ったりもしていない本のことを言うのだが――を、読んでいることもあった。


 ある日のこと。リーダーやヒカルたちに先んじて、彼女を見付けたわたしは、読書中のキクチ嬢のテーブルの前にそっとすわると、なにをそんなに熱心に読んでいるのか? と訊いた。


 彼女はそのとき、表紙に、『九つの物語』と書かれた、ちいさな本を読んでいた。


「うーん? こんどね、このお話を書いたひとの、別の本のお手伝いをするかも知れないんだ」彼女は応えた。


 わたしは、あなたもお話を書くのか? と訊いた。あなたといっしょに仕事をする相手は、幸福であろう、とも。


「あは、」彼女がわらった。「そう言ってもらえると、うれしいんだけどね」


「あたしに、なにが出来るかは分からないけどね、でも、この本のひとのことは好きだし、そうね、出来るだけ、がんばってみるわ」


 前にわたしが、彼女のことを、“文句なしに美人だと想えた”と書いたのは、このときのことを、想い出してのことである。


 彼女のまえにすわると、なぜだかいつも、まわりが明るくなるような気がした。


     *


 なみだのわけも分からぬまま、ドクターとの旅を続けるアメリア。そんな彼らに、ソング博士からの呼び出しが掛かる。


 そこは、西暦102年のイギリス南部。あの、奇妙なストーンヘンジが立てられている場所であり、その地の果てでソング博士は、妖艶なクレオパトラ七世に扮し、屈強なローマ兵を引き連れていたのであった。


「これは?」とのドクターの問いに、「これは絵よ」と、ソング博士は答えた。「お友達の絵描きの」


 彼女がドクターに見せたのは、例の絵描きが描いた一枚の絵――宙に浮かぶターディスが、爆発事故を起こしている絵――であった。


「絵の題名は?」ふたたびドクターが訊き、「“パンドリカが開く”」ソング博士は答えた。


 すると今度は、「パンドリカって?」と、横からアメリアが訊いた。「箱型の独房よ」博士は続ける。「もっとも危険な生き物を閉じ込めておくためのね」


 が、しかしこれには、「ただのおとぎ話だよ」と、あきれた顔でドクターも応える。「現実には存在しない」しないはずだが――、


「もし現実ならここにあって」と、そんな彼をたしなめるように、博士。「もうじき開くわ」


 このときの、ソング博士の説明によれば、パンドリカは、高い確率で、実際に存在し、あるとするならば、それはストーンヘンジの地下に置かれている、と言うのだ。


「まさか、そんな」と、引き続きドクターは半信半疑のようであったが、それでも実際、ストーンヘンジの地下へと潜ると、なんとそこには、本物のパンドリカ・ボックス――2~3m四方の、青く大きな、完全な金属の箱――が、置かれているのであった。


「なかにいるのは、邪悪なゴブリンか、“最強の戦士”か」とドクター。「名前も知らないが、無数の銀河でたたかい、血塗られた危険なケダモノ」どうやらパンドリカは、すこしずつではあるが、その扉を、開こうとしている様子であった。「その存在は、全宇宙でもっとも恐れられているんだ。ヤツを阻止できる者は、誰も、いなかった」


 と、ここで、宙に異変が起きた。


 その頃はまだ存在していた星々のあいだを縫い、あらゆる時空の、あらゆる異星人たちが、一万を超える宇宙船とともに、この地へとやって来たのである。


 そうして、彼らを呼び寄せたのは、なんと、パンドリカ自身が発する、ひとつの警告であった。


「パンドリカが、開く」


     *


 6月もおわりに近づいた、晴れた土曜日のことである。ひかげに咲いた、しろのミヤコワスレが、無駄にきれいだったことが想い出される。


 わたしとリーダー、それにヒカルは、いつものように、『いつものスーパー・ミステリオ』の、いつもの駐車場で、いつものように、キクチ・カナ嬢の到来を、待ちわびていた。


 が、ただ、いつもと少しくちがっていたのは、リーダーの服装が、いつもの白や紺のジャージではなく、まるで大学の先生が着るような、白のカッターシャツに、茶色のジャケットだったことである。


「あんなんで、練習大丈夫っスかね?」リーダーに聞こえぬ声でヒカルが訊ね、きっと、大学の用でもあるのだろう、と、わたしは答えておいた。


     *


「ねえドクター聞いて、お願いだから、いまは戦わないで逃げてちょうだい」


 宇宙船団の動きに気付いたソング博士が、彼にそう進言する。到着する異星人たちは、すべてがすべて、彼の敵であり、全員が彼を、こころの底から、憎んでいたからである。


「逃げるってどこへだ!」ドクターはさけび、「かなわないったら!」博士もさけび返した。


 すると、ここでなにかを想い出したのだろうドクターは、手にした双眼鏡でとおくを見遣ると、「僕たちには、」と、すこし間を置いてから、「あの史上最強の軍隊がついているじゃないか」そう不敵にほほ笑んだ。


 博士の連れていたローマ兵に、彼らを守らせようと言うのである。


     *


 コホン。


 と、ちいさな咳ばらいがひとつ聞こえ、リーダーが、左手の腕時計を確認した。


 一瞬、時間の進み方が、遅いように感じた。


 そうして、その、進行の遅れた数秒間、彼は、何かをためらっているようすであったが、それでもそのまま、意を決したのだろうか、おんぼろフィガロのエンジンをいれると、我々に、すぐ乗るように、と言った。


 わたしとヒカルは、顔を見合わせると、そのまま同時に、『ミステリオ』の時計台を見上げた。


 もうすこし待ってもよいのではないか? ヒカルはそう言いたそうだった。が、うまく言葉に出来ないようでもあった。


 そのためわたしは、あいつに代わって、キクチ嬢を待たないのか? と、窓の外から、運転席にすわるリーダーに訊いた。


 彼は、そんなわたしの質問には答えず、うしろに立つヒカルに向かって、「いいから、はやく乗るんだ」と、ふだんなら絶対につかわないような強い口調で言った。「悪ガキどもを、ほったらかしにしておくわけにもいかないだろ」


     *


「きゃあ!」ストーンヘンジの地下室に、おさないアメリアのさけび声がひびいた。パンドリカの調査をつづける彼女たちに、何者かが襲いかかって来たのである。「なによ、あれ?」


 それは、“銀色の悪夢”と呼ばれる、サイボーグ型のエイリアン 《サイバーマン》の、バラバラにされた腕と頭部であった。


「たすけて! ドクター!!」続けてアメリアは叫ぶが、彼はすでに、サイバーマンの攻撃により気絶させられている。そうして、残りのサイバーマンの身体パーツも現われ、アメリアへと迫る。が、


「やあ、アメリア」そんなサイバーマンを倒し、彼女を救った者がいた。――あるひとりの、ローマ兵である。


     *


 それから、その日3回目の打席でのことだったので、多分、5回裏のことだったと想うが、バッターボックスに立つわたしの目に、遠くレフトスタンドにすわる、キクチ・カナ嬢のすがたが飛び込んで来たのである。


 彼女は、あかいストールをくびに巻き、いつものジャケットを肩から羽織って、我々の試合を、見ているようすであった。


 わたしは、審判役のリーダーのほうを振り返ると、目でその旨を伝えようとしたのだが、かれは彼で、こころここにあらずなのか、この目くばせの意味が分からないようである。


「どうした? はやく構えろ」そう彼は言い、わたしは耳打ちでそれに応えた。


「どこだ?」と、続けて彼は訊いた。わたしは、彼女がよく使っていた赤い線の入った金属バットで、その位置を教えた。


「すこし待ってて」リーダーはそう言うと、ジャケットの前ボタンをいちど留め、すこし戸惑ってから、もういちど外し、レフトスタンドのほうへとあるいて行った。


「どうしたんスか?」ベンチにいたヒカルが、わたしのところに来て訊いた。わたしはふたたび、バットでレフトスタンドを指し示した。


「あ、」ヒカルがおおきな声を出しそうになったので、わたしは、あいつの口をかるく押さえた。


 リーダーが、彼女のところにたどり着くまでの時間は、せいぜい3~4分といったところであっただろうが、歩き出しては立ち止まる彼の背中を眺めながらわたしは、その時間を、数十分のようにも、数時間のようにも、感じていた。


     *


 目を覚ましたドクターのまえに、信じられない人物が立っていた。“裂け目”に飲み込まれ、存在ごと消されてしまったはずの、ローリー・A・ウィリアムズである。「ローリー?! どうしてここにいる?!」


 じつは、サイバーマンに襲われたアメリアを救ったのは、ローマ兵としてよみがえった、このウィリアムズ少年であった。


「分からない。記憶が曖昧なんだ」と、ローリー。「いちど死んで、気付いたらローマ人。わけがわからないよ」“裂け目”に飲み込まれたところまでは憶えているが、その先はまったく記憶にないのだと言う。


『これはまったくの予想外だ』と、ドクター。『ひょっとすると何者かが裏で――』そうやって思考を続けようとするが、ここで、パンドリカの本格的に開き始める音が聞こえ、その思考は、一旦、停止させられることになる。


 そうして、さらにわるいことには、例の宇宙船団――ドクターを敵対視するあらゆる種族のエイリアンたち――も、いよいよ、この地に到着し出したのであった。


     *


 それから10分ほどがして、リーダーは戻って来たが、キクチ嬢は、レフトスタンドにすわったままであった。


「いいんですか?」そう訊いたのは、バッターボックスに立つわたしではなく、キャッチャーすがたの、シラタニ・タクマであった。が、そんな彼にリーダーは、「レガースがゆるんでいるぞ」そう応えるだけであった。


 そうしてそれから、ひと呼吸置かれてから、試合は再開された。


 再開後の第一球は、わたしの苦手な、外角低めストレートであった。


 はたして、シラタニ・タクマに、どこまでの考えがあったのかは不明だが、キクチ嬢のことで気を取られていたわたしは、ついつい、これに手を出し、


 カン。


 と、レフトスタンドはもちろん、センター方向ですらない、平凡なライトフライを、上げてしまうのであった。


     *


「ストーンヘンジにお集まりの皆さん!」宙に浮かぶ大船団に向かい、ドクターは語りかける。「パンドリカを征するものが、宇宙を征する?」その口調は、すこしいらだち、たいへん、挑発的なものであった。「だが、わるい報せがあるぞ」そうして、「あいては、この僕だ」まずは、自分の話を聞け、と。


「問題。パンドリカを見つけたのは?」彼は続ける。「こたえは、僕。じゃあ、二問目。それを奪おうとするのはだれだ?」この自分と、やり合うつもりなのか? と。


「作戦も、援軍も、たいした武器も持ってない」それがドクターで、「おまけに、失うものまでまるでないと来てる」


 それに比べるとお前たちは、武器も作戦も、バカでかい宇宙船もあって、そうして、パンドリカを奪おうとしている。が、しかし、それでも、「その暴挙に立ちはだかるのは、僕だ」


 これまで、幾度となく、お前たち異星人から、この地球をまもって来た、この、ドクターだ。


「想い出したら! いますぐ、バカなことを止めて」ほんとうに、やり合うつもりか?! 「まずは……、僕に任せろ」


 すると、このスピーチを聞いた異星人たちは、しばらくの沈黙のあと、いっせいに一時的撤退をはじめた。


「30分は議論してるだろう」とドクター。


 時間稼ぎは出来た。いまはとにかく、パンドリカが開かないようにすることが、最優先事項なのである。


     *


 わたしのライトフライのあとも、我々 《ホワイト・アディポーズ》は、4番がウソのような内野ゴロを、5番が冗談のような見送り三振を演じてしまい、結局その回を、ゼロ点で終わらせることになった。


 そうして、攻守入れ替ってサードに向かおうとしていたわたしは、いっそこのままレフトスタンドにまで行ってしまおうか、そんなことを考えてもいたのだが、しかしそこで、守備にはいる他のメンバーと目が合ってしまい、結局、つぎの攻撃を待つことにするのだった。


     *


「ぼくに気が付かない? どうしてぼくが分からない?」ローマ兵姿のウィリアムズ少年はショックを受けていた。


 愛しいアメリアが、かれのことを、かれの存在そのものを、忘れてしまっていたからである。


 未来のある時点でおおきな爆発が起き、それによりつくり出された“裂け目”が、すべての歴史を狂わせている。が、しかし、


「ぼくに会いに来たと想ったのに、おぼえてもいないなんて」そう嘆く少年に、「なにをグダグダ言っている」とドクターも言うとおり、「宇宙は、途方もなくひろく複雑で、不条理で、ときには、たまにだが、あり得ないことも起きる」希望は、ゼロではないハズだ。「それが、奇跡と呼ばれる出来事だよ」


 たしかに。現に少年はここにいて、問題のアメリアも、われ知れずのうちにだが、彼との再会に、よろこびの涙をながしているではないか。


 そう。あたまでは忘れてしまっていたとしても、彼女のこころや魂といったものは、いまだに彼を、しっかりと、おぼえているではないか。


     *


 それから結局、紅組 《レッド・フェズ》の攻撃も、平凡な外野フライひとつと、どうでもいいような内野ゴロふたつで終わった。


 守備を終えたわたしは、その足でレフトスタンドの前まで行くと、フェンス越しの彼女に、声を掛けた。


 わたしは先ず、先ほどの自分のライトフライを、自嘲気味に弁解した。なんだか今日は、調子が悪いのだ、と。


 すると彼女は、すこし、ほほ笑もうとして、だけれどすぐに、そのほほ笑みを消すかのように、きゅっ。と口をつぐむと、いっしゅんの間を置いてから、「なんだかきょうは、さむいしね」と、申しわけなさそうに言った。


 次にわたしは、今日もライトを守ってくれないか? と訊ねた。打順のほうは、さっき5番が三振をしたばかりなので、しばらくかかるだろうが、それでも、あなたがいてくれると、こころづよい、とも。


 すると彼女は、こんどは確かにほほ笑んでくれてから、それでも、「ごめんね」と、ちいさな声で答えてくれた。「きょうはちょっと、無理そうなんだ」


「かぜでも引いたのですか?」そうわたしが続けると、ちょっとの間のあと彼女は、ちいさなかぶりを振った。


「ひかるが心配だと言っていた」わたしも、ちいさなウソを吐いた。「ほかのメンバーも気にしているようだ」ふたたび、彼女がかぶりを振った。


 わたしは、リーダーとケンカでもしたのか? と訊ねた。もしそうなら、わたしが間にはいってもよい、と。


 わたしの母と叔母も仲が悪いが、荻窪の叔父が、なんだかんだと仲を取りなそうとしている。


 なかなおりの仕方ならば、その叔父から聞いて、よく知っている。


 そんな時は、いっしょに美味しいものを食べるのがよいのだ。


 まっ赤なリンゴや、魚のフライや、甘く黄色いカスタードクリームや。


 そうすればきっと、きっとふたりも、きっと以前のように――、


「ごめんね、カシくん」つよい口調で、彼女が言った。「お願いだから、ほうっておいてちょうだい」


 それからわたしは、そのあとの30秒ほどを、彼女のあたまのあたりを、見るともなしに眺めていたのだが、ババ・ダイスケの打ったファウルボールの音で、われに帰らされた。


 気が変わったら、5番を打ってほしい。


 そう、彼女に伝えた。


 彼女はこんどは、かぶりすら振らなかった。


     *


「ウィリアムズ……? ローリー・ウィリアムズね。どうして忘れてたのかしら」


 いっぽう、ドクターの指示でターディスへと乗り込んだソング博士は、いまは何故か、西暦2010年のイングランド、そこにあるアメリアの実家を訪れていた。


 ターディスが突然、博士の指示を無視して、彼女をここへと連れて来たのである。


 アメリアの家は荒らされ、何者かが侵入した形跡があった。


 そうして、そこで博士は、おどろくべき事実に、気付くことになる。


 アメリアの部屋には、古代ローマの絵本と、あるギリシャ神話について書かれた、一冊の本が置かれていたのだが、そこに描かれている古代のローマ兵や 《パンドラの箱》が、西暦102年で彼らが見ているローマ兵や 《パンドリカ》に、うりふたつだったのである。


「アメリアの残留思念を探ったな」博士からの連絡を受け、ドクターが言った。「それを再現したってわけか」――では、ここにいるローマ兵は? 「3D映像か、コピー人間だろう」


「きっと、これは罠だわ」と、ソング博士。ドクターに近づこうとした何者かが、アメリアの記憶を利用したのであろう。「でもどうして? 誰がなんのためにそんなことを?」


 ドォン!


 と、ここで突然、ドクターとソング博士が、そのことに気付いた直後、博士の乗るターディスは乗っ取られ、制御不能に陥ってしまう。


「リバー? リバー? どうした? なにが起きた?!」


 また、これとほぼ同じタイミングで、地下空洞のパンドリカが開き、ローマ兵たちも、その本来のすがたを見せるのであった。


 彼らの名は、“オートン”。意志を持たないプラスチック。“ネスティーン意識体”と呼ばれる異星人に動かされる、生きたあやつり人形、生命の複製品である。


「いいから逃げるんだ! ここから出来るだけ遠くに行け!」そう叫んだのは、ローマ兵姿のウィリアムズ少年であった。「でなきゃ、君を殺してしまう」


 そう。それはつまり、愛しいアメリアとの再会を果たした彼も、他のローマ兵と同じく、本物の彼のコピー、贋作、フェイク、まがい物であることを示していた。


「行くんだ、アメリア! 逃げるんだ!!」


     *


 グラウンドの片すみに暗闇が現われはじめ、ライト役の最年少者が平凡なフライを落としはじめるころ、「きょうはもう、終わりにしよう」そう、リーダーは言った。


 西のむこうのひのひかりは、いまだ明るさをたもってはいたものの、帰宅を告げるあのメロディーが、このグラウンドにも、しずかに、届きはじめていたからである。


 このとき、塁上にランナーはおらず、ゲームは7回裏の同点2アウト、バッターボックスに立つわたしは、2ストライクの3ボールにまで、追い込まれていた。


 が、しかしそれでもわたしは、せめて最後までやらせてもらえないか? と、審判役のリーダー、それに、その下でミットを構えるシラタニ・タクマ、に訊いた。時間なら、まだあるではないか?


「きょうは、引き分けだよ」ふだんよりすこし突き放した口調で、リーダーは答えた。


「ホームランでも打つつもりか?」いつもよりすこしふざけた口調で、シラタニ・タクマが続けた。


 わたしは、やってみなければ分からない。と、かれの顔を見つめながら言った。


 それから、4秒ほどの沈黙があって、とつぜんリーダーが、「わかったよ」と言った。「なら、つぎが最後だぞ」彼は、夕方の音楽の終わるのを、じっと待ってたようすであった。


 すると、この言葉にシラタニ・タクマは、すこしだけいやな顔をして見せたのだが、それでもすぐに構えを直すと、マウンド上のピッチャーに向け、手早くサインを送った。


「ホームランでも打つつもりか?」いつもより、すこしだけ真剣な口調で、シラタニ・タクマは言った。


 わたしは、参加初日のキクチ・カナ嬢が見せた、みごとなランニングホームランを、想い出していた。


 かのじょはまだ、レフトスタンドの中でうずくまったままのようである。


 ピッチャーがモーションに入り、シラタニ・タクマの、足の位置を変える音が聞こえた。


 彼の指示はきっと、わたしの苦手な外角低めにちがいない。


 ボールが、いやにはっきりと見えた。


 バットを、想い切り振った。


 ボールが、バットにあたる瞬間、


 かのじょのところにまで届いて欲しい。


 そんなことを、想った。


 が、これが失敗だった。


 カキ。


 という微妙な音がして、ボールは、ライトとセンターの中間ほどに上がって行った。


 よけいな力が入ってしまった。


 ライトに流せばよかった。


 そんな風に想いながらもわたしは、一塁に向けて走り出していた。


 現われはじめた暗闇のせいだろう、ボールは、ライトとセンターの数メートルうしろに落ちた。


 転がり続ける白球を、ライトとセンターが同時に追いかけ、グラウンド内の誰もが、「これなら三塁打にはなるな」と想ったつぎの瞬間、わたしは――キクチ嬢のあのショートブーツをを想い出しながら――セカンドベースを蹴っていた。


 サードベースが見えた。


 ボールを拾ったのは、ライト役の方らしい。


 大丈夫だ。


 ホームを狙える。


 サードベースを蹴った。


 センターからの送球に、二塁手が中継にはいる声が聞こえた。


 ポスッ。


 という音とともに振り向いた彼が、ホームのシラタニ・タクマめがけてボールを投げる。


 わたしは、その気配と、シラタニ・タクマが半身に構えるようすを同時に感じながら、ホームベースめがけ、精一杯のスライディングを――、


「アウトだよ」というリーダーの声が、これに応えた。「ごめんな。がんばったな、マコト」



(続く)

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