Ⅰ
若い男と幼子が、山道を下っていく。
「お腹すいたなー。ねえカイ、今度の街はいつまでいられるの?」
六、七歳に見える男の子が、黒目の勝ったまるい目で男を見上げた。粗末な衣服に、肩には身のまわりの物が入っているのであろう小さな袋。
「金がたまるまで」
こたえた背の高い男は、二十代半ばといったところか。子どもと同じ黒髪だが、このあたりでは見かけない白い肌と、彫りの深い顔立ちが人目をひく。伸ばしっぱなしらしい長い前髪からのぞく、気怠く細められた瞳も、よく見れば淡い色。背中には大きな荷物を担いでいる。
「たまにはゆっくりしようよ。僕、友だち作って遊びたい」
男の子の言葉に、
「……ここでは無理だな。ガキは多分、皆逃げちまってる」
眼下の街に目をやりながら、カイと呼ばれた男がつぶやいた。
かつては栄えていた街並みは、その多くを爆撃で失っている。たまに、崩れかけた建物の間に人が出入りするのが見えるのは、わずかに残った住居や商店だろう。
「……ほんとだったんだね。“レジスタンスの街”って」
街を見下ろし、子どもがため息をついた。
「“雲の街”ってのもな」
反政府活動の拠点として知られるこの街は、男の言う通り、地形のせいか曇りの日が多いことでも知られている。
「……降られる前に行くぞ、チビ」
「もー、チビって呼ばないでよ。僕、もうすぐカイより大きくなるんだからね!」
「そいつは楽しみだ」
厚く垂れこめた雲の下、ふたりは破壊された街へと歩みを進めた。
「お兄さんたち、仕事で移動中? ここにはどのくらいいる予定なの?」
翌日の昼、宿の近くの食堂でテーブルについたふたりに、料理を運んできた少女が笑いかけた。観光客など来ることのないこの街に、わざわざ滞在するよそ者が珍しいらしい。
香ばしい揚げ物の匂いと、客たちの笑い声。食材を調達するのも楽ではない状況のはずだが、手頃な値段でうまい料理を出す食堂は、周辺の住民らしき客で賑わっていた。その大半は、働き盛りの男たち。子どもや若い女の姿は見当たらない。
「しばらく、そこの宿で便利屋の真似事を」
カイがこたえると、
「知ってるわ。時計や鍵の修理もできるんでしょ? あたしの友だちが、指輪の石がぐらついてるのを直してほしいんだって。そんなのもできる?」
娘は身を乗り出して、ぽんぽんと言葉を重ねた。
「おやすい御用だ」
度重なる政府軍による攻撃で職人の多くがよそへ移ってしまった今、細かい作業のできる便利屋は、住民たちに歓迎されているらしい。
「これはサービス」
言葉と共に、湯気を立てるスープの皿が二つ、テーブルに置かれた。男の子が歓声をあげる。
「気にしないで。よそから来た人にはいつもこうしてるの。あたしたちも、ここのみんなに親切にしてもらったから」
鮮やかな色のスカーフで包んだ黒髪を揺らして、少女が朗らかに笑った。
「あたし、リェンっていうの。去年、父さんと首都から来たんだ。よろしくね」
「リェンお姉さん、ありがと! 僕はトト、こっちはカイだよ」
リェンを見上げて、少年が嬉しそうに言う。
「ちゃんと挨拶ができて偉いね、トト」
トトの頭を撫でたリェンが、
「それに引き換え、ごめんね。いい大人なのに、うちの父さんはあんなでさ」
隅のテーブルに目をやって、苦笑した。
そこには、虚ろな目をした痩せた男が、両手で酒の入ったグラスを抱えて座りこんでいた。時折、震える手を上着のポケットに入れると、取り出した細い鎖を握りしめる。
「母さんが死んでから、ずっとあんな調子。ここに来たら、少しはしゃんとするかと思ったんだけどねえ」
首を振って言うリェンに、厨房から声がかかる。
「はあい! じゃあまたね。トト、カイ」
店内の喧騒に負けない大きな声でこたえると、少女はきびきびとした足取りで厨房に戻っていった。
「放してよ!」
数日後、少し早いが夕飯にしようと宿を出たカイとトトの耳に、リェンの叫び声が飛び込んできた。
「なんだと? 逆らうなら、基地まで来てもらうか」
下卑た笑い声があがる。数ブロック離れた食堂の前で、軍服を着た若い男が二人、少女の肩や腰に手をかけているのが見えた。
「買い出しに行って来ただけよ。武器なんて持ってるはずないじゃない!」
「なら、身体検査ぐらい問題ないわけだ」
「証拠を見せてもらおうか」
ひび割れた石造りの道路に散らばる、買い物かごと貴重な食材。
三人から少し離れた場所で、心配そうに様子をうかがっている警官は、兵士を相手に手を出しかねているようだ。
「……今日の飯は干し魚か? リェン」
かごを拾い上げたカイが、もみ合うリェンと兵士の後ろから声をかけた。
いつのまにか背後に立っていた長身の男に、若い兵士たちがぎょっとした顔で振り向く。
それにかまわず、
「俺、今日は肉食いてえ気分なんだよなあ。肉ないの? 肉」
いつになく饒舌にしゃべりながら、カイがリェンに近づいた。
追い抜きざまに、わずかな動きで少女の身体を兵士たちから引き離すと、カイはそのままリェンの肩を抱いて食堂に入る。後ろに続いたトトが、開け放していた店の扉をするりと閉めた。
突然現れた異国風の大男に、風が吹くように少女を奪われ、つかの間ぽかんとしていた兵士たちだったが、
「……貴様!」
「見かけない顔だな! 身分証明書を見せろ!」
われに返って、カイの後ろ姿に叫んだ。
慌てて飛んできたさっきの警官が、二人をなだめながら店の前から引きはがす。
食堂に入ったカイが、リェンの肩から手を離した。
白い顔はもう、普段の気怠げな表情に戻っている。
「……ありがと、カイ。すごいじゃない、いつもはだらーんとしてるのに」
ほっとした顔でリェンが笑った。
まだ客の少ない店の中、厨房から飛び出してきた店主夫婦も、かわいがっている少女の無事に、揃ってカイに頭を下げる。
「外国人には手が出しづれえんだろ、軍も」
皆と視線を合わせず、カイがつぶやいた。
日増しに国民への弾圧を強めているこの国の政府だが、他国からの批判には敏感だ。
「リェン、リェン、大丈夫?」
「ごめんねトト。びっくりさせて」
スカートにしがみついてきたトトの頭を撫でて、リェンが気丈に笑った。
「こう見えてもしぶといのよ、あたしたち。“やまない雨はない”ってのを合言葉にしてるんだから」
“やまない雨はない”とは、この国の誰もが知る、抵抗運動のスローガンだ。
「……まあ、例外もいるけど」
薄暗い食堂の隅に顔を向けて、リェンが苦笑する。
視線の先には、騒ぎにも気づかずいつも通りの格好で座り込んでいる父親の姿があった。
「ああ見えて父さん、大戦ではパイロットだったの。戦後も、首都で政府の仕事をしてた。詳しいことは知らないけど、新しい技術のための実験だって言ってたわ。けど二年前、母さんがデモ隊の鎮圧に巻き込まれて死んでから……」
リェンが、諦めたように首を振る。
「この街で頑張ってるみんなの姿を見たら、気分も変わるかと思ったんだけど。全然ダメね。一日中、母さんの形見のペンダント眺めて、飲んでばっか。もう、父親も死んだものと思ってやってくしかないわ、あたし」
よく動く瞳が、くるりとまわった。
「って、どうしよう、こんなに逞しくなっちゃってさあ。
あたしまだ、十七なのに!」
おどけた笑い声をたてると、リェンはぽんとトトの背中を叩いて、店主夫婦と共に厨房へ戻っていった。