オールマイティ - 14
いつかこの日が、この瞬間が訪れると知っていた。
それは血臭の中、壊れた馬車に埋もれた少女に出会った時から決まっていた事であり、まさにこうしてその時を迎えるまで、常に彼の頭にあった事だった。
だというのに、いざ迎えた現実に実感が伴わない。
ここに来て、無関心が発動したのか。
それなら、どんなに楽だろうと思う。
この時を境に、フィリアは自分の下を離れるというのに、明日を迎えても、そのまま館に留まっているかのような認識がある。
相反する現実の同居。
まるで、フィリアを送り出さない選択をした自分が、心の片隅に居座っているようだ。
だが、決してそうはならない。
この口で別れの言葉を告げ、この手で小さな背を押した時から、フィリアの姿は、彼の前から永遠に消え失せる。新しい生を掴む為に。
これは彼にとっての終わりであるが、少女にとっては始まりなのだと、クレストは考えようとした。そうすれば自らの手で、楽しかった時に、祝福と共に幕を下ろせる。
何にでも終わりは訪れる。
誰よりそれを理解している、理解せざるを得ない存在である、彼自身を除いて。
その現実から、目を背けてはならない。
「……それじゃあ、元気でね」
太陽が頂きに至るにはまだ早く、雨雲の姿も見渡す限りには窺えない。
旅立つには絶好の日和と呼べた。暗くなる前に山を降りてしまうのが望ましいが、そうでなくとも、これなら麓に近い場所までは近付ける。
雨が降らないようにと、彼は珍しく気候を気にした。
木々にとっての天からの恵みも、せめてフィリア達が人里に着くまでは待って欲しいと願った。
ウィルは支度を整え、庭園の、森に程近い場所で待っている。
パトリアークとメイトリアークもその近くにおり、クレストとフィリアだけが、館から然程離れていない、中途半端な場所に留まっていた。
元気で。
使い古された別れの言葉であり、それだけに数え切れない人々の願いが込められてきた言葉である。
「……どうか、元気で」
「うん」
繰り返されるクレストの言葉に、フィリアは何度も頷く。
背丈があるだけに、目線を合わせるまで屈んだ格好は、より一層の猫背になっていた。悲壮な声が、単なる姿勢の悪さというよりも、背を丸め蹲って泣いているように、彼を見せる。
事実、その印象は彼の心に忠実だった。
フィリアの両肩へ置いた手に、ほのかな温もりが伝わってくる。
ただ乗せているだけの手に力は一切込められていないが、離そうともしない。
くるくると良く表情を変える綺麗な瞳が、彼の目の前にあった。
「どうか……」
「うん」
他の言葉が出てこない。
元から雄弁とは程遠い男だったが、クレストは、この時ばかりは自分が心底嫌になった。
呆れもせず、フィリアはそれに付き合っている。
甘やかされている事を、彼は自覚していた。
今後が大変なのはフィリアであり、甘やかされるべきは苦労ばかりしてきたこの少女であろうに。
判っている。判っていても、駄目だった。
どうか、元気で。
ただそれだけを、他に願う事など無いという事だけを、煩がられて嫌われても良いからと伝える。
求めさえすれば手元で見守り続けられる未来を、そうして外の世界へと託す。
決定は覆らない。
しかし決断を覆さない事と、心が揺れない事はまた別だ。
遂に繰り返すだけの言葉すらも失ってしまったクレストに、フィリアがニッと笑った。
「本当はね、ここにいたいよ。
ウィルが約束破っちゃって、外の町に行くのがむずかしくなっちゃったなら、もう、ずっとここにいたっていいんじゃないかなって思った、あの時。
そのぐらい、ここでみんなといっしょにいたい」
「フィリア……」
「かくしたままお別れなんてヤだから、教えてあげる。わたしの本当の気持ち」
「すまない、でもそれを許す事はできないんだ」
「なんで悲しそうに言うの?
クレストは喜んでいいんだよ、いばっていいんだよ」
「え」
「だって、ね、そう思うぐらい、ここが楽しくって、あったかかったって事なんだから。だから、追い出すなんて思わないでよ」
絶対に他では手に入らないものを貰ったと、フィリアは言った。
クレストの胸が詰まる。
もともと商品として、玩具として売られていく命だった。
あの場で、生きたまま獣に食い荒らされて散っていく命だった。
なのに命を救われたばかりか、平穏で満たされた環境を与えられて暮らした。
それは、ゼロに上乗せされた利益だ。不毛の土地に与えられた奇跡の実りだ。
一時とはいえ、夢を見られた。それが再び元のゼロに戻るだけ。
しかも、何もかもが失くなる訳ではない。保護者のウィルもいる。沢山の思い出を貰っている。
だったら申し訳なくなど思わず、胸を張って送り出していい筈だった。
それが出来ないのは、こちらが与えたものなど比べ物にもならない大きなものを、フィリアから貰い受けたとクレストが思っているからだった。
フィリアが来てから、平穏だった泥沼は光と波に満ちた。
本当に、楽しかった。
幾ら与えても、足りない。どんなに与えても、足りない。
クレストは名残惜しそうに手を退けた。
外套の内側から取り出したブローチを掌に乗せ、フィリアに差し出す。
「あっ!」
「ごめんね、何にするかずっと迷っていて、今までかかってしまった」
フィリアが瞳を輝かせて、ブローチを手に取る。
楕円形の木には、一本の樹が彫られていた。
幹は根本が極度に太く、上へ向かうにつれて急激に細くなっている。
左右対称に過ぎる、非生物的な造形が一目で樹木だと分かったのは、幹から伸びた三本の枝と、その先端に生えた大きな葉のおかげだった。
これだけだと、樹木そのものというよりは、樹木を模した紋章のように見える。
だがそれは、確かに息づいた樹であった。
「始まりの吸血鬼の話を、憶えているかい?」
「うん」
「遠い遠い昔、この世界は空っぽだった。
俺の仲間達は生き物が暮らせる世界を作ろうと、それぞれの体を、世界を築く要素に変えた。大地が広がり、水が流れ、風が吹き渡るようになった世界に、最初の木が誕生した。
俺はそれを見ていた。たったひとりで見ていた。
何も無い大地に初めて生まれた、一本の木――それが、これだ。
俺の中に残り続ける数少ない記憶、俺だけしか見ていないかつての光景。
これを、君にあげる」
原初の木、世界樹クリスティン。
文字通り、そこから多くの木々と命が生まれ、育まれていった。
産声をあげたばかりの世界。目に映るは、空と大地の二色。
一面の灰色に、天を衝くばかりに伸びた樹木の姿と葉の色を、彼は憶えている。
平坦な荒野に、ただそれだけがあった。
そこから、数え切れない命が芽吹いた。
何もない大地に、初めて生まれたもの。だったらそれは、フィリアに贈るに相応しいと思った。
フィリアは暫くじっと彫刻を見つめてから、やはりブローチを見たまま言った。
「ね、クレスト。そのお話、つづきがあるよね」
「ああ。
姿を変えた仲間達は、最後に残った俺に、自分の体の一部を遺した。
大地になった吸血鬼の肋骨は、決して朽ちない体に。
水になった吸血鬼の涙は、決して尽きない血に。
風になった吸血鬼の吐息は、決して壊れない心に。
――木々になった吸血鬼の爪は、決して負けない力に。
だから、選んだ。
そのブローチに特別な力はないけれど、そこに込められた俺の気持ちは、これから生きていく君に力を与えると信じている」
「クレスト」
「うん」
「ありがとう、すごくうれしい」
そうか、と彼は相変わらず気の利かない返事をした。
フィリアはブローチを両手で包んで、ぎゅっと胸に抱く。
途中で落とさないよう大切そうにしまってから、クレストの為に作ったブローチを取り出した。
「それじゃ、これ、わたしの!
とりかえっこする約束だったもんね」
フィリアが握り拳を突き出す。クレストは、上に向けた掌でそれを受けた。
彼の手に、フィリアの小さな手が重なり、開かれる。ごく僅かな重みが、掌の窪みに落ちた。
フィリアの手が引く。
ちょこんと乗っていたブローチを見た時、クレストは思わず吹き出していた。
技術自体は子供らしく拙いものであろうとも、それは彼の目にも一目で何かが判るものだった。
「これは、俺?」
「そうだよ、似てるでしょ。かみの毛のこのへん、ふわっとしてるのとかー」
「うん」
「ほっぺたのとこが、ちょっと細いのとかー」
「うん」
「ここはね、はみ出しちゃったから、みがいて目立たないようにした」
「いいんじゃないかな、襟元の影みたいに見えるよ」
「顔、笑ってるの、わかる?」
「ああ、わかるよ」
「えへへ」
「うん」
「がんばった」
「うん、頑張ったね――ありがとう。
本当に、ありがとう。大切にするよ」
クレストは、ブローチをすぐには懐にしまわず眺めていた。
パトリアークが多少直したとはいえ、子供の描く絵に慣れない彫刻という作業が加わって、出来栄えは、お世辞にも巧みとはいえないだろう。
なのに、これは自分だとはっきり判る。フィリアはそれだけ、自分を見ていてくれたのだ。
木製のブローチ。
不死身である彼の存在の前には、それもいつしか摩耗し消失してしまう物ではあるけれど、フィリアが生を全うする間に、その時が訪れる事はあるまい。
フィリアが生を全うする間は、自分は忘れずにいられる。憶えていられる。
それが、クレストは嬉しかった。
「クレストも元気でね」
「ああ」
「ごはん、もっと食べたほうがいいと思うよ。大人なんだから」
「ああ」
「わたしがいないからって、朝、いつまでも起きてこなかったらだめだよ」
「ああ」
「身だしなみもととのえてね。
おしゃれしてぴしっと立ったら、クレストかっこいいと思うよ。たぶん」
「そうかな。参考にしてみる」
「あと、ちゃんとお風呂に入るんだよ」
「……善処するよ」
これではまるで母親だった。どちらが見送られる側なのか判らない。
注意事項も尽きたのかフィリアは少し黙っていたが、一歩前に歩み出て、両手を伸ばして、しゃがんでいるクレストの髪をわしゃわしゃと撫でた。
「今まで、ありがと」
クレストは答えられずにいた。
まただ。
俯いて悲しみを表す事はできる。離別に胸を痛める事もできる。
だが、それだけだ。肝心なものは何ひとつ、この最も振り絞るべき局面で出てきてくれない。
俺の言葉はいつだって足りない。
俺は何ひとつ持っていない。何ひとつ与えられず、何ひとつ学べない。
大切な君の為に、涙を流す事もできない。
「大丈夫だよ」
視界の外からフィリアの声がした。
彼は顔を上げた。
「クレストの声、いつも聞こえてたから。
ちゃんと全部とどいてたから、大丈夫だよ」
「フィリア……」
「それに、ほら。わたしだって泣いてない!
おんなじ、だよ。」
「……そうだな、おんなじだ」
クレストは不器用に笑った。
最後の最後まで救われっぱなしだった、自分を恥じて。
最後の最後まで救い続けてくれた少女を、何より愛おしく思って。
泣けないのと、泣かないのとは全く違う。
それでも、泣いていないという事実だけは、間違いなく一緒なのだ。
最後の最後で、こうして重なる事ができた。
人と吸血鬼。有限と無限。まったく相容れない者同士が。
それだけで、もう、いい。
クレストは頷いた。彼にしては力強く。
時間だ。
彼は立ち上がる。
足が重いが、歩み出せない程ではない。
最後の道を、フィリアと並んで進んでいく。
ここに来た時も。
一度は去りかけた時も。
様々な物を一緒に眺めて、遊んだ時も。
ずっと、こんな風に隣り合い、手を繋いで歩いてきた。
ウィルが待っていた。従者達が待っていた。
とても長くフィリアと話していたような気もするが、時間にすればほんの僅かだったのだろう。
そこから先の事は、あまり憶えていない。
次に彼の記憶にあるのは、たったひとりで、日が沈んでも森を見続けていた、自分の姿だけだ。
「じゃあね、クレスト」
その言葉を残して、フィリアは彼の元から去っていった。
長い夢が終わった。




