Ⅱ
三日後。
昼飯時に食堂に現れた先日の警官は、
「悪いが、つき合ってくれないか」
すまなそうな顔で、カイを外に呼び出した。
トトを店に預けて向かった警察署でカイを待ち構えていたのは、軍服姿の男たちだった。表情のない目と、鉄板でも入っているかのような背筋が、対峙する者に抗っても無駄だと思わせる。
カイは両手を縛られると、この前の若者たちよりずっと腕の立ちそうなベテラン兵士三人に囲まれ、軍用車に乗せられた。
がたつく埃っぽい道を長時間走った後、無言で降ろされたのは、州のはずれにある軍の西方司令部、いわゆる“基地”だった。
厳重なボディチェックを経て、建物に入る。長い廊下の先にあったドアを、三人のうち最年長とおぼしき兵士がノックした。
「入りたまえ」
無機質な基地内部にそぐわない、贅沢に整えられた部屋。出迎えたのは、カイが以前写真で見たことのある顔だった。
写真と共に得た情報によれば、男は基地の最高責任者。三十代後半という若さで、国の軍事拠点のひとつであるここ西方司令部の司令官に任命された、野心家という噂の大佐だ。
「この基地の責任者だ」
必要以上の情報を与えるべきではないと判断したのだろう。男はそれ以上名乗らず、拘束を解かれたカイに応接セットのソファを勧めると、自分も正面に座った。
無言で壁際に下がった兵士たちは、カイとの距離が開きすぎないようにしているのが見て取れる。
「君は、便利屋だと聞いている」
にこやかに、大佐が口を開いた。整った顔立ちと、年齢の割には白いものの目立つ髪。
「知人の息子を連れての移動中で、数日前からあの街に滞在。旅費ができ次第、出ていく予定だと」
無言で見返すカイの前で、大佐は銀縁眼鏡の縁を触りながら、警察署で兵士が取り上げたパスポートを開く。
「うちの若い連中と、食堂の娘を巡って少々やりあったそうだな。この時期に幼子を連れてわが国に入るとは、酔狂な。ただの職人とも思えんが……まあ、いいだろう」
旅券をカイの膝の上に投げ返した。
「君にひとつ、仕事の依頼をしたい」
カイは微動だにしない。
「この基地の倉庫に、鍵の調子の悪いものがいくつかあってね。それらを修理してほしい。無論、相応の金は払う」
――馬鹿な。
見えすいたやり方に、カイの目が眇められた。
それしきのことで、軍が民間人の手を借りる必要などあるはずがない。
「それと」
しらじらしい口調で大佐は続ける。
「聞けば、君はあそこの住民に、なかなか重宝されているそうじゃないか。どうだね、私に、街の様子を聞かせてくれないか」
眼鏡をかけ直すと、大佐は引き締まった腹の上で、ゆっくり両手の指を組んだ。
「君も知っての通り、あの辺りは反政府活動の中心部だ。ここ数年、やつらは“やまない雨はない”などというスローガンの下、各地で破壊活動を行い、わが国の治安と経済成長の足枷となってきた。とはいえ、市民を相手に、こちらも決定的な手を打つことは控えてきたが……。この度、中央から、そろそろこの問題に片をつけるよう指示があってね」
――『決定的な手を打つことは控えてきた』
カイの脳裏に、これまでに街で目にした光景がよぎる。
倒壊した建物と、埃っぽい穴だらけの道路。ガラスが割られ、商品はおろか備品までことごとく略奪された店舗と、昼でも人気のない街並み。市民を相手に、やりたい放題の兵士たち。
大佐が、カイに向かって両手を広げた。
「今後君には、『鍵の修理』のため、何度かこちらに来てもらう。その際に調査の結果を報告してほしい。わかっているとは思うが、この依頼を拒否した場合、残念ながら君と連れの少年が無傷であの街を出る可能性は、非常に低くなるだろう。この件について他人に話した場合も同様だ」
部屋の中に、空調のかすかな音が響く。
「ああそれから。今回の治安回復作戦の具体的な内容については、君に伝えるわけにはいかないのだが。便宜上、これだけは教えておこう」
不意に男が、卑しい笑みを浮かべた。
「“やまない雨”――それが、この作戦のコードネームだ」
小さく息を吐いて、カイは静かに宿の部屋の扉を開けた。時刻はもう深夜に近い。
二つあるベッドの片方から、小さな人影が起き上がった。
「おかえり、カイ」
「……まだ起きてたのか」
「カイ、どこ行ってたの?」
トトは断りなくカイの荷物を開くと、中から見慣れない袋を取り出した。
「このお金……。みんなが、カイは軍の基地に連れていかれたんじゃないかって」
「ああ」
カイは備え付けのコップに水差しの水を注ぐと、立ったまま一息に飲み干す。
「カイ、軍のスパイになるの?」
「でかい声出すな」
「だめだよカイ、スパイなんて!」
「静かにしろチビ」
「チビじゃない!」
しがみついてきたトトを、カイが片手で床に転がす。
「……金は大事だ。俺たちの目的地は、この街じゃない。金と命がなきゃ、ここを出られない」
「カイ!」
「……もう寝ろ。表で、煙草吸ってくる」
カイのいなくなった暗い部屋の中で、トトは床に手をついたまま、動かずにいた。黒い大きな瞳が、閉じられた扉をじっとみつめていた。
「ねえトト。来週、一緒にお祭りに行かない?」
「お祭り?」
翌日、いつもの食堂で、リェンがトトに話しかけた。
「ちょうど、年に一度のお祭りがあるの。去年はパレードもあってお客さんがいっぱい来たけど、今年はこんなだから……。でも、残ってるお店で、お菓子やゲームの屋台は出すって」
「行く! 行きたい! ねえカイ、いいでしょう?」
テーブル越しに、トトがカイにたずねる。
「……それまでここにいたらな」
いつも通り覇気のない顔でこたえると、カイはうるさそうに前髪をかき上げながら、スプーンを口に運んだ。
やった、とトトとリェンがはしゃぐ。昨日のスパイ騒ぎが嘘のようだ。
だが、普段なら賑わっているはずの昼時の食堂には、リェンの父親とカイたち以外に客の姿がない。リェンや店主夫妻も、どうやらカイの目を正面から見る気はないようだ。
「そうだ。トト、デザートの味見しない?」
スパイ疑惑のあるカイに、自然に接する自信がないのだろう。リェンはトトを厨房に誘うと、逃げるようにテーブルを後にした。
静まり返った店の中で、不意にカイがスプーンを置いて立ち上がった。
そのままなにげない足取りで、隅にあるリェンの父親のテーブルに近づく。
「……奥さんの形見なんだってな、それ」
正面から声をかけられて、背中を丸めた父親が、初めてカイに気づいたようにゆっくりと顔を上げた。無精ひげだらけの顔は、近くで見ると案外若い。
カイはその手の中のペンダントを無造作に取り上げると、
「磨いてやるよ」
向かいに座って、いつも持ち歩いている荷物の中から、仕事道具を取り出した。
ついでに、テーブルの酒瓶の中身を勝手に自分のグラスに注ぐ。
「かんぱーい!」
十数分後。酒がまわってすっかり打ち解けたふたりは、肩をたたいて笑い合っていた。
鎖までぴかぴかに磨き上げたペンダントを手渡しながら、カイがリェンの父親の肩を抱くようにして囁く。
「なあおっさん。もし知ってたら、教えてほしいんだけどよ……」