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君のいる世界  作者: 田鰻
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オールマイティ - エピローグ

森がざわついている。

ここ暫くは鳴りを潜めていた火薬と魔術の匂いが、そこかしこに漂っていた。


「久し振りだね、最近はこんな事なかった」


クレストは静かに言った。

森が襲撃されたのは数年ぶりだ。いや、もっと間は空いていたかもしれない。意識して数える事をやめてしまうと、たちまち数年程度は誤差にすらならなくなってしまう。

初めの数年間で、複数回の森への侵入があった。うち一度はそれなりに大規模と呼べるものであったが、結果は言うまでもない。彼らの目を誤魔化し抜いて森を抜けるのは不可能であり、平地ならば有効に働く人数の多さも、この森においては逆に不利となってしまう。

よしんば欺き切る事に成功したとしても、最後にはクレストが待ち受けている。

どうにもならなかった。館を目指して森へ入った人間達で、生きて帰れた者は一人も存在しなかった。

外部の注意をここに引き付けるという目論見は、見事に成功していた。

以来暫くは平穏な時が流れていたのだが、久々に沈黙を破っての登場という事になる。忘れたと思った頃にやってくる。周知の事実とはいえ、なかなか人間というのは諦めが悪く、欲深い。

丁度外にいたクレストは、報せを聞いて庭園の端までのこのこと出てきた。そこから森の方を見やる。


「かなりの実力者です。結界は現時点で敵を捕捉しきれておりません」

「破られているって事かい?」

「回避と破壊と両方です。大部分を回避が占めておりますね。

掻い潜るという表現が相応しい軌道です。最短距離でここへ到達しようとすると、わたくしの催眠結界のどれかに必ず引っ掛かる筈なのですが……」

「信じられません、結界に別の結界をぶつけて破壊していますよ。

最後の敵襲があってから4年、久方振りの来客は随分と大物のようです。敵ながら見事……」

「真祖、いかがいたしましょう。我々で迎撃に向かいますか」

「どうしたものかな」

「相手はまだ森の半ばに位置していますから、この先の結界網にかかるのを待つのも宜しいかと」


誰が来たとて敗北は有り得なくとも、無闇に森を荒らされるのを見過ごしたくはない。壊された結界を張り直すのは、クレストではなくメイトリアークとパトリアークなのである。

被害がこれ以上拡大しないうちに従者達を差し向けるべきか、クレストは迷っていたが、すぐにその判断が遅かったという事を知る。それはクレストのみならず、従者達も同じであった。


「――!

真祖、侵入者の気配が目前に現れました!」

「どういう事だ、離れていたんじゃなかったのか?」

「魔術ですね……やられました。森半ばの気配はデコイでしょう。

侵入者はインビジブルスペルを駆使し、とうに遥か先を進んでいたようです」


パトリアークが、シルクハットを手前に引いた。

だとしたら、敵は気配隠蔽にも相当に長けているという事になる。

パトリアーク達のような高等種にすら実際の人間と錯覚させるダミーを仕込み、かつ自身は完璧にその身を隠し切って、反応すらさせず結界群を掻い潜り進んできたというのだ。単純に手練れという言葉では済まない、かつてない強敵というのが相応しい。たとえその技術の粋がこの後徒労と化すとしても、腕前に賛辞を惜しむ理由はなかった。

そして敵が透明化を脱ぎ捨てたという事は、小細工をやめて突入してくるという事。


庭園から臨む森の境界に、人影が出現した。

一瞬だったが、従者達が硬直する。庭園にまで踏み込まれたのは、これが初めてだったのだ。

緑と臙脂のまだら模様のマントで首から下をすっぽりと包み、目深に被ったフードで表情は全く見えない。口元は鳥の嘴のような形状のマスクで覆われていた。呼吸を抑制し、探知に掛かり難くする為の物だろう。マスクだけでなく、身に付けたあらゆる装備が、魔術の効果を帯びた品であるに違いなかった。

高度な技量なくしては、それらの性能を充分に引き出すまで使いこなせない。よって品物頼りでここまで来れたと認識するのは、極めて危険だった。


駆け込んでくる人影。

先に動いたのはメイトリアークだった。

前方へ駆け、素早く迎え討つ体勢に入った彼女へ、大股の踏み込みで侵入者が迫る。尾が伸び、外敵の心臓を貫くべくしなった。その時にはもう、侵入者はマントの左肩に右手を掛けている。

ひと捲りで剥ぎ捨てたマントが、巨大なコウモリが羽ばたくようにぶわりと広がり、意思を持つかの如くメイトリアークに覆い被さる。思った通りの魔術道具。対象を包み込む事で視界を塞ぎ、動作を制限する類の品だ。

だが耐久性は薄いと見た。メイトリアークが冷静に尾を斜めに払うと、たった一閃でマントが切り裂かれる。

続くもう一振りが、いまだ空中にあったマントを完全に払い除けた。


そこに侵入者はいなかった。

マントが視界を塞ぎ、切り裂かれるまでの一瞬でメイトリアークの頭上を飛び越え、駆けていたのだ。

侵入者は、メイトリアークとの戦闘を最初から考えていなかった。

眼前の強敵を回避して先へ進む、そんな真似を繰り返せばいずれ追い詰められるのは明白であろうに、駆ける脚には迷いが一切感じられない。マントを脱ぎ捨てた事で身軽になったのか、まさに風のようだ。

進路にパトリアークが立ち塞がる。

侵入者の足は止まらない。僅かでも速度が鈍れば、背後から追うメイトリアークから挟み撃ちにされる。

よって、こうなってはただ前方を目指すより他なかった。

この青年にしては簡単な一礼を、パトリアークがする。トン、トン、とその場で二度のステップを踏むや、合わせたタイミングで、唸りをあげて回し蹴りが放たれる。装飾を好むパトリアークの性質からは掛け離れた、何の飾り気もないシンプルな一撃は、前傾姿勢で駆ける侵入者の顔面をカウンターで叩き潰す筈であった。


侵入者が体を右に傾け、左肩を落とした。

その体勢から、もう一歩踏み込む。

自分の顔面に向かってくる靴底を前にして、更に加速したのである、この侵入者は。

それだけで、必殺の蹴りが侵入者の左肩と左頬を掠めて外れる。

踏み出した左足に全体重を乗せて軸足とするや、踵を僅かに上げ、地に著いた爪先をぐるりと左に捻る。

足先だけの動作で、侵入者の全身が翻った。吹き飛ばされそうな風圧を伴う蹴打に背を沿わせ、ターン一動作でパトリアークの背後に回り込むや、続く右足の踏み出しから一息に前方へ跳ぶ。

侵入者の右手が持ち上がり、真下に振られた。

掌中にそれこそ魔法のように現れていたガラス瓶が、地面に着弾して裂ける。

白い煙が、猛烈な勢いで背後へと噴出された。指向性を持たせた煙幕は後方の広範囲を瞬く間に塞ぎ、従者達の判断と行動を、刹那とはいえ防ぎ止める。


しかし、防いだとてどうなるというのか。

回避に徹して従者ふたりの壁をまんまと抜けようと、最後に待ち受けるのは不死身の吸血鬼である。

クレストはぼうっと立っていた。

風のように迫ってくる侵入者に、何かしら構えを取る訳でもない。

従者達がやり過ごされたのは見ていた。全ては一瞬の出来事だった。

それだけ従者達の対応が早く、侵入者の技が見事だったという事になる。

侵入者が跳躍した。

背中に流したフードの端が靡く。

煙の向こう側でパトリアークの鋭い声がしたが、クレストは特に動こうとはしなかった。

あれ以来、館を目指してきた人間達はいたが、実際に目的を果たしてみせたのはこの人間が初めてだった。どうせ何をされても死なないのだから、話くらいはしてみてもいい。


侵入者が再度右手を掲げる。

繰り出されるのは攻撃か、それとも魔術か。

クレストは顔を上げた。

フードの向こうにある、侵入者の目と目が合う。

え、と思った。声が出たかは分からない。心に軋みが生じ、何もしないという意思とは別に体が動かなくなる。

侵入者の手がフードに掛かり、捲るように剥ぎ取った。

青空を背景に、また別の青が、ザッ、とクレストの視界を侵食する。

フードの中に隠れていた髪が、やっと窮屈な場所から抜け出せたとばかりに空中に広がる。

侵入者が軽く首を振る。長い空色の髪がまとまり、揺れた。

クレストは何もしない。

侵入者は跳んでいる。

その関係のままに、侵入者はクレストの懐へまっすぐに飛び込んできた。

着地する寸前、左手がクレストの胸を叩く。

無防備だった事もあり、その威力にクレストは思わずよろめいた。

最後まで残っていた嘴のようなマスクを、侵入者はぐっと喉元まで引き下げる。


もう、その顔を隠すものは、声を妨げるものは何もない。


「――あっは、本当に全然変わってないなあ」


眩しいくらいに輝く瞳が、漆黒の瞳を認めて朗らかに笑う。

鳥が降り立つように、ほとんど音もなく足が地面を踏んだ。

ざり、と靴底で砂を擦って一歩距離を詰め、喉元に下ろしていたマスクを、いかにも邪魔そうに取り外す。

覗いた首の線は女のそれだった。

右手で大雑把に三度、前髪を整えると、呆然と立ち尽くすクレストを見上げ、恐れる事なく両腕を伸ばした。


くしゃりと、柔らかな黒髪が左右から掴まれる。

手が届いた。


「………………フィリア?」

「あ、憶えててくれたんだ! よかったぁ!

7年ぶり? 8年ぶりかな? ちょうどそのぐらいだね。クレスト本当にそのまんまだねー」


ふらふらと手を伸ばそうとして、クレストは躊躇った。

少女は成長していた。腕を伸ばせば、彼の頭に手が届いてしまう程に。

声音は幾らかの低さと落ち着きを備え、顔立ちはぐっと大人びている。

だが、間違いなくフィリアだった。

この色、この瞳、そしてこの笑顔――疑いようがない。

声も出せずにすっかり狼狽しているクレストの様子に、フィリアはまた笑った。


「初めに言い訳しておくぞ、オレは止めた」


ようやく薄れた煙幕の向こう側から、従者達と共にウィルが現れた。

やや痩せたようだが、こちらは顔立ちにも体格にもほとんど変化がない。

別れた時に引き摺る気配の残っていた足は、いまや正常と変わらなく動いて見えた。組織を損壊していたから完治したとは思えないが、カバーする体捌きをこの歳月で編み出したのだろう。彼は”オールマイティー”であり、その名の由来は、学ぶ事を止めない彼の姿勢が生んだものであった。


「何度止めたか分からない。何度止めても聞きやしねえ。

とうとう最後にゃ、どうしても行くならオレを倒してから行けっつうどっかで聞いたやり取りかまして、半ば殺し合いになって負けた。

見ろよこれ、危うく左腕まで失くすところだった。つーか頭ごと持っていかれかけた。まだ首が痛え」


ウィルはそう言って、太い首筋を摩る。

小脇にはフィリアが身に纏っていたのと同じようなマントに加えて、他に複数の装備品を抱えていた。結界と直接やり合う役割を譲り渡したぶん、隠れ身だけならフィリアよりも有利だっただろう。一線を退いても尚、これらを使いこなすだけの腕前は保ち続けていたという事だ。


「ごめんって謝ったじゃない。

でもあれはウィルがいけないんだよ、何度お願いしても聞いてくれないから。

黙って行くのは絶対イヤだったし」

「オレは依頼を忠実に果たそうとしただけだ。お前のワガママと暴力的な強さのせいで台無しにされちまったがな。人の気も知らねえで」

「目的を遂げようとするなら、その道の力と知恵無くしては何も出来ないって教えたのウィルじゃない。その理屈だと、悪いのはわたしじゃなくてウィルが弱かったからって事になっちゃうよ」

「オレが弱いんじゃなくてお前が理不尽に強すぎるんだよ。

オレはな、人間が一線超えて強くなるには常に飢餓状態にある条件が必要不可欠だと信じてた。でも世の中にはそんなん関係なくやっちまう奴がいるんだよ。ハイハイ天才ってすーごーいーでーすーねー」

「フィリア……」


周囲の目そっちのけで会話しているフィリアとウィルに、クレストはただ名を呟くだけで精一杯だった。

そんなクレストの方を、フィリアが振り返る。そして自信に満ちた声で言った。


「敵の手から身を守るには、自分が強くなればいい。

悪意を察するには賢くなればいい」


フィリアはおもむろに右肩に手を掛け、服を二の腕までずり下ろすと、クレストに背中を向けた。

そこには薄くなったものの、引き攣ったような焼印がはっきりと残っていた。


「消すつもりはないよ、これはみんなとの繋がりだもんね」


声に、やむを得ずそうしていたという響きは無い。それはつまり、消す手段はあったが、自らの意思で消さずにいた事を意味している。

クレストは、フィリアからウィルへ視線を移した。目を逸らし気味なのは、さすがの彼も気まずいらしい。


「すまん、育て方を間違えた。どうやらオレは子育てには向いてなかったみたいだ」

「育て切ってから言わないでくれよ!」

「あはっ、そんな事ないよ。ウィルは毎日すごく頑張ってたよ。

こっちは充分楽しく面白おかしく暮らしてきたから、心配しないで」


フィリアが明るくフォローに入る。その笑顔に嘘はないように思える。だが。

無邪気に微笑んでいるフィリアを見ているうち、徐々に、クレストの中に激しい感情が沸き起こってきた。驚愕と混乱が回復へ向かうのと入れ替わりで、状況認識に頭が追い付いてきた為だ。

これは、フィリアだ。では、そのフィリアはどうやってここへ来た。

気付いた時には、彼は怒鳴っていた。


「どうしてこんな事をしたんだ!!」

「わわっ!?」

「どうして、正体を隠して森に忍び込むような真似をした!

結界に掛かって死んでいたかもしれないんだぞ! メイトリアークとパトリアークとも戦いになった!」

「傷付けるまでやり合うつもりは無かったよ。だから最短で避けてクレストまで直進したの」

「君には無くてもこちらにはあった!

彼らは強い。君は、本当に殺されていてもおかしくなかったんだ!」

「あっさり殺されたりはしないよ……あのね、こっちの戦闘術や魔術も日々進歩して……」

「俺が――俺が君を殺していたかもしれなかった!!」


これにはフィリアも黙った。

どこまで正確に把握しているかは定かではないが、クレストの言葉は真実だった。

どれだけ戦闘術が進歩しようと、魔術が磨かれようと、神の域に達した采配が降りてこようと、全てこの吸血鬼の前では意味が無い。

ひとたび殺すと決めたならば、阻むのは地上の誰にも不可能。

誰より血が凍る思いをしているのは、殺される側にあった者ではなく、殺す側にあったクレストであろう。

クレストの膝が折れて、長身がその場にへたり込んだ。みっともないと笑うのも許されぬ程、恐怖と悲壮感と安堵に満ち満ちた姿であった。


「……もし……そんな事になっていたら……俺は……」


自分に殺せない相手はいない。

実質そう断言した者が出すとは思えない、泣き出しそうな声だった。

俯いて表情の見えなくなったクレストに、無鉄砲さを知ったか神妙な顔になったフィリアが告げる。慟哭に近い叫びが、ただ自分の身を案じてのものだったと知ったせいであろう。


「ごめん、クレスト」

「…………………………」

「……悪いと思ってるので正直に言うと、今のわたしだったら、そんな簡単にやられないと思ってたのは本当」

「…………………………」

「自分の腕がどこまで通用するか、本物の強者を相手に通じるか、試してみたいと思ってやったのも本当。うん、ばかだね。怒られてもしょうがないね」

「…………………………」

「……あとね、姿見せて森の入口に来てたら、クレスト、会ってくれないかと思った」


最後の言葉にだけ、家族に捨てられそうな子供のような、強い不安が滲んでいた。

否定はできない。フィリアの人の世界での幸せに、誰よりも拘っていたのはクレスト自身なのだ。

フィリアは、人の世界で生きて、幸せにならなければならない。

信念に固持するあまり、現れたフィリアを即座に追い返すか、締め出していた可能性は確かにある。

だが考えてみれば、それは理由にならないのではないか。

会ってくれないかもとフィリアは言うが、元々、会わないのが自然なのだ。

人間社会に戻り、無事に居場所を得、平穏に暮らせる人間が、このような場所まで来る理由が無い。

はっと誰かが鼻で笑う。ウィルだった。


「おーおー怒られてるな。怒られろ怒られろ。お前はもっとオレ以外の怒りを知った方がいい……いでっ!」

「貴殿は、自らの監督不行き届きの責任をあまり全面的にフィリアに押し付けない方がいい」

「監督はしていたけれども負けてどうにもならなかった、が話を聞く限り正確かと思われますが」

「ああそうだよ悪かったな弱くて!」


ウィルと従者達が騒いでいる。

へたり込んで項垂れたままのクレストに、そっとフィリアが近付いた。


「ごめんね心配させちゃって、これからは堂々と入ってくるから」

「これから?」


やっとクレストが顔を上げた。腰から下はいまだに力が入っていない。

ぱちぱち瞬きしているクレストを見下ろして、再び調子を取り戻したフィリアが快活に告げる。


「わたし研究者でもあるの。

今日ここに来た目的は建物や樹木の調査とか、それと昔は読めなかった貴重な本ね。今のわたしなら、きっと読める。知ってる? 表題だけ教えてもらった本、すっごい古いやつなんだよ。そういうのが目当て」


語る瞳は輝きに輝いていた。

割合に生命感に溢れて。割合に怪しく。

知的好奇心を満たそうとすると、人は共通してこういう方向に行くらしい。


「だ……駄目だよ、そんな理由で戻ってきたら。

君は人の世界で、人としての幸せを」

「うん! だから向こうは向こうでちゃんとやってるよ!

生活基盤はあっちに置いて、こっちには研究目的で訪ねてきてるの、これなら文句ないでしょ?」

「……あー、一応言っとくと、商売は軌道に乗ってる。

あんま人目引いて面倒が舞い込まねえよう、かつ不自然に失敗続きにならねえよう調整しながらな。おたくらから貰った宝石は、各方面で存分に活用させてもらった。そろそろ支店も出せそうな感じだ」

「今回長めにお店を空ける事になるから、遠方への仕入れって事でお休みにしてあるんだ。その辺りのちまちました小細工各種は抜かりなしだよー」


賢しい悪党と呼ぶには、まだ無垢に過ぎる表情でフィリアが小さく舌を出す。

子供でなければ出せない表情。そうだ、成人に近くなってはいるものの、子供であるには違いない。そしてまた、満たされて育った子供でなければ、このような表情は作れまい。

では、幸せだったのか。

最初の頃は、自由に外にも出られず、ひたすら息を潜めて暮らし。

暗い部屋で与えられる本だけを楽しみに、豊かとは呼べない生活を続けねばならなかった。何の為に外に出たのか判らない、手枷足枷を付けられたような生活の中で、やがて体を動かす事を覚え、より学ぶ事に没頭し、伸びる背丈がある点を越えた頃、転機が訪れる。ウィルの工作が完了し、準備が整い、晴れて扉を開き、眩しい太陽の下を歩ける日が。

承知の上での艱難辛苦だったとはいえ、一旦は得た光から再び穴蔵へ引き摺り込まれた生活は必ずしも満足のいくものではなかっただろうが、それでも――フィリアは望むように、望まれるように育ち、遂には羽ばたく事を覚えたらしい。

良かった。

先程までの恐怖も怒りもその時嘘のように消えて、純粋な安堵と喜びがクレストに広がった。

フィリアが両手を前で揃え、身を屈める。きょとんと見上げるクレストに顔を近付けて、にこりと笑った。


「というワケで、これから宜しくね、クレスト!」


瞳を閉じ、胸に手を添えるパトリアーク。ウィルが嘆息しつつ天を仰ぎ、メイトリアークはそっと微笑む。

失ったと思ったものが、また戻る。忘却の日は遠のいた。


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