オールマイティ - 15
クレストは寝込んだ。
信じ難い事だが、本当に臥せったまま動けなくなってしまったのだ。
真なる不老不死が肉体面で参るのが不可能ならば、それは心理面からの影響に他ならない。気力が無いのも覇気に欠けるのもクレストの常であるが、一応は行動しているのに姿勢や所作や眠そうな表情からそう見られてしまう普段とは、明白に異なっていた。
何も、する気が起きない。
来る日も来る日も、ぼんやりと寝台の上でやり過ごす。
そうするうち一日と一日の区切りさえも曖昧になり、あれから何日が経過したのかも判らなくなっていく。思考は沼底の粘土のようだ。重くて、粘り付くように固く、変化しないまま底に溜まっている。
身も世もあらず嘆き悲しんでいる訳ではない。絶望に藻掻き苦しんでいる訳でもない。激しい感情の類は一切存在せず、ただ静かに、そこから動こうという気持ちが生まれないのだ。ごく簡単な、手を持ち上げるという行為すら、遠いものに感じられる。人であるならば、高熱に浮かされた状態に近い。彼が病に倒れる事は決して無いが、無理にでも当て嵌めるのならそうなる。苦しむ事なく朦朧としている頭。否、彼は確かに苦しみ悲しんでいる筈なのに、それがこうして極度の無為としてしか発現していないのだ。
「おはようございます、真祖」
「………………」
「何か御用がございましたら」
「……ない」
メイトリアーク。
「おはようございます、真祖」
「……ああ」
「館右方の花壇を入れ替えました。後程ご覧くださいませ」
「………………」
パトリアーク。
時折、こうして従者達が部屋を訪れる。
無視まではいかず、辛うじて返答だけはしていた。
一日のうち彼が取る行動らしい行動といえば、それのみだ。
断れば、従者達はそれ以上は何も言わずに消える。
動けない。世界と同一視されるを越して、まるで本当に世界という概念そのものと化してしまったように。そうだ、世界は何もしはしない。ただそこに有るだけ。それが自ら動いたから、こんな事になった。
そんな日々が、どれだけ続いただろうか。
「失礼致します、朝食をお持ち致しました」
ある日、メイトリアークが食事を運んできた。
部屋まで呼びに来た事は何度かあったが、直接持ってこられたのは初めてだった。
内容は、スープ皿がひとつ。あっという間に片付けてしまえそうなそれを、当然の如くクレストは断った。
「嫌でもいいからお召し上がりください」
ずっとおとなしく引き下がっていたとは思えない程、強い口調でメイトリアークは言った。
「フィリアが悲しむし、怒りますよ」
クレストが動かずにいると、この状態では禁句とも言える名前を持ち出す。
天井と壁との境目の辺りへ向けられていた瞳が、メイトリアークの方を向いた。ひとを見る事も出来ないまでに沈んでいた訳ではない。だが、ここ暫くでは確かに珍しい。
「このような目的の為に他者の感情を代弁するなど美しくなく、好みませんので控えておりましたが」
パトリアークがするように、握り拳を口に当てて軽い咳払いをすると、そのまま従者の少女は続けた。
「苦手でしょう、フィリアに怒られるのは。
いちいち深刻に受け止めては、適切に答えられもせずしゅんとなさるのですから」
クレストは黙ったままでいた。
しかし言葉が近しい記憶の光景を掘り起こしたのか、艶のない瞳に些細なものだが肯定の意思が灯る。余程長く側仕えをしていなければ、見逃してしまうような微小な変化だった。
「でしたら、起きてください」
返答は無かった。
クレストの口が動くか動かないかはその時次第で、同一相手との会話中ですら定まりはしない。
空振りに終わった追撃に、メイトリアークは表情を曇らせるのではなく、尚一層厳しく引き締めて告げる。
「それほど落ち込まれるのでしたら、相手の将来など構わず、手に入れてしまえば良かったのです」
「……それは、できない」
「と納得しての決定でしたら、落ち込むのはやめてください。
……といっても難しいでしょうね。納得している事と、それに対して感情がどう揺れるかは違った問題ですから」
ふと、メイトリアークが複雑そうに眉を寄せる。その一瞬、彼女の思考は職務から逸れたようであった。
「でも、難しくても起きてください。どうせ駄目なら、やるだけやってみたらいかがです。
お持ちしたスープだけでも口をつけてください。このままですと、本当に何もできなくなりますよ。考える事までも」
メイトリアークは、本来なら主自ら手にするべきスプーンをスープ皿に突っ込むと、台ごと寝台の脇まで移動させた。
「そのままそうなさっていても、貴方は死にません。
死ぬ事も滅ぶ事もなければ、狂う事もありません。
望む限り――いえ、望まない限り、いつまででもそうしている事が許されます。
だからこそ、すぐにでも目覚めてください。どんどん時間は失われているのです、真祖。フィリアを懐かしむ時間が、楽しかった日々に浸れる時間が、それらを形骸ではなく実感として思い出せる時間が、真祖が全てを覚えていられる大切な時間が、減っていっているのです。
最後に、フィリアに包み隠さず心情を白状し、かつ約束なさったのではありませんか。手放したくなどない此処にいて欲しい全ての気持ちを飲み込み、君が幸せになるよう願っている願い続けると。
今の貴方は願う事すらしていない」
感情のままに荒げる事もなく、落ち着きを保った聞き取りやすい声であったが、ひとしきり喋り終えた時のメイトリアークは、まるで人間が激しく駆けた後のように大きく息を吐き出した。
「謝るつもりはありません、この非礼に関しては」
「……いや、君が謝る必要はないよ」
クレストは、はっきりとそう言った。
一際弱々しく、反射的に聞き返したくなる不明瞭な発音だったが、それは疑いようのない彼の意思表示であった。
何日ぶりかに。何十日ぶりかに。あるいは年単位ぶりかに。クレストが、ゆっくりと細い上半身を起こした。メイトリアークは目を見開くでも歓喜に叫ぶでもなく、整った無表情のままでいる。
「そうだね」
何に対してのそうだねなのかは判らない。
この男の会話術が致命的なのは、どのような状況でも相変わらずだから。
呟きは一度切りで、クレストはそれきり動作を止めてしまう。
やった事といえば、寝台で上半身を起こしただけ。
だが、ともかくも動いたのだ。
メイトリアークは一礼した。もう、運んできた食事を食べろとも求めない。
求める必要はないと、彼女には判った。
「思い出してください、思い出すという事を。他の全てを忘れてでも」
「思い出したよ。イルパシェラ、だろう」
無言か精々頷く程度と予期していた所へ、有り得ない方角からの発言が降りかかり、メイトリアークは面食らう。
「……いえ、僕の名前ではなくてですね……。
……ですから、どうしてそこで僕の事を思い出すのです。それはどうでもいいでしょう」
「どうでも良くはないと思うけど」
「この場合はどうでも良いのです。……はあ、まったく本当に空気が読めないのですね」
「すまない」
メイトリアークが部屋を去ってから、クレストはスープを一口飲んだ。
粘度に極めて乏しく、例えるなら水のようだった。
味は、彼には全く判らない。血液の類は含まれていないらしい。彼の唯一の味覚すら刺激しないようにした、本当にただ飲むという行為の為だけのもの。
当然ながら美味しくも何ともないそれを、膝の上に置いて、クレストは一口ずつ、夕方まで時間をかけて食べた。
それが済むと、パトリアークを呼んだ。従者の青年は、嫌な顔ひとつせずに現れる。こちらはこちらで、起きたのですかとさえ言わない。この光景が当たり前であるかのように、主であるクレストに向かい、変わらぬ挨拶を述べるだけ。
「おはようございます、真祖」
「おはよう。今は朝なのかな?」
「いいえ、間もなく夜を迎えます。窓の外をご覧くださいませ」
「ああ、森の向こうに太陽が見えるね」
「はい」
「という事は、あれが逆側の森から昇り始めたのは――このくらい前になるだろうか?」
そう言うとクレストは、伸ばした親指と人差指とで幅を作ってみせた。
「はい、そのくらいになりますね」
その幅が何を指しているのか、時間だとしたらどの程度なのかを尋ねもせずに、パトリアークは同意した。
「そうか。だったらあれが完全に沈んで、もう一度逆から昇り始めるまでは――」
クレストは親指と人差指で作る幅を、少し変えた。
またしても、それらが何を指しているのかの説明は無い。
「このくらいかな?」
「はい、そのくらいかと思われます」
「そうか、わかった。どうもありがとう、もう行っていいよ」
「はい、失礼致します」
呼ばれた時と同じく、寝台に起き上がったクレストに言及しないまま、パトリアークは丁重に退室していった。




