黒き霧の幻想
気づくと、私は暗黒に囲まれていた。
暗黒――具体的に形容すれば《黒い霧》とするべきだろうか。不明瞭な地面からゆらゆらと湧き上がる靄がかった黒い空気は、そのまま同じように暗黒色をした恐らくは夜の空へと溶け込み消え失せてしまう。その延々と繰り返される光景がまるで我々人間の生から死に至る無限の営みを模していて、なおかつそれを無意味なものなのだと嘲笑うかのような表情をしていると私は錯覚した。
《黒い霧》。それはしばしばこの国における汚職、不祥事に名付けられる言葉である。引用元は1960年に松本清張が著した『日本の黒い霧』というノンフィクション小説だ。ポツダム宣言を受諾し占領下に置かれることとなった日本に起きた様々な怪事件とその裏に潜む陰謀に迫るという、ただの創作物という範疇を超えて社会問題を引き起こした不朽の傑作だ。その影響力は計り知れず、以後この国における汚職や不祥事問題はしばしば《黒い霧》という称号を冠として授けられることになる。
私の周りに漂うこの霧は、おそらくそうした事情を踏まえたいわば暗喩的現象と言えるのだろう。今ここに私が立っていること。すべては泡沫の幻のように現実感が乖離している。だからこそ《黒い霧》はただの煤と水分を過分に含んだ空気であると断じられぬのである。
いつからだろうか。世界が、現実が、鬱屈し限りなく単色に近い黒と灰のモノクロームのようにしか見えなくなってしまったのは。私以外のすべてが怖くなり、人の死や崩壊を見て正体不明のカタルシスと安堵を覚えるようになったのは。それが理不尽であればあるほど、放辟邪侈の振る舞いを続けてきた人類に対する神よりの聖なる裁きであるように思えるのだ。堕落した地を見て悲しみを覚えたヤハウェが、ノアと彼が乗る方舟を残して世界の悉くを滅ぼしたような裁きのほんの一部分。
しかし、私そのものは裁きやそれから来る救いとは無縁だ。いくら神の裁きを望んでも、いくら約束の地へのヒジュラを望んでも、目の前を覆う霧は晴れることを知らない。堕落した地から救い出してくれる神は現れない。
そして私はこのように考えざるをえなくなった。
外の世界に希望を見出せないのならば、いっそ自分の内側――匣の中――へと潜ってしまおう。現実逃避の域を超えた、心の内に抱く誇大かつ強大かつ複雑怪奇な妄想、内的宇宙に創造された世界に引きこもってしまうのが一番良いのだ、と。
問題はその方法である。自らの妄想世界に浸るにはどうするのか。
そこで私の脳裏を過ぎったのは、アウトサイダー・アートと呼ばれる作品群とその作者達だった。正規の教育や訓練を受けず、作者の脳内世界のみを基に創造された小説や絵画、彫刻や建築物などを指してその名がついている。それらの作品はまさに創作者の人生そのものを顕していると言っても過言ではない。過剰なまでに重厚長大で、細部に渡る偏執狂じみた異様な拘り。既存の文献や作例をあたることはなく、あくまでも自らの内面にあるものをそのまま外に写し出すことで創り出されるアウトサイダー・アートは、紛れもなく一つの世界そのものである。アーティストが皆、世間に作品を公開することを望まない態度を示すのも、外の世界――彼にとっての異世界――よりの侵略を恐れるが故であると解釈すれば腑に落ちるだろう。
これだ、と私は地獄に垂れた一本の糸を発見したような気になった。
中と外を逆転させるのだ。私の周りを形作る世界を内側にしまい込み、その代わり心の中にある心象風景を形ある物にし新たな世界とする。その世界には異物、他者、不可知、超越神らは存在せず、すべてが私なのだ。私で出来た世界。
そうすることでのみ私は救われる。そうすることでのみ、私の世界は救われるのだ。
私の手には、いつの間にかペンらしき細長く固い物体が握られていた。これを動かすことで生み出すのは絵画か、小説か、音楽か、その他あらゆる種類の芸術か。
ふと、黒い霧が晴れていることに気づいた。当たり前だ。私が決意したこの世界にもはや社会などといった曖昧な概念は存在しない。もちろん汚職や不祥事などは言うべきにもあらず、だ。
光が天より降ってくる。どこまでも清純で一点の曇りもない光景。鮮やかな色彩で自然は彩られていた。
目頭が熱くなるのを感じる。良かった。私の心は、まだ色褪せてしまっていなかった。間に合ったのだ。一片の希望が残っていた。
さあ、そろそろ出発しよう。すべては無限だ、無限の世界を楽しむことにしよう。
眼前には巨大な純白の塊が迫っていた。完全なる立方体。一つの面は二メートル四方ぐらいだろうか。私と向かい合う面の一部分が長方形に凹んでいて、その上には黒背景に白文字で書かれた看板がくっついていた。
『非現実の城 The Castles of the Unreal』
私はその大仰な名のついた立方体に近づいた。凹んだ部分の周りには、薄らと筋が入っていた。扉だ。同じく純白で出来たノブが建物に同化している。
私はそのノブをひと思いに捻る。躊躇はまるで無かった。
この『非現実の城』にて、私は奇怪かつ美しきキャラクターを持つ人物達と出会い、彼らが織り成す異様な連続殺人事件に巻き込まれることになる――。