◆1/1*AM*12:30
帽子屋が出て行った後のその部屋には静けさが広がっていた。
ただ、時計の針の音と風の吹き込む音だけが微かに聞こえている。
残された女王は先程と変わらず椅子に座ったまま目を伏せ、ただ時計の針が動く音を聞いていた。
「……貴方がここへ来るなんて珍しいわね。…姿を表したらどうかしら?」
女王は唐突に言い放ち、顔を上げ、真っ直ぐ前を見つめた。
数秒の後、女王の見つめる先に猫の耳が現れた。
その耳から徐々に姿を表していき、足の先まで完全に見えてからその青年、チェシャ猫は踊るように身を翻し深くお辞儀をした。
そうしてその状態から顔だけを上げ、女王に言う。
「こんにちは、女王陛下。全く、貴女の目の前では誰も逃れる事は出来ないようですね。」
そう言った後体全体を起こした彼はにこやかに笑った。
「相変わらず礼儀がなっていないけれど…まぁいいわ。それで、私に何を伝えに来たのかしら?まさか貴方に限って談笑しに来た、なんて事ないのでしょう?」
そう言いながら女王は自分の向かい側の席に座るように指して命令した。
それを見たチェシャ猫は女王の向かい側のテーブルに右足と体を乗り出すような形で乗っかった。そうして右手をテーブルにつき、女王と目線を合わせた。
「さすが。…ご名答ですよ、陛下?」
「そんな戯れ事、言いに来た訳ではないのでしょう?早く用件を言ったらどうかしら?」
それを聞いたチェシャ猫は状態を起こし、彼女に背を向け大袈裟に肩をすくめた。
そうして後ろに両手をつき、体を大きくのけ反らした。
そのままの恰好でにんまりと笑った彼の顔は女王に触れないギリギリの距離だった。
「…アリスは、リデルじゃないよ。」
チェシャ猫のその言葉に、女王は目を再び伏せ、椅子の背に寄り掛かった。
「……そうね。時計の、時を刻む音がするもの…」
そう言ってから女王はゆっくりと目を開いた。
「刻まれた時は戻る事を知らない。もう、悪あがきすべきじゃないよ?陛下」
そう言い残したチェシャ猫は瞬きをする間に姿を消していた。
残された女王は手の中にある、時を刻み続ける時計を見つめていた。
「…何を信じるべきだったか、なんて今更ね。最後の最後まで諦めないというのも、滑稽だわ。けれど……」
心地良い風が強く吹き込む。
穏やかな昼下がりの部屋に佇む少女が一人
「望みさえない世界に、生きるのは辛過ぎるわ…」
彼女の頬を一筋の涙が伝った。
そうして暫く経った後、部屋のドアがノックされた。
「陛下、アリスを連れて参りました。」
ドアの向こうから聞こえた声は帽子屋のものだった。
「…入りなさい。」
数秒の後、ギィという音と共にドアが開いた。
現れたのは一人の青年。
少し長めの金髪に空を映したような碧い瞳。
彼はたった一つの希望の光であり、夢の終わりを告げる者。
何を求め
何を成し得、
何を失い
何を迎えるのか…
世界の道筋に従うのなら
彼の訪れは必然か
はたまた、異端のものか…
「…いらっしゃい。『アリス』」
そう呼ばれた彼は躊躇いながらも彼女に近いた。
「……俺が…アリス?」
アリスのその言葉に女王は微笑み、立ち上がった。
そうして彼の前に立ち、ドレスの裾を持ち上げて軽くお辞儀をした。
そうして顔を上げ、祈るように手を組み、歌うような口調で語りかける。
「…噛み合った運命の歯車が、永遠をもたらす事を…」
全ては――
「アリス=リデルの名のもとに。」