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僕の真ん中に君がいる

作者: 織吾




うちの下宿人は変人だ。


何が変かって、うーん、

もうとにかく変!


一日中ずっと、2階の下宿の部屋に篭りきりで、

しょっちゅう、何やら怪しい物音を立てているらしい。


朝昼の食事に顔を出すこともないようだ。


これは、この下宿の大家である、私のおばあちゃんの証言。


古民家やら民宿というと聞こえは良いが、言ってしまえば昭和のオンボロアパート。

6畳ほどの部屋に、たった一人の下宿人は・・・


変人。



「千紗ちゃんおかえり」


「ただいまおばあちゃん」


仕事を終え、私はおばあちゃんのアパートに帰宅した。

私はこのアパートの第三の住人だ。


大家、下宿人、そして私。

大家の孫娘だから、住人というよりは同居人という括りかもしれない。


「女の子が遅くまでよう働いて。偉いねえ」


「今時は普通だよ。疲れはするけどね」


「お腹もすいただろう?さ、居間においで」


「うん!」


下宿人

「千紗」


「あ」

下宿人

「千紗、おかえり」


「・・・ただいま」

下宿人

「今日もよく働いて偉いなあ」


「いや、あんたは働きなよ!」

下宿人

「ん~、そう?」



変人の下宿人。



「弦ちゃん、千紗ちゃんの分のご飯よそうの手伝ってくれないかね」


「はい、大家さん」



(朝昼は出てこないくせに、なぜか夕飯はいつも顔を出すんだよね、この人)



おばあちゃんに呼ばれて台所にふらりと消えていった、長身の男。

私はその後ろ姿をジロリと睨んだ。


弦一郎。

謎の男。


もう長いこと住む人がおらず、高齢の祖母が畳もうかと言っていたこのアパートに、突然下宿人が住み始めたのは半年ほど前のことだ。


素性もろくに分からないらしい。

なのに、おばあちゃんはすんなりその不審な男を下宿人として迎えたという。


流石に高齢のおばあさんとその男の二人暮らしは心配だということで、

電車で一駅の街で働いていた孫の私が、ここに住むことになった。

それが3ヶ月ほど前のことだ。


『家賃も今ではちゃんと遅れず払ってくれるし、重たいもの運ぶのとか高いところのもの取るのを手伝ってくれて助かるのよ』なんて・・・。


おばあちゃんはそう言って下宿人を擁護し、大層気に入っていた。

事実、下宿人が住み始めてからおばあちゃんは前よりもずっと生き生きと楽しそうにしていた。


数年前におじいちゃんが亡くなってから、年々小さくなっているように見えた肩。

今はその腕に割烹着を通して、はきはきと炊事をしている。


だから私たちは、怪しい男が下宿しているというだけで、彼を追い出すことが難しくなっていたのだ。



(まあ、正直言って私はここに住む方が一人暮らしより楽だし、おばあちゃんのご飯美味しいし、不満はないんだけど)



一汁三菜きれいに並んだ食卓につき、手を合わせながら考えていた。



「千紗」



「・・・いただきます」



「ねー千紗、今日の大家さんのご飯、美味しいよ。

この椎茸と蓮根が入っているおかず」



「筑前煮ね」



「ちくぜんに・・・筑前って何?」



「何っていうか、地名でしょ」



「筑前っていう地名?どこの・・・」



「どっかの昔の地名!ねぇ、それ私に聞かなくても調べた方が早いよ?」



「でも、千紗も教えてくれた」



「あたしはあんたの検索エンジンじゃあありません!」



下宿人、弦一郎。

私はこの男が気に入らない。

なんというか鬱陶しい。


こいつはやっぱり日本人じゃないんじゃないか?と思うほどに、

何かと色々なものについて聞いてくる。


こうやって強く言っても、どこ吹く風といった態度で、今だって何か鼻歌でも歌いながら肘をついて、私を見ていた。



「あたし、ご飯食べてるのよ。お分かり?あんたはおばあちゃんと先に食べたでしょ?」

「もう夜遅いんだから静かに食べさせてくれる?」


「ん~」



わかったんだかわかってないんだか、曖昧な返事をした弦一郎は、口は閉じたものの私を見つめることはやめなかった。


もう私は諦めて、この男を無視して食事を再開した。



食事を終えた後、食器を下げて洗うのを弦一郎が引き受けてくれた。

もう11時を過ぎている。

おばあちゃんは朝が早いため、先に寝てしまっていることが多い。

弦一郎が後片付けをしている間に私はお風呂に入れるので、その点については助かっている。



お風呂から出てパジャマに着替えた後、冷蔵庫に水を取りにきた。

すると、居間で待っていたらしい弦一郎が私に声をかけてきた。



「千紗、千紗。今日は・・・する?」


「はぁ?何を?」


こんな時間に、やけに低い掠れたトーンでそう言われて、肩が跳ねる。


いやいや、落ち着け。ただの弦一郎だから!!


「これ。一緒に見よ?」


渡してきたのは、テレビのリモコンだった。


「・・・・・・・」


「何?」


「いつも千紗が見てるやつ、一緒に見ようよ」


いつも見てるやつ、とは。

私が深夜にここで一人で見ている、録画した連続ドラマのことだろう。


「・・・なんで知ってるのよ」


「ん~?面白いよね、俺も続きが気になってて」


「だからなんで、あたしが夜中にドラマを見てること知ってるのよっ」


夜だから小声で。

でも弦一郎は要領を得ない言葉でまともに答えようとしない。


「はあ・・・わかった。でも別に、一緒に見るわけじゃないから。

あたしが見ているのをあんたが勝手にみてるだけだから」


「うん、そうしよう、ね?」


「・・・はあ」


もう言及するのに疲れたので、私は諦めて録画をつけた。


真っ暗な部屋で、煌々と光るテレビ画面に集中する私と弦一郎。

二人して体操座りで、なんだか側から見るとおかしな光景だ。


ドラマの映像が流れ出す。

オープニングはいつも飛ばさず見ている。今回もそのまま見ることにする。


軽快な音楽が耳に心地よい。

けれども、苦々しい気持ちになって、ちらりと肩越しに隣を見る。


謎の下宿人弦一郎。


ボサボサの黒髪は一つに結べそうなほどの長さになっていて、いつも表情はほとんどこれに隠れて見えない。

変なTシャツばかり集めて着ている。

シャツから伸びる手足は細身だが長い。背丈は、隣に立つと優に私の頭2つ分ほどは高い。


ほとんど外に出ないからだろうか、テレビの光に照らされた肌は一層生白く見える。


こんなヒョロヒョロした男、私の趣味じゃない。

けれど・・・。


「いい曲だね、千紗が好きな曲なんだったよね」


「・・・・・」


この男、私の推しアーティストと名前が被っている。

まさにこの曲を歌っている男性歌手だ。


見た目は似ても似つかないくせに。

私の「ゲンさま」とは・・・。



「そうでもないわよっ」



弦一郎が得意げに笑っているように思えて、なぜか無性に悔しくなって、私は歌の続きを聞かずに早送りのボタンを押した。



~~~~



「・・・ただいまー・・・」


誰も聞こえないくらいの音量で、そうっと私は帰宅した。


もう少ししたら日付が変わるような時間だからだ。


「・・はあ・・」


今日はついていない。

仕事で凡ミスをして、それを上司にしつこく叱られた。


新卒からもう5年ほど勤めている会社だ。

けれど、最近変わったこの上司は、自分の機嫌次第で態度を変えてくるので、私には合わなかった。


ミスは自分が悪いけど、それを30分も同じように怒鳴られ続けるのは道理が合わない。


一旦そう思ってしまうと、自分の性格上、黙っていることができないのだ。


(くそ上司くそ上司くそ上司・・・)


案の定、言い返したことでさらに説教が長引いてしまい、腹いせの事務仕事を押し付けられ、こんな時間になってしまった。


きっと黙って説教を聞き流し、適当に誤っていたらもっと早く帰れただろう。

でも自分にはそれができないのだ。


「あ・・」


居間の電気がついている。

この時間、おばあちゃんは確実に寝ているはずだ。


そうなると、そこにいるのは・・・。


「千紗、おかえり」


「・・・ただいま」


なんでこんな時間に居間に降りてるのよ、というトゲトゲしい目つきをしてしまった。

けれど、いつも通りというか、弦一郎は一向に気にした様子がない。


そう、こいつは私がどんなに塩対応でも、気を悪くしたりしない。

態度に出さないのだ。


「・・・お風呂」


「はぁい」


そういうところが、いつもはスカしてるからムカつくんだけど、

今日みたいな日はありがたかった。


「・・・ふう」


私はお風呂から上がり、パジャマ姿で台所に戻ってきた。

今日は、いつもより少し熱めになっていたお湯が気持ちよかった。

先ほどよりいくらか落ち着いた気持ちで、私は台所にラップされている夕食を温めた。


弦一郎は、というと。


「♪」


ちゃぶ台の、私の座る場所の向かいに座って、何か雑誌を読んでいた。


邪魔だから上に行けば?といつもなら言う私だが、特に話しかけても来ないので、邪魔という口実が使えない。


とりあえず、放置して黙々と私は箸をすすめる。


「ご馳走様」


「食器、洗うよ」


「ん、ありがと」


やけに殊勝だなぁ、と若干不審に思う。

いつもはおばあちゃんに言われてから手伝うのに。


断る理由はないのでそのまま私は弦一郎の申し出を受け、流れでテレビのリモコンを取った。


居間と、台所の豆電球しか点いていない、薄暗い夜中のアパート。

カチャカチャ、と食器を洗う音だけがやけに響く。


ここで起きているのは、私と弦一郎の二人だけだ。

そう、二人きり・・・


「・・・・・・」


なんとなく居心地が悪くなる。

きっと静かすぎるからだ。


私はリモコンでテレビをつけ、おばあちゃんを起こさないように音量を極力下げた。

ビデオデッキの電源を入れ、録画しておいたドラマを準備する。


「千紗、終わったよ」


「ん」


「見るの?」


「うん」


それを聞くと、弦一郎は今度は私の隣ーーテレビが見やすい位置ーーに腰を下ろした。


本当は一人で見たいけど、追い払う理由が思いつかない。

それに、なぜか毎週この晩は、弦一郎が居間にいて、このドラマを二人で見ることになっていた。

いつの間にかそうなっていた。


「え・・今日最終回だっけ」


推しのゲンさま主演・主題歌担当の恋愛ドラマ。

先週はヒロインとゲン様の心がすれ違ってしまい、ライバルの男に抱き寄せられたところで終わっていた。


おそらくちゃんとゲン様を選んで大団円になるはずだ。

けれど、ゲン様を見るのがここ最近唯一の癒しだった私は、始まる前からゲン様ロスになりつつあった。


「どうしたの?」


「最終回だから、来週からゲン様の主題歌聴けないの。あーあ」


「ああ、そっかぁ」


それから私たちはドラマを見ることに集中した。


・・・・・

・・・

・・



「終わっちゃったよ・・・」


「面白かったよ」


「そうだけどさ、あーあ、来週からゲン様なしの金曜日かよー」


「あ、千紗」


「ん?」


二人で二階への階段を登って、それぞれの部屋に前まで来たとき、弦一郎が不意に声をかけた。


ほんの数秒自室に引っ込んだかと思ったら、すぐに戻ってきた。


「これ」


「何?」


(カセットテープ?)


ラベルには何も書いていないから、自分で何かを録音したものだろう。

こんな太古の遺物、どうしろと。


「えっと・・・俺が歌った曲が録音してあるんだ。聴いてみて」


「あんたがあ?」


テープと弦一郎を交互に見る。

珍しいことに、奴はしきりに照れていた。

あまり見たことのない顔だった。


自作の歌のプレゼントってこと?

確かに、多くの男性にとっては黒歴史となりうる危険な遺物だ。

いつもは太々しいあの弦一郎が気恥ずかしさを感じるのも、まぁ分かる。


「聴くと、まぁまぁ楽しくなれるかも」


そこまで聞いて、はた、とその意図に気づく。



「待って、これってゲン様の曲の代わりってこと?」


「うん」


「あんたゲン様なめてんのっ!?」


「おやすみぃ!」


あくまでもボリュームは下げて、私はさらに非難しようとしたが、弦一郎はそれをさらりと交わして自室の扉を閉めてしまった。


「・・・なーにが、うん、よ。

作詞作曲歌唱に演技もできるゲン様と同列にしちゃってさ」


でもまぁ、多分だけど。

多少は励ましてくれる目的だったのかもね。


全然代わりにも足しにもならないとは思うけど。

まぁ、しょうがないから、受け取るだけ受け取ってあげるわよ。


誰にともなくそう言い訳して、私も自室の扉を静かに閉めた。


~~~~



次の日の夜、私は自室に眠っていたラジカセを引っ張り出してきた。

おばあちゃんが譲ってくれたものだ。

この家は何かと昭和から時が止まったものが多く、黒電話や、ビデオデッキや、石油ストーブなどがまだ現役なのだ。


その年季の入ったラジカセに、

私は弦一郎のカセットをセットし、曲を再生してみた。


「・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「・・は?」

「何語?」


アコースティックギターの弾き語りで紡がれるその歌は、

アハーンだのハハーンだのハミングしながら、

肝心の歌詞は日本語ではない謎の言語だった。


その上、だ。

その上、弦一郎の歌声が、やけにイケボなのが余計に腹が立つ。


「・・・やっぱり、変なやつ・・・」


腹が立つので、テープが終わった後巻き戻し、最初からかけっぱなしにして私はそのまま眠りについた。


なぜかその日はよく眠れた気がした。


~~~~~~~~~~



初夏に差し掛かろうかという季節になってきた。

桜は散って、街路樹はすっかり新緑ばかり。


少し暑い日も増えてきた、ある朝。


「おばあちゃん、風邪ひいたの、具合どう?」


「少し体がだるいだけだよ、ありがとう千紗ちゃん」


腰をトントン、と叩いておばあちゃんは笑う。

けれどもう80を超える高齢のおばあちゃんだ。ただの風邪でも大事になる可能性がある。


「風邪でも油断しちゃダメだよ。今日は横になってて」

「夕食も今日は久しぶりに、駅ナカのデリで買って帰ってくるよ、だから早めに寝ていてね」


「ありがとうね」


「ううん、ついてあげれなくてごめんね」


「大家さんは俺がみているから大丈夫」


「ほんとだよ、こういう時こそ引きこもりの有用性を見せてよね」


「任せなさい」


(嫌味言ったんだけど)


いつも通りヘラヘラ笑いながら、弦一郎はおばあちゃんと共に私を見送った。


「行ってきます」

~~~~



・・・本当は。


今日一日くらい、仕事を休んでおばあちゃんの看病をすることだってできた。

それを、弦一郎に任せて私は出勤している。


ずるいよね、本当。

こういう時にそばにいるために、私はあのアパートに住んでいるというのに。


そのモヤモヤとした感覚は、この後嫌な予感として的中してしまった。


~~~~


昼休憩が終わった頃、外線で電話が回ってきた。

オフィスでは私用の携帯は使用できないため、こうやって勤務先の電話番号に社員へ連絡が来るようになっていた。


母からだった。


「え・・!?おばあちゃんが!?」

『そうなの、倒れたらしいのよ。危険な状態ではないみたいだけど、脱水も起こしていて入院することになったの』


「そ・・・」


目の前が暗くなる。

私が。私が有休を取って見ていれば・・・。



『仕方がないわよ、あの歳になると、ちょっと免疫が下がっただけで急に悪くなることがあるのよ』


『あんたのせいじゃないから気にしないで』


『お母さん、今から新幹線で病院に向かうから、切るわね。

お母さんが行くから、あんたはそのまま仕事に戻りなさいね』


そう言ってそのまま電話はきれた。


母は、関西で働いていて、新幹線で2時間ほどの距離だった。

今から見舞いに行って付き添ったとして、一泊して帰るのだろう。


私は・・・一緒に住んでいるくせに、何もできなかった。

いや、何もしなかっただけだ。


悔しさに涙がにじむ。

声を上げないように唇を噛みしめながら、私は早退のメールを無心で打った。


~~~~


母が伝えてくれた祖母の入院先の病院は、職場から5駅離れた総合病院だった。

ここは集中治療室もあるから安心らしい。


気が急くのを抑えながら、私は退勤後病院へ向かった。

道中、頭に色んなぐちゃぐちゃの感情が駆け巡る。


おばあちゃんは本当に大丈夫なんだろうか。

すぐ退院できるのだろうか。手術などすることになったらどうしよう。


おばあちゃんがこのまま長期入院することになったら。

・・・あのアパートはどうなる?


自分と、弦一郎の二人きりになってしまう。


一人暮らし並みの家事くらいならできるが、アパートの管理など素人の私にできるのだろうか。

現実的ではないから、やっぱり弦一郎を追い出すことになるのか?


それは・・・できない。

考えはそこで停止したまま先に進まなかった。


「おばあちゃんっ!!」


「千紗ちゃん?」


おばあちゃんの病室の扉を勢いよく開けると、今朝より少し青ざめた顔のおばあちゃんが、ベッドに座っていた。


最悪の事態を頭に描いていた私は、とりあえずほっとする。


「こんな早い時間に来てくれるなんて。お仕事は大丈夫なん?」


「早退して来たよ。ごめんね、体が辛い時にそばにいれなくて・・・」


「いいんだよ、げんちゃんがいてくれたからね」


見ると、ベッドの横のパイプ椅子に見慣れたバッグが置いてった。

母のものだ。


母は少し前に着いて、おばあちゃんの様子を確認した後、今はお医者さんに詳細を聞きに行っているらしい。


「ごめんねぇ、心配かけて」


「何言ってるの、私のせいなんだから」


「千紗ちゃんのせいなもんか。おばあちゃんが自分の体調を見誤っちまっただけさ」

「げんちゃんも、水分を摂ってと何度も言ってくれたのにねぇ」


「そういえば弦一郎は?」


「私が倒れた時すぐに救急車を呼んでくれてね。美津子が来るまで病室で付き添ってくれていたよ」


美津子とは、私の母のこと。


「じゃあ、まだ病院にいるのか」


「いや、美津子が来る直前に帰ったみたいだねぇ」


「そうなの?」


「窓から」


「窓から?」


おばあちゃんの目線の先にある、病室の窓を見る。

ここは3階だ。


「いや、無理でしょ」


「無理だよねえ。私も頭がぼうっとしていたし、見間違いかな」


「見間違いね。おばあちゃん、横になっててね」


それから私は、母が戻ってくるまでおばあちゃんと話をした。

体調が十分回復するまではしばらく入院すること。

その間のアパートの管理をどうするか。

そして母が戻ってから、おばあちゃんのお見舞いについても話し合い、方針をまとめた。





・・・そうして、私は一人、アパートに帰ってきた。


「弦一郎。いるんでしょ?居間に集合」


下宿人の部屋の前で、私は努めていつも以上に横柄に聞こえるように呼びかけた。


部屋の扉の向こうから、アコースティックギターの音色がわずかに聴こえていた。

私がそう呼びかけると、ギターの音が止み、うん、と返事が返ってきた。


~~~



「来たよ」


「異存がなければ」


弦一郎が降りてきたのを確認すると、私は即座に本題に入った。


「私が大家よ。文句は言わせないわ」


「ありませんとも、ええ」


「ヘラヘラしないでよ、あたしは大家なのよ。家賃滞納したら許さないからね」


「はい、大家さん。あ、でも」


「何?」


「千紗が大家さんでも、千紗って呼んでもいい?」


「千紗の方が好きなんだ」


「は?」

「・・・・」

「ま、好きに呼べばいいわよ。それくらい」


「うん」


(び・・っくりした・・)


一体何の話だと、一瞬混乱して脳が停止してしまった。

呼び方の好き嫌いか。そうか。全く、紛らわしい。

これだから弦一郎は。



「もう異論はないわね?解散するわよ。

ちなみに今日の夕飯は、さっき買ってきた駅中の弁当だから」


「わぁい」


「ただ今週のご飯は、各自準備だからね。来週からは外注の作り置きになるから」


「千紗の分も俺が準備した方が、健康的な生活が送れるような・・・」


「なんか言った?文句ある?」


「ないでーす」


「・・・・・」


弦一郎は、不自然なほどいつも通りの態度で、のらりくらりと私に軽口を言う。


『げんちゃんがね、すぐ救急車を呼んで、この病院をすぐ指示してくれたんですって』


『倒れたときの応急処置も適切で、だから大事にならなくて済んだかもねって先生も仰ってて』


おばあちゃんが突然意識を失って倒れるまで、弦一郎はずっとおばあちゃんに付いて様子を見ていてくれたという。


『大家さんは俺がみているから大丈夫』


(本当に、ちゃんと見ていてくれたんだ)


いつも発言が軽口みたいで、態度もどこか掴みどころがない感じだから、不真面目で頼り甲斐がないやつだと。

ずっとそう決めつけていたけれど、それは改めなければいけない間違いだったみたい。


「弦一郎」


「ん?」


「・・・ありがとうね」


「何が?」


「おばあちゃんのこと。私が・・・見られなかったくせに、こんなに態度大きいのって、おかしいよね」


「本当は、感謝してるから・・・・」


おばあちゃんに何かあったら、私はどうなっていただろう。

きっと、ろくに世話もせずに仕事にかまけた自分を責めただろう。


それを、弦一郎のおかげで踏み止まれた。

それは確かに事実だった。


「弦一郎はちゃんと見ててくれた。それなのに私は・・・」

「私、何もできないくせにおばあちゃんの心配する言葉だけかけたりしてさ」

「本当、最低だよね。たち悪い」


「・・・・・」


自嘲気味に吐き捨てると、弦一郎は初めて表情を崩した。

酷く、悲しげな顔。


「千紗、それは違うよ。そんなふうに言わないで」


「何よ、私が私のことをどう言おうと勝手じゃないの」


「千紗が、大家さんのことを大切に思うように、」


「俺も千紗が、大切なんだよ」


「だから、そんなふうに君が君を傷つけるのは、俺は悲しい」


「な・・な・・・」

「・・・・・・っ」


(何で、そんな顔で、そんなこと言うのよ・・・っ)


私が言葉に詰まってしまうと、やけに静かになってしまった。

この詫びしい古いアパートに二人、居間に突っ立ったまま。


本当はわかっていた。

弦一郎が正しい。

今更自分を卑下しても罵倒しても、何も変わらないし、

そんなものは、「違うよ」って言って欲しいだけの酷く利己的で子どもっぽい言動だから。


それを弦一郎に指摘されるのが、悔しい。

いや、悔しいのか、嬉しいのか、よくわからない。

一つの事実は、弦一郎は優しいということだった。


「・・・・・わかった。もう言わない。行動で示すから」


「うん、そのほうが実に千紗らしい」


「ゴホン。そ、そういえばさあ!あんたが渡してきたカセットテープ!」


気恥ずかしくなって、私は無理やり話題を変えた。

先月あたりにもらった、自作曲が録音されたカセットテープのこと、前から聞きたかったし。

すると何故か弦一郎を肩をこわばらせた。


「え・・・」


「あれ、何語なの?アハーンとかハハーンとか言ったり、謎の言葉が聞こえたり、意味わからなかったんだけど」


「き、聴いたの?」


「ん?ま、まぁ一通りだけね」


本当は、落ち込んだ時のBGMとして何度か聴いていたけど、それは黙っておいた。


「そっか・・・」


「・・・?」


「特に、意味は・・・な、ないよ?」


弦一郎が照れている。

ギクシャクとしきりに照れている。

こんな顔も珍しい。


(自作曲が、よっぽど恥ずかしいのか・・・。なら、なぜくれたんだろ)

(ほんと、変なやつ)


不思議。

ついさっきまで絶望した気持ちだったのに、いつの間にか気持ちがほぐれてしまっている。


癪だけど、ここは素直に感謝しておこうと思う。

・・・心の中で、だけど。


~~~~~



翌日から、おばあちゃんのいない二人のアパート暮らしが始まった。

食パンをレンチンしただけのものを口に詰め込み、牛乳で流し込んで家を出る。


「行ってきます!」


「いってらっしゃーい」


フレックスでいつもより時間を一時間早めているため、少しだけ空いている電車に乗る。


タイムスケジュールはこうだ。

午前中に一度途中で離業して、病院へ面会に行くことにしている。


また、一時間早く終業し、パソコンを持ち出して残りはリモートワークに切り替える。

ギリギリ間に合う面会時間でもう一度おばあちゃんの病院に寄り、そのまま帰宅する。


「はあ・・・はあ・・ただいま・・・」


「おかえり、千紗大丈夫?」


「まぁね、思ったよりハードかな・・・」


弦一郎は、朝見た格好のまま玄関で出迎えに来た。

いつものことだ。


「朝と夜以外の時間に千紗を見るのって、なんか不思議だね」


「あんたと違って、日中働いてますからね」

「夕飯食べたら部屋で仕事の続きするから」


「うん、ガンバって」


夕食は、駅で買ってきたお弁当。

一応弦一郎の分もある。


二人で黙々と食べると、私はすぐ2階の自室に上がった。


~~~~


「・・・よし、退勤」


パソコンをログアウトし、私は伸びをした。


時計は23時を指している。軽くシャワーを浴びて寝てしまおう。


ふと気になって、弦一郎の部屋の扉の前で立ち止まった。


(まぁ、こいつの生活は全く変わってないだろうけど)


何やら、ガチャガチャ、ジュー、と機械を組み立てるような音がしている。


(ほんっとにこいつ、いつも何してるんだか)


呆れつつ、私はシャワーを浴びに階段を降りた。

~~~


次の日も、同じように一時間早く家を出て、駅まで走る。

朝食は駅のコンビニで買ったプロテインバー。


朝夕の面会をこなし、昨日と同じ時間に帰宅した。


「ただいま・・・」


「おかえり、千紗」


「あのさ」


「何よ、夕食の文句なら今週いっぱい我慢しなさいよね

外注さん来るまでは」


言いながら、私は買ってきたコンビニ弁当を弦一郎に押し付けた。


「いや、そうじゃなくて」


「じゃあ何?」


「千紗、無理してるから」


「してない」


「面会は1日1回でもいいんじゃない?俺が口出すことじゃないかもしれないけど」


「その通りよ。あんたに心配してもらうことじゃないから」


(私は何もできなかった。だから今度こそ、自分が納得する様にやる)


「無理してたら千紗が体壊すよ?」


「他人に心配してもらわなくて結構よ。身内の問題だから」


「冷たいなぁ」


「黙って食べて」


ひどい言い方をしてるのはわかってる。

でも、むしろ突き放して、私を無視してくれる方が良いからそうしている。


もう弦一郎に頼りたくなかった。

これ以上頼ったら、また頼ってしまいたくなるから。


~~~


次の日の朝。

目覚ましで無理やり体を起こす。


昨日より体が重たい。

昨晩は日付が変わるまで在宅勤務で残業をしてしまったからかもしれない。


(でも、キリが良いところまで終われたから、きっと今日は楽なはず)


今日も朝食を用意する時間はないから、コンビニで買おう。

~~


「・・・え?」


台所に降りてみると、テーブルの上にあたたかいハムサンドトーストが置いてあった。

もう一人分のお皿とコップは、食べ終わったらしく、既に洗って流しの布巾の上に置いてある。


「・・・弦一郎?」


疑問形になったけど、この家には今、二人しかいないのだから答えは明白だ。


「こんなこと、頼んでないのに」

「・・・・・・」


文句を言いに行く時間も惜しいから、と言い訳して、私はハムサンドトーストに口をつけた。

普通に美味しい。

美味しいし、あたたかい朝食は久しぶりな気がした。


食べ終わり、食器を流しに置こうとして、皿の下にメモが挟んであることに気がついた。


『ーーー午前中の面会は俺が行く。他人なんだから、俺をこき使えば良いよ。ね、大家さん?ーーー』


初めてみたけど、これが弦一郎の筆跡なのだろう。サインペンの細字で、ゆっくり書きすぎているのか、所々線がふるえている。


「・・・・・・」


「なにこれ、カッコつけちゃって」


頼るんじゃなくて、こき使っていることにすれば。

そうすれば、私の気持ちがいくらか整理できると思っているらしい。


見透かされてるみたいで、ムカついた。

今日帰ったら、文句を言ってやらなくちゃ。


そう決心して玄関から踏み出した足取りは、昨日よりいくらか軽く感じた。

~~~



退社後に病院に向かい、おばあちゃんの病室の扉を開けた。

初日とは違い、病室は昨日から2階の4人部屋に移っている。


とはいえ、他の患者とはカーテンで仕切られていて、私はまだ見たことがない。

テレビをつける人もいないみたいで、とても静かだった。


おばあちゃんは、顔色は変わらないものの、明るい表情で出迎えてくれた。


「千紗ちゃん、来てくれてありがとうね。今日、午前はげんちゃんが来たのよ」


「うん、私が行けなくてごめんね。勝手に自分が行くって言い出したのよ」


「ふふ、倒れたきり話せていなかったから、ちょうどよかったわよ」

「急に管理人が変わってしまって、げんちゃんには迷惑をかけているしね」


「・・・そうね」


「うふふ、げんちゃんたらね、おかしいの」

「窓から入ってきたんだもの。びっくりしちゃったわ」


「は?窓から?」


「ええ、この窓からね。なんでも、誰にも見つかっちゃいけないルールなんですって」


おかしいこと言うわよね、とおばあちゃんはコロコロ笑った。


「あいつがおかしいのは普通のことだよ」

~~~~



夜。帰宅後、いつも通りに弦一郎は玄関で私を出迎えた。

いつも通りのくだらない掛け合いを済ませて、夕食をとり、私はお風呂に入った。


そういえば、ここ数日シャワーにしていたけど、お風呂はいつも沸いていた。

うちのお風呂は自動追い焚きじゃなく蛇口で温度調節するタイプで、放っておくと冷めてしまう。


けど、いつも適温にされていた気がする。

今日もそうだった。

今日は、ゆっくり浸かる。


弦一郎が午前中面会に行ったことで、離業することなく仕事を続けることができ、今日は持ち帰りの残業がなくなったから。


お風呂から上がり、2階への階段を登ると、共有スペースのベランダに弦一郎の影が見えた。


何か、肩でリズムをとって鼻歌を歌っているようだ。


(ほんと、歌が好きなんだな、こいつは)


自分で歌った自作曲を他人に渡すくらいだし。うん、きっと歌は好きなんだろう。


他には?好きなもの。ハムサンドは人の分も余分に作るくらいだから、好きだろう。


人にお節介を焼くのも好きなのか。

こんな愛想もなく可愛げのないことしか言わない女にも、世話を焼くくらいだから。


変なやつ。

変なやつだけど、これからしばらく二人で暮らす以上、お互いのことを知っておかないといけないだろう。


何か困ったときに、弦一郎のことを何も知らないままだったら、困ることもあるだろう。

そうなったら迷惑なのはこっちだし。

だから知りたい。


弦一郎のことを、知りたい。


私がベランダに出ると、足音で気づいたのか、弦一郎の肩の動きが止まった。

彼が振り返る前に、私は早口でその背中に


「・・ありがとう」


それだけ言って、自分の部屋に逃げ帰った。


~~~~~



それから数週間。

本格的に夏の暑さが訪れていた。


おばあちゃんはというと、大分元気と体力を取り戻してきていた。

病院に行くのは一日2回から1回になった。


午前の1回、次の日は午後に1回と、

私と弦一郎で交互におばあちゃんのお見舞いに行く日々を続けていた。


猛暑日が続く中で古アパートに帰っても、また体調が悪くなるかもしれないと、おばあちゃんの入院は長引いていたが、

体調は安定している。

しかも、相部屋の患者さんたちと仲良くなったので、帰りたくないわぁなんて言う時もあった。


呆れつつも、おばあちゃんが気落ちせずに入院生活を送れていることにほっとしている私だった。


ただし、問題はこっちだ。


「一緒に暮らしていたおばあさん、入院されているって聞きましたけど・・・」


「はは、でも体調はよくなってきているみたいなんです」


「よかったですね!あ、でも・・退院されるまでは、お一人で広いアパートの管理して、大変ですね」


「そ、そうなんですよ、でも外注の作り置きとかお掃除を契約して凌いでますし、一人暮らしみたいな感じですよ」


「一人暮らしですかぁ、なるほど」


(・・・・・・)


絶対、バレたくない。

独身女が下宿人の男と二人で住んでるなんて、会社にも近所にもバレたくない・・・!


幸い、引っ越した時に下宿人の存在は伏せていたため、管理人のおばあさんのアパートに二人暮らし、ということで会社や友人には通していた。


近所の家は、弦一郎がほとんど外出していないため、どこまで勘付かれているか不明だが、今のところ変な噂は聞こえてきていない。


(でも、あいつも今は週3回は病院に行ってるんだから、流石に近所の誰かには見られてるかもなー)


そもそも弦一郎が下宿してから半年以上経っているわけだから、いくら引きこもりがちだからと言って、誰も知らないってことはないのかも。


(変な噂になる前に、おばあちゃんに戻ってきてもらわないとなぁ)


若干憂鬱な気持ちで、私は帰路についた。


「・・・ただいま」


「おかえり、千紗。どうしたの、小声で」


ご近所に聞かれないようによ!とは言わず、私は無視してすぐ玄関の扉を閉めた。


弦一郎が作り置きの夕食を温めている間、私は先にお風呂に入る。

その後一緒に夕食を食べる。


残業がある日は、私はその後自室で在宅ワークをする。

ない日は、居間でしばらくテレビを見たり、付けたまま見ずにのんびり過ごす。


居間にいるとき、その横には、いつも弦一郎がいた。

最初は鬱陶しかったけれど、一人で薄暗い居間にいるよりは、賑やかしにいた方が幾らかはマシ、と思うようにしている。


「もうすぐ月末だからね、家賃忘れずに払いなさいよ」


「抜かりなく。封筒に入れて渡すよ」


「そ、ならいいけど。

・・・前から不思議だったんだけど、どうやってお金用意してるの?」


まさか、株?デイトレーダー?

ミューチューバー?


この風体から一ミリも想像できないけど。


「んー?ああ、内職かなぁ」


「内職!?あの、紙の花とか折るやつ?」


「いや、アマチュアが色んなサービスを有償で引き受けるサイトに登録してて、オンラインでできる依頼をこなして報酬もらってるよ」


「い、意外と現代的な稼ぎ方してるじゃん・・・」


「家賃が格安だからこの生活できてるんだけどね」


「ふーん」


ずっと引きこもって遊んでるだけだと思ってたけど、ちゃんと弦一郎なりに仕事をしていたのか。


なんて柄にもなく感心していると、弦一郎がこちらを注視しているのに気づいた。


「何?」


「千紗が、俺のこと知りたがるなんて珍しいなと思って」


「べ、別に知りたがってなんていないわよ!安定した収入源があるか、大家として確認しただけです」


「知りたいことがあるなら、千紗になら、いくらでも教えてあげるよ?」


「だから違うって言ってるでしょーが!」


声を上げると、弦一郎はクスクス喉を転がして、機嫌よく鼻歌を歌う。


「・・・じゃあ聞くけど、そのダサいTシャツは何なの?何枚持ってんの?」


「えっ、・・・かっこいいでしょ?漢字ってさ」


「いや、完全にネタものの文字ばっかりじゃん!!ふざけてなかったら逆に何なのか怖いわ!」


「だ、ダサいの?」


「これをかっこいいと思ってるなら、日本のお土産にこういうの買う外国人よりセンスひどいよ」


「ちゃんとした格好すれば、あんただってそれなりにーー」

「・・・・・・・・」


「それなりに?」


「なんでもない!寝る」


「えっ?」


「お、や、す、み!」


ぽかんとしている弦一郎を置いて、私は無理やり会話を終了し、寝室に引っ込んだ。


~~~~~



その日の夕方は、もう日が長くなってきていて、私が家に着いた時はまだ日が沈む前だった。

玄関の前に、知らない女の人が立っていた。


夕日の照り返しで染まったその姿は、体のラインが出るようなぴったりしたワンピースドレスの淑女のような美人を縁取っている。


年は同じくらいか少し上のようだけど、洗練された佇まいからか、別世界の人のように思えた。


(・・・・誰?)


自分の知り合いではない。とすると、おばあちゃんか、あるいは・・・。


女性は私に気づくと、声をかけてきたーーーー


~~~~~~



「千紗、おかえり。

あれ、どうかしたの?」


「・・・・・・」


私が玄関で靴も脱がずに突っ立っているところを、台所から弦一郎が出てきてそう言った。


「・・・あんた、家族いたんだ」


「千紗?」


「馬鹿じゃないの!?帰るところがあるなら、とっとと帰りなさいよ!!」

「あんたを可哀想だと思ってここに置いてた、おばあちゃんの気持ちを利用してたの?」

「あんたが下宿してると、あたしたちにも迷惑なのよ!」


「いやだ」


「帰れるんでしょ?帰りなさいよ!!」


「いやだ」

「千紗はここにしかいないから」


「っ!?」


何が起こったのか、わからなかった。


目の前に弦一郎のクソダサいTシャツの文字がある。

彼の胸に顔を押し付けられている。


つまり、

抱きしめられている・・・

どうして?


「は、離して!!」


「千紗!」


我にかえった私は、胸を思い切り押して、弦一郎の腕を振りほどいた。

そしてそのまま玄関の外に飛び出した。


~~~~


無茶苦茶に走ってから、息が切れて一度立ち止まり、呼吸を整える。

近くの公園まで来ていたようだ。

自販機で水を買い、半分ほど流し込んで、もう一度深呼吸をした。


「はあ・・・はあ・・・」

「・・・・・・・・・」

「・・・なんなのよ、馬鹿・・馬鹿引きこもりもやし男・・・」


一度に色々と起こりすぎて、感情がぐちゃぐちゃだ。

未だにうるさく主張する心拍音は、全て全力疾走のせいだと思いたかった。


私は、携帯を取り出し、病院に電話をかけた。


ギリギリまだ通話可能な時間帯だったため、看護師さんはおばあちゃんを共有電話のところに呼んでくれた。


『あらあら千紗ちゃん、どうしたっていうの?』


「おばあちゃん、あのね、あいつ・・・」

「あいつ、弦一郎、奥さんがいたみたい」


『ええ?』


私はおばあちゃんに、先ほどの邂逅について聞かせた。


美しい女性は、私に『この男性の妻です。ここにご厄介になっていると聞いて、訪ねてきたのですが』と打ち明けた。


この、と差し出された写真は、ちゃんと髪が整っていて顔がはっきりと分かるものだったが、特徴は完全に弦一郎と一致していた。


チャイムを鳴らしても出てこないから、留守だと思い、戻ってきたら連絡してほしい、とメモを私に渡したのだった。


私は・・・あまりのことに、『こいつならいつも部屋にいるので、呼んできます』とも言えず、黙ってそのメモを受け取った。

そして、会釈して去るその女性をただ見送ったのだった。


『本当に、奥さんだったのかい?』


「写真を持っていたし、そうだと思う。あいつはおばあちゃんを騙してたんだよ」

「最低だよね。家族を置いて、自分だけ好きなところに住んで、好き勝手暮らしてるなんて」


言いながら、私は声が震え始めていることに気づいた。

どうして、こんなに胸が苦しいのか。

裏切られたのはおばあちゃんと、弦一郎の奥さんなのに。

私って、何の関係もないでしょう?


『・・・千紗ちゃん、あのね。

おばあちゃんにも、げんちゃんがここに来る前までどうしていたのか、知らないんだよ』


けれどね、とおばあちゃんは宥めるような声色で続けた。


『げんちゃんと初めて会った時、あの子は本当に、何の感情もない顔をしていたんだ』

『うつろな目をしていて、言葉も不自由で、捨て犬みたいなひどい格好だった』


「・・・・・・」


『最初はおばあちゃん、ホームレスか浮浪者か、と思ったんだけどね。

なんだか言葉も片言で、可哀想になっちまって、うちに泊めたんだ』

『言葉を教えて意思疎通ができるようになって、アパートに住まわせたんだけど、会話は必要最低限のことだけだった』

『自分のことは、ほとんど何も話してはくれなかったんよ』


もちろん、恩があるから、手伝いをしたりして好意的ではあったけど、とおばあちゃんは続ける。


『げんちゃんが今みたいにひょうきんで、人懐っこい子になったのは、

千紗、あんたが来てからなんだよ』


「え・・?だって、私と初めて会ったときからあいつ・・・」


『そうだろう?つい前日まで陰鬱で無口だった子が、

あんな調子で嬉しそうに話し出すもんだから、おばあちゃんびっくりしちまったよ』


『だからね、おばあちゃんは何も聞かずに下宿させることを決めたんだから、騙されてたわけじゃあない』

『千紗ちゃんに大家を今は任せているからね、二人でどうするか決めるんだよ』


そこでちょうど、看護師さんの通話終了ですという声が聞こえた。


~~~~


おばあちゃんとの通話を終えて、私はすっかり暗くなった夜道を戻っていた。


ボロアパートには明かりがついている。

弦一郎は、まだいるみたい。


弦一郎。謎の下宿人。

引きこもりの変人。

奥さんを放っておいて遊んでいたかもしれない疑惑の男。


そんなやつだけど、

だけどこいつは、私を、

私を絶対に


「おかえり、千紗」


ーーーー 一人にはしない。


「・・・・・・」


「さっきのこと、怒ってる?」


「怒ってないと思ってるの?」


「う・・・」


(怒ってないけど)


「冗談よ。ただびっくりしただけ。

あんたもそうでしょ、反射的に」

「事情もよく確かめずに、カッとなってあんなこと言って悪かったわ」


「違うよ」


「え?」


「俺は、反射的にじゃない」


しん、と二人の間にある空気が張り詰める。

私は弦一郎に確かめなければいけないことが、二つあった。


一つは、弦一郎の妻と名乗る女性との関係。

もう一つは、私を抱き寄せた意味。


聞く準備、答える準備が出来ているかと言えば、全然出来ていないけど。


「・・・ごめん、困らせて」


「・・困らせてる自覚があるなら、説明しなさいよ。あの女のことから」


「うん」


私たちは、ひとまず夕食を取って入浴を済ませてから続きを話し合うことにした。


夕食はどちらも無言で黙々と食べ終え、私がお風呂から上がったところで、

互いに向かい合って居間のちゃぶ台に座った。


「まず、僕の妻と名乗って訪ねてきた女の人のことだけど」


「・・・」


「俺には家族がいない。当然妻もいないから、その人は俺の身内じゃない」


「多分、俺が前働いていた研究施設の社員の一人だと思う」


「あんた、まっとうに働いてたことがあったんだ・・」


「驚くの、そこ?」


あの綺麗な人は、弦一郎の奥さんではなかった。

それを聞いただけで、ほっとしている自分がいた。


「でも、前の会社の人がわざわざ偽って連れ戻しに来るなんて、あんた円満退社じゃなかったってこと?なにしたの?」


「それは、俺にはなんとも。

一つ確かなのは、俺はそこにはもう戻るつもりがないってこと」


「・・・そう」


ほら、また安心してる。

弦一郎はここを出て行かないって。


なんて馬鹿なんだろう、私は。

ボロアパートの下宿人なんて、普通に考えて、永遠に続けていく訳ないじゃない。


なのに、弦一郎は今はまだここにいるって、そう言ってくれただけで、こんなにも嬉しいなんて。


「確かに俺には、帰る場所はあった。

それを大家さんにも、千紗にも伝えていなかったことは謝るよ」


「けれど、俺は千紗のもとにいたい。

千紗が好きだから」


「・・・・っ」


ボサボサの髪に隠れた瞳は見えないけど、まっすぐに私を見つめていることが分かる。


言葉を急かすように、心臓が煩く耳まで響いてくる。

けれど、私にはまだこの感情を説明する言葉が探し出せていない。


「けれど、想いを返して欲しいわけじゃない」

「もちろん、同じ気持ちならこれ以上嬉しいことはないけど、俺はただ、千紗が好き」

「千紗が好きで・・君と過ごす時間が好きで、君を近くで見ているのが好きなんだ」


「だから、千紗のいるこの家にいたい」

「でも、自分に好意を寄せている男と一緒に住むのが気持ち悪いなら・・俺は出ていくよ」

「俺は千紗を困らせたいわけじゃないから」


「・・・・・・」


弦一郎から贈られた言葉が、気持ちが、次々に押し寄せてくる。

返さなくてもいいなんて、なんて私に都合の良い、耳障りのいい言葉だろうか。


「な、なんか、喉渇いたね。水を持ってくるよ」


弦一郎は立ち上がって、台所のほうに体を向けた。


私は、その長いクソダサTシャツの裾を掴んだ。


「千紗?」


「出ていかないで。ここにいて」


カラカラの喉から、掠れた声でそう絞り出した。


「正直、言って・・・あんたのことが好きかなんて、考えたことなかったし、わからない」

「だけど、私はあんたとここで暮らすのがいいの」


弦一郎が好きかなんて、そんなの知らない。

けれど、弦一郎がここを出ていく、そのタイミングが何度かあったにも関わらず、

今まで私はそれを選ばなかった。


私は、弦一郎にここにいて欲しい。その気持ちだけは確かだった。


「大家のいうことが、聞けないなんて言わないわよね?」


「・・・・」


「あははは、うん。大家さん。もちろん君に従うよ」


そう言うと、弦一郎はクスクスと笑った。

そして私の手を引いて隣に座り直した。


「なに笑ってんのよ・・」


「君が俺のことを好きだって言ったから」


「はぁ!? そんなこと言った覚えはないけど!」


「そうだったかな?」


「うるさいうるさい! もういいから出てけー!!」


「嫌だね。だってここにいてっていうのが、大家さんの御命令だから」


「それは今の話じゃないっ!」



こうして私たちは一緒に暮らし続けることにした。

・・のだけど、正直、私は後悔していた。


なんでこんな奴を、好き、になってしまったのか。

本当に謎すぎる。






翌朝。

今日は土曜日だった。

私はいつもより少し遅く起きて、台所に降りてきた。

すると、弦一郎がいた。



(いつも引きこもってるくせに、会うのが気まずい時に限って早起きするなよ!)


「千紗、おはよう」


「・・おはよう」


「ねぇ、千紗。何食べたい?」


「・・・・」


「千紗?」


「・・・・・・」


「ねぇ、大家さーん、無視しないでくれよ」


「・・・」


「千紗ー」


「うっさいな!! なによ!」


「やっと反応してくれた」

「・・・なんか千紗が冷たい気がする」


「はぁ?いつも通りでしょ」


「俺は、千紗にもっと優しくして欲しいな」


「は?」


「だって、俺のこと好きなんでしょ?」


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


「え? 違うのかい?」


「ちっ・・・違う、というか、なんというか」


ゴニョゴニョと言い淀んでいると、弦一郎が私の隣に来て肩を並べた。


「なら、いいじゃないか」


「よくないし・・」


「どうして?」


「どうしても何も、あんたが私を好きで、私がそれを受け入れてるなら、それでいいじゃない」


「でも、俺は千紗が好きだから、千紗にも俺を好きになって欲しい」


「・・・っ!返さなくていいって言ってたじゃん!」


「それはそうだけど、一度伝えてしまったら、愛さずにはいられないんだ」


「あ・・な、なんて?」


絶句。

こいつ、本当に弦一郎なの?あまりにも人が変わっている。

今時恋愛小説でもこんな砂を吐きそうなセリフ使わないわよ!


「だから、あいーーー」


「いい!繰り返さなくていいから!!」


「そう?・・・うん、やっぱり千紗はそのままでもいいかも。俺に塩対応なところ、結構好きだから」


(あたしが塩じゃないとバランスが崩壊するわよ・・・)


「千紗って、照れたり焦ったりするとそんな顔するんだ」


「・・・・・・」


「可愛いね」


「・・・・・・・・・・・・・・うるさい」


妙に塩気が恋しくなって、私はベーコンチーズトーストを作ることにした。

けれど、悲しいことに味はほとんどわからなかった。



〜〜〜〜〜


猛暑が過ぎ、そろそろ夜が涼しくなってきた頃。

すっかり、私と弦一郎は二人での暮らしに慣れてきていた。


おばあちゃんの見舞いも毎日交代で行っていて、今日の午後は私の番だった。


その時聞いたら、来月には退院してアパートに戻りましょう、とお医者さんも言ってくれた。


おばあちゃんが、帰ってくる!

そしたらおかえり記念パーティをしよう、飾り付けはあんたがやりなさいよ、どうせ暇なんだから。

そんな話を弦一郎にしようと決めて、私は帰路についていた。



「ただいま、弦一郎」


玄関からアパートの中に入って呼びかけるが、返事がない。


いつもはこの時間、居間にいるのに。


(またなんか篭っておもちゃいじってるのかな?)


夕食の時間でも、その後でも、話す機会はいくらでもある。

私はそのまま2階の自室に向かい、部屋の扉を開けた。


・・・・・


部屋の扉を開けると、女が立っていた。


「〜〜〜〜っ!?!?!?!?」


「な、何、だ、誰!?」


「勝手に入って、来て、何してるのあなた!?」


「わたくしは、弦一郎さんの妻です」


「つ・・!?」


自分の部屋に知らない女がいたショックで取り乱していたが、落ち着いてよくよく見ると、先日弦一郎の写真を持って訪ねてきた女性だった。


何度訪ねても弦一郎が応答しないから、強行手段に出たというのだろうか。


それにしたって、不法侵入だろう。

未だ驚きと恐怖で言葉が出てこない私に、女は容赦なく話を続ける。


「弦一郎さんは、放浪ももう十分だと言っています。だから今からわたくしが、家に連れ帰ります」

「この度はご迷惑をおかけしました」


口調は丁寧だが、有無を言わせない強烈な圧力を、声の調子や身体中から感じる。


「・・・・・・・・・」


女が言っていることが本当なら、止める理由は何もなかった。

彼女の取っている行動が非常識なのは確かだが。


「・・・あれ、それは・・・」


ふと、女が手にしているものが目に入った。

あれは、弦一郎がくれた自作曲のカセットテープだ。


確か、ラジカセの横の引き出しにしまっていたはずなのに。


「あの、それ・・・」


「彼、弦一郎さんから受け取ったものは、全てこちらで持ち帰らせていただきます」


「な・・っ!?そ、それであたしの部屋に勝手に入って、物色してたの!?」


「ぶしつけとは思いましたが、急を要しますので。ご容赦を」


「ご容赦って、あんた・・・」


もう一歩間違えば強盗でしょ、これ。

女はあくまでも徹底して冷静に、確認します、とそのカセットテープをレコーダーにセットし、再生ボタンを押した。

私はそれをイライラしながら見守った。


弾き語りのアコースティックギターの旋律が始まり、しばらくして、弦一郎のハミングが乗る。

そして、いつもの意味不明な言葉の歌詞。


「!?」


今まで全く変わらなかった、女の顔色が変わった。

彼女はレコーダーに両手でかじりついて、テープの音声を聞いている。


(何なの・・?)


歌が進むにつれ、女は青ざめ、目は大きく見開かれていく。


「何なの・・っ!?」


「!?いった・・っ!」


「あなた、彼の何なの!?こんな歌、どうして彼があなたに!?」


「はあ!?何、言ってるのよ・・っ」


女が突然チサに掴みかかってきて、物凄い形相で問い詰めてくる。

訳がわからない。


「ありえないわ、こんなもの・・・」

「あっては、ならない・・・!」


女は、震える手でカセットテープをラジカセから取り出した。

そして、腕を振りかぶり、床に叩きつけようとしていた。


「!!」


「やめて!!!!」


「離しなさい!」


「やめてよ!あたしにとっては大事なものなの!!」

「カセットテープも、弦一郎も!!」


女の腕に必死にしがみ付いて、その手からカセットテープを取り返そうと、私は女と揉み合う。


恐怖心もあったが、何より、これ以上勝手に色んなものを踏み荒らされるのに我慢ならなかった。


「あたしから奪っていくというなら、容赦しないわよ!!」


「・・・そうなれば、あなたごと、処分する必要があります」


「やれるもんならやってみなさいよ!!」


女は、私に向かって、掴まれていない方の腕を振り上げた。

私はとっさに目を瞑る。


「〜〜〜〜っ!!』


「悪いけどそれは御免被る」


「・・・・・・」

「・・・・あれ?」


身構えていた衝撃はなく、捕まえていたはずの腕がいつの間にか消えていた。


足元に、カセットテープだけが落ちていた。

女は、どこにもいない。


「な・・・どういう、こと?」


「千紗、怪我はない?」


「弦一郎?」


「わ、大丈夫?」


「う、うん、ちょっと腰が抜けただけ・・・」


がくん、と膝の力が抜けてしまいバランスを崩したところを、弦一郎が抱きとめて支えてくれた。


「・・・震えてる」

「はは…」


本当は怖かった。今になって、手足が震えてきた。

弦一郎はそんな私の頭を撫でて、額にキスをした。


「!?」


「大丈夫、もう怖くないよ」


そう言って、弦一郎は私を支えながらベッドまで運び、並んでそこに腰を下ろした。


「さっきの人だけど、もう二度と会うことともないから」


「どういうこと?あのひと、どこ行ったの?」


「俺が、追い出して扉を閉じたから、いなくなったよ」


「?」


「俺が元いた世界に帰して、もう扉を閉じたからここには来れなくなった」


「元いた、世界?」


「うん。俺とあの女は、別の世界から来た人間なんだ」




弦一郎は、別の世界の人間。

頭で反芻するが、全然理解できない。


「それって、外国…ってわけじゃないんだよね?」


「うん。俺は、別世界で生きてた人間だよ」


「えーっと……」


つまり、弦一郎は外国人じゃなくて、日本人でもなくて、そもそも地球人でもなく、違うところから来た。


「全然わからないんだけど」


「だろうね。簡単に言うと、俺は千紗のいるこの世界と、似ているようで違う、ここの世界のSFサイエンス・フィクション用語で言うと、並行世界が近いかな…そこで生まれ、育った人間だ」


「そこには、魔法という概念があって、俺はその力を利用して、この世界と行き来できる扉を発明した」


「・・・」


「その扉を開けて俺は1人でこの世界に来て、大家さんに拾ってもらえて、ここに住み始めた」


「この世界のことを研究して、その成果を元の世界に持ち帰ること。それが俺のいわゆるお仕事だったんだ」


「まあ、信じてもらえなくてもいい。実際、こうして話してても、頭がおかしい奴だって思われるだけだし」


「・・・」


「ただ、これだけはわかってほしい」


「この世界に来て、千紗に会えて、本当に良かったと思ってる」


「千紗がいなかったら、今の俺はいないから」


「・・・」


「だから、ありがとう」


そう言って微笑む彼の笑顔に、胸がぎゅっとなる。


「あんたは、そうしたら、元の世界に・・・帰っちゃうの?」


自分で言ってみて、驚くほど頼りなく小さい声だった。

弦一郎は、まだ私の肩に回して支えていた腕に、ぎゅうと力を込めた。

ほとんど抱きしめられるような体勢で、息がかかりそうなほど近くで、弦一郎は私を見つめる。


「帰らないよ。ここに残る」


「どうして?」


「この世界に、千紗がいるから」


それは、いつだったか聞いた言葉だった。


『千紗はここにしかいないから』


「・・・」


「俺の中心は千紗、君だ。だから、離れることなんかできないよ」

「千紗がいないと、意味がない」


「どうして・・」

「ねえ、どうして?あたし、あんたにいつも冷たくて、愛想もないし」

「あたしの方が・・いつも、助けられてばかりで」

「どうして、そこまでして、あたしのそばにいてくれるの?故郷に帰らないで、残るなんて言えるの?」


言いながら、目尻が潤んできて、鼻がツンとしてくる。

それを必死で食い止めながら、私は弦一郎の言葉を待った。


「確かに、故郷が恋しい気持ちもあった。でも今はもう帰る気はないよ」


弦一郎の、前髪の奥にいつも隠れている瞳。

この近さだと見ることができた。穏やかで、優しい褐色の瞳だった。


「この世界に来たばかりの頃、俺は孤独だった。研究のためにここに来て、ずっと寂しくて帰りたかった」

「寂しくても、俺は誰かと関係を持つことは許されていなかったから」

「この世界の誰かではない俺が、この世界に深く関わってはいけないんだよ」


それがルールなんだ、と弦一郎は続けた。


「けれど、千紗に会って変わった。ルールなんて、どうでも良くなった。

ただ単純に、千紗を好きになって、千紗のいるこの世界が好きになった」

「俺は、そんな単純な理由で、自分の世界の全てを捨てても構わないと思った」

「千紗が好きだから」


「・・・」


「千紗が、好きだからだよ」


弦一郎は、何度も言った。最後の方は祈りのように。


「千紗が、好きなんだ」


そして、もう言葉では足りないと言うように、私の額に唇を落とした。

私は、やめてよ、と拒絶することも、何するの、と怒ることもしなかった。

自分のちっぽけな虚勢を忘れてしまうほど、多幸感でいっぱいになってしまった。


「千紗」


鼻先に、目尻に。次々に降りてくるキスを、私は黙って受け入れる。


「千紗、千紗。全部あげるって言って」

「俺に、千紗を全部あげるって。今すぐ、一個残らず、ちょうだい」


「・・・想いを返さなくていいって、言ったくせに?」


いたずらっぽくそう言って、このまま流されてやるのも癪だ、と最後の抵抗を試みる。


「言ったけど、やっぱり目の前にあると欲しくなっちゃった」


「受け取ったって答えるだけじゃダメなの?」


「うん・・・」


弦一郎は、自信なさげに囁いた。

抱きしめて、キスをして、こんな近くで見つめ合っているくせに、何でそんな顔をするのか。

私が素直に答えるわけないって、知ってるからなのか。


「・・・今すぐ全部あげるわけないでしょう、馬鹿ね」


「う・・」


「あたしをあげるのは、あんたを全部もらってからよ。何もかも全部話してもらうから」


そして、私は弦一郎の首に思い切り抱きついた。


「わ・・!?」


弾みでバランスを崩しそうになり、弦一郎は慌てて片方の手をベッドについて、体制を立て直す。


「全部聞いてから、そしたら」


「今度はあんたが、何もかも全部聞いて。あたしがどれだけ・・・」

「あんたを必要としてるかってこと!」


今度のキスは、唇に。

とっておきの甘い答えに、弦一郎は大いに満足したようだった。






***


「ねえ、そういえば、このテープ一体なんだったの!?

私、殺されかけたのよ、これのせいで」


しばらく余韻に浸った後、目に入った、落ちたままだったカセットテープ。

それを拾い上げて、私は弦一郎を問い詰めた。


「あんた、この物騒なテープに何を吹き込んでたの?財宝の隠し場所?禁断の呪文?」


「・・・い、いや、これは・・・」


「何よ、どう考えたって、ただの浮かれた自作のラブソングの類じゃないでしょう?」


「あのヤバ女、物凄い顔で私を睨んできたんだから」


「いやー・・その」

「本当に、そうなんだ」


「は?」


「ラブソング・・」


「・・・え?」


END




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