オールマイティ - 9
「……なあ、オッサン。
あんたの副業の事、教えてくれないか」
ほ、とシャムローが奇妙な声をあげた。
暫し飲む手も横取りする手も止めてウィルの横顔をまじまじと見ていたが、それから一転して満面の笑みを浮かべると、岩のような荒い手で、バアンと勢い良くウィルの背を叩く。
「おー、おー、そうかそうか!
お前さんもようやく俺の話を真面目に聞く気になったか!」
「今までだって真面目に聞いてただろうが」
「嘘つけ」
「すまん嘘だ」
「正直で結構。
やあ、しかしなあ、そうかとうとうお前がか。
いいぞいいぞ、俺様が惜しげもなく何だって教えてやろう。何が知りたい?
品物の仕入れ方か、売り付け方か、相場の読み方か、流行りの見極め方か、はたまた――」
「何でも。何だって全部だ。教えられる事は全部教えてくれ。こっちは商売の事についちゃ赤ん坊と変わらないんだ、教われそうなもんは全部教わって、学べるもんは全部学ばなきゃならない。ずっとそうしてきたように、な。
ついでに、心得があるんなら店の構え方も知りたい。窓口程度の、簡単なやつでいいんだ」
次々と突き付けられる要求に、シャムローはふんふんと頷きながら耳を傾けていた。
何故ウィルが急に副業の、つまりは商売の事を聞いてきたのか、それこそわざわざ聞き返すまでもない。ウィルは失敗の許されない仕事を失敗し、名も肉体も再起不能なまでに傷付いてしまった。もはやこの街に留まり、この道で生きていく事は実質不可能といって良い。
ならば選択は3つ。不可能を押して最下層の溝浚いに留まり生きていくか。別の街に移り、そこで同じく最下層から泥水を啜って生きていくか。あるいは戦う道を捨て、全く別の道を選んで生きていくか。
シャムローが常日頃からウィルに語って聞かせていた副業ならば、肉体が不自由だろうとやっていける。それはそれで軌道に乗る保証のない大変な道のりであろうが、このまま留まるよりは可能性がある。
生きる為にあらゆる物事を学んできた”オールマイティー”たるウィルであれば、畑違いも甚だしい商売の道であろうと、必ずや貪欲に学び、学んだ事を生かしていくだろう。
それが叶わなければ、本当に道は閉ざされる。ならば乞い、吸収し、活かす。
血臭に塗れた名高き何でも屋から、平穏な市井の商売人へと。
「なんだあ、坊主はずいぶん遠慮がねえなあ」
「じゃあ何でも聞けって言うなよ。
礼はする。あんまり多くは払えねえが」
「嘘だ嘘だ、嘘だよ。んな事しねえでもちゃーんと教えてやる。
そうだな、お前はまず爽やかで清々しい笑顔の練習からだな。いらっしゃいませぇ、ってな!」
シャムローは、ウィルの意図を完璧に理解した。
だが、その裏に潜むものにまでは、さしものこの男も届かなかった。
新人の頃から見知った相手がどん詰まりに嵌まりながらも、生きる事を放棄せずに新しい道へと漕ぎ出そうとしているのを喜び、祝福している。仲間意識など仕事ひとつで紙切れのように消し飛ぶ世界で、そこにあったのは確かに友情と呼べるものだった。老境に差し掛かった戦士の屈託ない笑顔に浮かんでくる諸々の感情を、ウィルは一分の隙も無く押さえ込んだ。
「よおし、こいつは俺のおごりだ!」
酒と肴の真上を、ざっと手を横切らせたシャムローに、ウィルはぎょっとした顔になった。
「坊主の新たなる門出を祝して!」
「おい、どういう風の吹き回しだ。門出を前に不吉な予感しかしねえぞ」
「失礼なガキめ、俺がおごるなんて滅多にないんだぜ」
「……滅多にならあるのか……」
「イヤ、ちょっと待て。――うん、無かった」
「………………」
「まあ細かい事は気にするな。うん、記念すべき初のおごりってやつだ」
「あんたの記念日になってどうするんだよ。
つーかホントにおごってくれんのか?」
「おう」
「本当に?」
「本当だとも、信じろ信じろ。
他人を信じた瞬間に殺される場所だろうと、信じて良い事もある。今夜は奇跡の起こった夜だ!」
「たかが酒2杯とつまみでそこまで偉そうにされてもな……ならもっといい酒を頼んどくんだった」
「特別に追加も認めよう。一杯だけなら」
あたかも慈悲深き神父であるかのように、鷹揚にシャムローが頷く。
なるほど、これは確かに奇跡なのかもしれない。
ウィルは少し考えてから、そいつをくれ、とシャムローの赤い酒を指さした。
おお、という反応がある。話に集中していた為か、シャムローにしては珍しくまだ底に酒が残っていた。
先程の2杯よりは作る時間をかけて、貴重な一杯が目の前に置かれる。長いグラスと、真っ赤な中身と、何の意味があるのか理解不能な、端に突き刺さったオレンジ。いつもシャムローが頼んでいるのを出会ってからずっと見続けてきたが、自分で頼むのは初めてだった。
そのやたらと派手な酒を、ウィルはすぐには飲まずに、やや首を傾げてグラスを一回転させた。
「これ、どんな味なんだ?」
「良くぞ聞いてくれた。そいつはな、一番甘い酒だ」
「そうか、そりゃ丁度良かった」
思わぬ偶然の一致に、ウィルは愉快な気分になった。
これで一番安い酒と一番高い酒と、そして一番甘い酒が揃った訳だ。
満ち足りた心地で、ウィルは赤い酒を啜る。
説明通り、甘ったるかった。
「こちらもどうぞ」
が、続く出来事はどちらにとっても予想外だった。
ウィルの前に、また新しい酒が置かれたのである。
飾り気のない寸詰まりで口の広いグラスに、八部目まで注がれた、むらのない澄み切った青色をした酒。
無論、注文はしていない。
ウィルとシャムローが、揃って僅かに見開いた目を、カウンターの老人へと向けた。
「ラージ・ブルー。
常連の方がここを去る日にお出ししている、特製の酒です。
お代は頂きませんので、どうぞ」
あまつさえ老人が語り始めたので、ウィルもシャムローも呆気に取られた。
内容もさる事ながら、むしろ雑談を始めたという事実の方に驚かされている。
「……そんな風習があったなんて知らなかったなあ」
「オレも」
「ご存知の方はほとんどいないでしょう。
大抵は、去ったと聞いた日の閉店後に一人で手向けておりますから」
「……あんたが? そんな事を?」
「生きてここを去れる方は少なく、去ると宣言して消える方も少ないです。
ですからこうしてお出しできる事は、本当に稀も稀なのですよ。知ったからといって、それを好んで他の方に話すような方も、また少ないですから」
「俺もずうっとここに通ってるが、爺さんそんな事をしそうなタマにゃあ見えなかったが……」
「…………………………」
「……やあ、人ってのはつくづく分からねえもんだ。ハハ」
言うだけ言うやまた老人は無言に戻ってしまったので、誤魔化すように短くシャムローは笑った。
ともあれそのシンプルな一杯を、ウィルは慎重な手付きで手前に引き寄せる。
一番安い酒と、一番高い酒と、一番甘い酒と。
そして、一番貴重な酒が並んだ。
「豪華になったな」
「ようし、こりゃ潰れるまで飲むしかねえな!」
「潰れる気はねえよ。つか四杯如きで潰れるかよ」
「ハッハッハ、強がるな。いつもは一杯しか飲まねえくせによ」
「あれは仕事があるからだ、弱いからじゃないっての」
金銭や仕事、様々な問題で披露する機会はまず無かったが、ウィルは酒には強い。
どうだかと馬鹿にしたような目付きになるシャムローの挑発に乗り、まずは残っていた安酒を一息に飲み干した。投げやりな喝采で、隣から囃し立てられる。
体が熱くなる。対して思考は冷えを保ったまま、どうだとばかりにウィルは笑いかけた。
煙草があれば申し分ないところだが、生憎と持ち合わせがなかった。
と、背後からいかにも軽い気配が飛んでくる。ウィルは反射的に、左手で空中のそれを掴み取った。
煙草だ。ウィルは視線を左から右に走らせたが、応じる者はいない。懐を探る仕草を目に留めた誰かが、投げてよこしたらしい。やたらと奇跡の起こる夜だ。
シャムローが、氷が溶けて幾らか色の薄くなった赤い酒を掲げる。
ウィルもまたグラスを持ち上げた。迷った末に選んだのは、彼と同じ真っ赤な色をした酒である。
乾杯、新たなる門出に。
乾杯、敬うべき新たなる師に。
重いグラスと軽いグラスがぶつかり、キンと高い音を立てた。
すまないな、オッサン。
決して口にする訳にはいかない言葉で、ウィルは静かに隣の男に詫びた。




