◆1/1*AM*10:00
まだ昇り切っていない日の光が木の葉の間を滑るように抜け、地面を照らしている。
その空気はふわりと暖かく、風に揺れる木の葉の擦れる音も気持ちよさそうに聞こえる。
そんな木々の生い茂る場所に、一本の細い小道があった。
道、といえる程整った道ではないが、人が通る場所だという事はおおよそ見当がつく。
そんな小道を、一人の青年が通り抜けた。
彼はトレードマークのような少し大きめのシルクハットを多少目深に被っていて、表情は窺えないが、年齢は大体十代半ばかそれより上に思われる。
正装のようにしっかりと黒い燕尾服を着こなし、その服装で走っている光景はいささか不可解だ。
そうして間もなく、森が終わり、視界が開けた。
そこにはきっちりと整備された庭があり、その奥に堂々と構える大きな城があった。
常人では入ることも憚れるほどの威圧さえあるその空間を悠々と青年は走り抜け、城の扉を開いた。
そうして少し立ち止まり、短く息を整えてからゆっくりと歩きだし、奥にある大きなドアのノブに手をかけ、ゆっくりとそのドアを開いた。
……そこには、薔薇色のドレスに身を包んだ少女が優雅にお茶を楽しんでいた。
大きく放たれた窓からは日が差し込み、心地よい風が彼女の長い金の髪を揺らしていた。
年のころは青年と同じであろうが、彼女からは彼にはない威厳のようなものを伺い知る事ができた。
少女はティーカップから口を離し、反対の手に持っていた懐中時計を眺め、その蓋を閉めた。その音とティーカップを置く音が重なって聞こえる。
ふっ、と一息ついて彼女は部屋に入ってきた青年を、その蒼い瞳で捉えた。
「2分と17秒の遅れね。それより、私の部屋へノックもなしに入るとはどういう事かしら、帽子屋?」
帽子屋と呼ばれた青年は恭しくお辞儀をすると、まっすぐに彼女を見て微笑をこぼしながら話し始めた。
「失礼いたしました、女王陛下。何分急な話で、陛下もお急ぎだと伺っていたので…」
「弁解はいいわ。今回は私にも非があったという事で許してあげましょう。…お掛けなさい。」
失礼します、と短く言った帽子屋は女王の向かい側の席へ腰を下ろした。
「お茶はいかがかしら?生憎、今日はお酒を出せるような内容の話ではないのよ。」
「いえ、結構です。今日はそのつもりで来たので…さっそくですが、本題を伺っても宜しいでしょうか?」
女王は一つ頷くと、短く息を吸い、真剣な顔つきで話始めた。
「…今回のアリスだけれど、どうやら、最後のアリスらしいの。」
その言葉を聞いた帽子屋は思わず息を飲んだ。
「…最後のアリス、ですか?」
「ええそうよ。だから今回のアリスが真のアリスである可能性が高いわ。…ただ……」
そこで言いよどんだ女王を怪訝に思い帽子屋は眉を顰めた。
「…ただ、何かあるのですか?」
その言葉に女王は一度悲しげな表情を見せたが、すぐに目を伏せ、祈るように口許で指を合わせてゆっくりと言葉を紡いだ。
「白ウサギが、今度のアリスを殺そうとしているの…」
帽子屋は少し驚いたような表情を見せたが、全てを理解したように頷き、最初の微笑を浮かべた。
「それで、俺を呼んだ訳ですね。…それで、今回の依頼は?」
その問いかけに女王は目を開いた。
「…よく、分っているじゃない。話が早いわ。――アリスを守ってほしいの。」
「それは、どこまでの域で?」
「――ウサギの、首に代えてでも。」
そこまで聞いて帽子屋は自分の被っている帽子を取り、胸の位置に当て、恭しく頭を垂れた。
少し長い黒髪に整った顔が露わになった。そうして顔を上げ、漆黒の瞳に真っ直ぐと女王の姿を映した。
「仰せのままに、女王陛下。…ところで、今回の報酬は?」
「ええ、これくらいでいかがかしら?」
そう言って女王は帽子屋に小切手を差し出した。
それをざっと眺めた後、帽子屋はにわかに笑みを深め、頷いた。
「貴女様のお望みとあらば、いかなる事でも致します。」