4.オルヴェンヌ辺境伯邸
首都から馬車で5日間。やっとオルヴェンヌ辺境伯邸に到着した。ソフィアにとっては、7年ぶりの帰還となる。
首都の華やかさや忙しない賑わいとは違い、領地にある町は活気はあるが平穏で落ち着いている。町から少し離れた場所にある辺境伯邸は広大な敷地に優雅に建っている。
(自然が近くにあるのは、とても安らぐわね)
成人を迎える年頃の令嬢であるソフィアは、婚約破棄を経て、ソフィア·オルヴェンヌのままこの地に戻ってくることになるとは思っていなかったものの、自身が望まぬ結婚をするよりは遥かに良いと思っていた。
(もう、誰かと婚約することはないでしょうね。障害を抱えた女性を迎え入れたい方なんて、なかなかいないでしょうし。この家には、長い間世話になるでしょう)
屋敷に到着すると、執事を筆頭に、この屋敷に仕える者が揃って出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ソフィア様。長い間、お疲れ様でございました。一同、首を長くしてお待ちしておりました。ソフィア様のお顔を拝見できて、嬉しゅうございます」
代表して挨拶をしてくれたのは、執事のセバスチャンだ。ソフィアは話せない代わりに、にっこりと優しく微笑み、頷いた。
「長旅お疲れでしょう。まずはお部屋で休まれてはいかがでしょうか?」
医師の許可を受けて、すぐに出発したため、傷を庇いながらの移動は、体力の消耗が激しかった。ソフィアはセバスチャンからの提案を受け入れた。
ソフィアの婚約破棄と障害によって帰還することについて、先触れを受けていた為、セバスチャンをはじめ、オルヴェンヌ辺境伯邸で仕える者たちは、なにも聞かずとも手際よく準備をしてくれた。
父アドルフは婚約破棄の処理や、首都での残務を終える必要があったため、一緒の帰還ではなく3日ほど遅れて出発となった。
母ジョゼットは、もともと病弱で、自分を産んでしばらくすると寝たきりになり、ソフィアの婚約が決まった後に亡くなっている。
(お母様が、婚約破棄して戻ってきた私の今の姿を見なくて済んだことは、良かったのかもしれない…)
この日は、よほど疲れていたのか、ソフィアはそのまま朝まで寝てしまった。
部屋のドアがノックされた音に気がついた。しかし、返事が出来ないため、返事が難しいことに気がついた。王宮ではエマにも一緒の部屋で過ごしてもらっていたから、出入りの許可を気にしたことがなかったのだ。
(これは、うっかりしてたわ)
ソフィアはベッドからおり、身なりを整えながらドアまで行くと、内側から開けた。
そこにはドアが開いて驚いたエマが立っていた。
「お嬢様!失礼しました。こちらまでお越しいただくことになってしまって…」
(いえ、良いのよ。)
と伝えたいが、とりあえずソフィアはにっこりと優しく微笑んだ。
エマは部屋に入ると、ソフィアの身支度を始めた。
「お嬢様、朝までお休みになられましたが、体調はいかがですか?」
ソフィアは手で◯を作って見せた。
「それは、良かったです。食欲はいかがでしょう?朝食の用意も出来ておりますので、召し上がりますか?」
ソフィアは再び、手で◯を作って見せた。
「お部屋で召し上がりますか?」
これには悩み、首をかしげ、手で✕を作って見せた。
「では、居間にご用意いたしますね!」
今度は手で◯を作って見せた。
「かしこまりました。また呼びに参ります。お待ち下さいませ」
エマとは、YESかNOで会話が出来るように、手を使って意思表示することを考えた。頷いたり首をふるのは喉元の傷が痛むことがあった為だ。エマも順応が早く、なるべくYESかNOで返事できるような質問をしてくれている。
(問題は、私の考えを伝えたい時ね。みんなには今までの行動をベースに生活して欲しい。何か新しい取り組みをするにしても、みんなの時間を割きたくないし、負担は私だけが負うようにしたいのだけれど。)
ソフィアはどこかの誰かと違い自己犠牲の精神が強い。そんな心優しいソフィアのことを家族も使用人も大好きで、とても大切にしてくれている。
居間では朝食が整っており、セバスチャンが待っていた。
「ソフィア様、おはようございます。何かご不便なことがございましたらお申し付けくださいませ」
セバスチャンが椅子をひき、ソフィアは腰かけると、朝食が並んでいる横には、ペンと紙が用意されていた。ソフィアが話を出来るようにしてくれていたのだ。
(ありがたいわ…)
ソフィアが朝食場所に居間を選んだのには訳があった。会話をするためには字を読める人がいないと難しいからだ。この屋敷ではセバスチャンと家庭教師のマドレーヌ、父の専属侍従のフレデリックくらいであろう。
その背景には、屋敷で仕える者が、平民出身が多いことにある。
オルヴェンヌ辺境伯は領地の運営がうまくいっており、資金面では問題はない。決して安い賃金の平民を選んでいる訳ではない。この領地の場所が寒い地であることから、貴族が好まず、町で暮らしているのはほぼ爵位を持たない平民であった。そこで辺境伯は、この町民に手に職をつけることで、平民でも裕福に暮らせるような町づくりを行った。領地には銀山があり、銀細工の職人を育て、銀加工品や銀細工品の商売が盛んである。また、力の弱い女性や子どもには裁縫や編物の技術を身に付けさせた。すると、ある針子が独自の柄を生み出し、オルヴェンヌブランドの服飾品の価値が高騰した。どちらも暖かい屋内で仕事が出来るため、この地に特化した産業となった。これらの商売を目的に、町には各地の商人が出入りしており、民泊事業も行っている。こちらで働くものを育てる意味でも、平民を辺境伯邸で雇っている。その為、辺境伯邸の使用人は若く、執事と専属の侍従·侍女以外は、数年単位で入れ替わっている。
『セバス、ご無沙汰してましたね。元気でおりましたか?食事をしながら、あなたとお話がしたいのです。よろしいかしら?』
セバスチャンは初めての筆談となる。
「はい。ソフィア様。お顔を拝見するのは7年ぶりになりますね。私は元気にしておりましたよ。ソフィア様がお食事の間、こちらにおりますね」
そう言うとセバスチャンはソフィアの側に陣取った。
『お父様もいらっしゃらないし、どうぞ腰かけて?』
では、と、セバスチャンは腰かけた。
『こちらでお勤めのみなさんの手の空く時間はある?ご挨拶をきちんとしたいの』
「それでしたら、昼過ぎにこちらに集まりましょう。お嬢様が首都に行かれ、奥様がお亡くなりになると、主は旦那様しかおられませんでしたから、使用人の数を減らしておりましたが、お嬢様が戻られるにあたり、先日から新しく雇ったものもおります。至らない点も多いかと思いますので、こちらこそ、きちんとご紹介をさせてくださいませ」
『慣れるまでは仕方のないことですよ。知らないお顔も多かったように思うの。7年も離れていたから当然ね』
「長く勤めているのは、私と、フレデリック、料理長のジェルマン、庭師のベルナール、馬の世話係のマクシム、農家のダミアン、畜産のアランでしょうか」
広大な敷地内に、観賞用の庭以外にも、厩舎と、不作や非常対策の為の畑、染料用の草花の畑、羊毛用の羊牧場も管理している。
『専門のお仕事は入れ換えるのは難しいものね』
「はい。それに、それぞれ1人でやってるわけではありません。部下がきちんとおります」
『それぞれの長が長く居てくれてるのね。ところで、マドレーヌは?』
「マドレーヌは専属家庭教師として所属はしております。ですがソフィア様が皇太子妃教育の為こちらを離れてからは、この屋敷での仕事がありませんでしたから、町で町民の商業のお手伝いをしております。通訳ですとか」
『なるほど、学ぶ人がいなければ家庭教師としての仕事はないものね。通訳ですか?』
「ええ。書類を持参する商人もいるようで。書類を読むことが出来ない町民の為に、間に入るようです」
『また、こちらに来てもらえるようお願いしても良いのかしら?』
「…?ソフィア様は、貴族教育といいますかむしろそれ以上の教育をしっかり終えられてると思われますが?」
『今は言葉を発することができないわ。私はみんなと、今までのように交流したいの。何か良い案がないか、知識の豊富な人に相談したいの』
「なるほど、かしこまりました。マドレーヌに声をかけます。ソフィア様に会いたがっておりましたから、とんでくると思いますよ」
この日の午後は、この屋敷に仕える者に挨拶した。
簡単な会話であれば、YESかNOでの返事が可能であることも示し、みんな理解してくれた。
(まずは、こんなところかしらね。セバスチャンと筆談すれば、不自由さは今のところないわ。マドレーヌと会うのが楽しみだわ)
こうして、1日が過ぎていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。