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君のいる世界  作者: 田鰻
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オールマイティ - 8

ここでいう命は、全てを金で買う事ができる。

だが、ここにある夢は、金では買えないものばかりだ。






彼がぎこちなく酒場の扉を潜ると、随分大昔に訪れたきりのような気がする店内に、前回と似て非なる沈黙が落ちた。すうっと引いていく声と、それに反して集中する視線は等しくとも、前より引きは迅速で、静寂は深く、持続は遥かに長い。

好奇か侮蔑か哀悼か、永遠に戻らぬのではという静けさの中を、ウィルはカウンターまで歩いていった。

途中、引き摺った足が、椅子の足を引っ掛ける。


「悪いな」


彼はそう詫びる。声による返答はなかった。

いや、という呟きを聞いたようでもあったが、どのみち曖昧に頷く動作に紛れてしまう小さなものだ。

多少覚悟していた、露骨な嘲りや冷やかしが飛んでくる事は無かった。柄は悪くともいつか己に降りかかりかねない災難に関しては繊細な連中だが、中にはそうした事態を想定するには経験の足りない未熟者や、全く気にしない無軌道な奴もいるから。


カウンターには、見慣れた、分厚く盛り上がった背中の男が座っていた。

彼の接近には気付いているだろうに、振り返ろうとしない。

その隣を選んで、ウィルは腰を下ろした。

さて、とカウンターに体重を預けようとしたところで、がくりとウィルの体が右に傾く。そういえば、もうその辺りは無いのだった。気の緩んだ拍子に出る癖というのは、すぐには抜けない。が、続けてメニューに右手を伸ばそうとまでしてしまったのには、苦笑するしかなかった。

注意せねばと思った矢先にこれだ。だから、もうその部位は無いというのに。

承知しての決断だったとはいえ、利き腕を失うというのは法外に不便なものだなと実感する。


「ご主人様には?」

「門前払いされたよ」


ここまでの空気扱いしてきた態度が嘘のように気安く声をかけられ、ウィルも当たり前にそれに応じた。おどけた顔で肩を竦める。右腕は三分の一しか残っていなかったが。


「途中の村で応急処置とさして変わらん治療されて、やっとこ此処に戻れてまともな治療受けれたと思ったら、無理が祟って高熱出してそのまま昇天するとこだった。あの田舎藪医者が。

治り切らないままそれでも報告だけでもと向かったら、ゴミ漁りに来た野良犬扱いさ。こっちの状態は伝えておいてくれるとさ。ありがたい話さね」

「その後、連絡は」

「ない。滞在先は伝えておいたが、使いも頼りもナシのつぶてだ。

見切りをつけられたって事だろう」

「そいつは間違ってるぞぉ、うん。

見切りだったら、お前さんが出発した時点でつけられてる」

「こいつは一本取られましたね、っと……」

「……ま、殺し屋が寄越されなかっただけマシだな」

「来た奴いるのか?」

「俺の知る限りじゃあ、いないな。だって殺し屋にも金がかかるしな。

見切られた奴なんざ、ほっといても勝手に野垂れ死ぬ」

「後で報告書だけは届けるつもりなんだがな」

「なんて報告する気なんだ」

「以上このような事がありました、他の人間を探すなら幾つかツテがあります」

「俺ならお前以外の奴に頼む」

「オレでもそうする」


救いのない会話が続いた。

それでいて事実でしかないのが、また一層救えない。

絶望的な状況は酒の席で話すような話題ではなく、また酒の席でしか到底語れないような話題でもある。


「ご注文は」


カウンター向こうの老人から問われて、ウィルは少し驚いた。

暫く注文を忘れて語り合っていたとしても、これまで急かされた事は無かったからだ。急かされるというより、これは単に尋ねられたのであろうが、それですら珍しい。寡黙な老人が自ら客に注文を取る場面を、彼は見た試しがない。いつでも無言で控えていて、一切注文せずに席を立ったとしても口を開かない。そんな印象の男なのである。


「ああ悪い、忘れてた。

あんたがわざわざ聞いてくるなんて珍しいな」

「………………」


老人は、また黙ってグラスを拭き始めた。

話の取っ掛かりをいきなり失い、ウィルはやや気まずげにしながら注文を考える。

向こうから掛けてきたはしごを初手で外すのはあんまりではないのかと思うも、そこを突いたところで無言を貫かれるのは判り切っている。


「そうだな……んー……何にするかな。

この上ないってボロ負けじゃあ一番安いのに……いや、それとも一番高いのに……」


独り言を漏らしながら、結局、ウィルは一番安い酒と一番高い酒を両方とも頼んだ。そうきたか、とシャムローが感心したように呟く。おそらく全く感心などしていないのだろうが、こういう注文の仕方はウィルとしても初めてだった為、どことなく得意気な笑みが浮かぶ。

安い方はともかく、最も高い酒は一度も飲んだ事がなかった。高いといってもたかが知れているのだが、彼は酒の質よりも装備への投資を優先していた。酔えれば何でも同じ、そんな身も蓋もない言葉を盾にして、彼よりずっと稼ぎが少ない同業者でも手出しできる酒にさえ手を出さずに、学んでは蓄えてきた。

しかしそれも終わったのだ。区切りの日をいちいち気にかけるような性格ではないが、今日くらいはという思いは決して不自然なものではあるまい。酒場に居合わせた、誰の目にとっても。

そしてこれもまた当然誰もが思うであろう事を、ウィルはシャムローに聞いた。


「節約した方がいいって思ってるかい」

「賢明な奴ならそうするだろうな。唯一の稼ぎ口を無くしちまったんだ、記念だの景気付けだのやってる場合じゃねえよ」


それに対して、シャムローはただ現実を言葉に変えて示してくる。

飾りはしない、誤魔化しもしない、甘えさせもしない。

だからこの年上の男は信用が置けるし、この年齢まで生き残る事ができた。


「お前は体も死に、名前も死に、あるかなしかの名誉も死んじまった。

ここじゃ、死体にくれてやる仕事は無い。いつだって取り合いの奪い合い。

お前にゃもう、そこに上がってくる資格はねえんだよ」

「舞台の下で掃除でもしてろってか?」

「掃除がさせてもらえりゃ御の字さ」

「どいつもこいつも冷てえな、これまで散々オレの力を当てにしといて」

「それ、そいつらに言ってみろ。鼻で笑われて終わりだから。

仕事を頼む側は、別段お前さんである必要なんて無かったんだ。解決すれば誰だって良かった。終わるまでに死人が何人出るかの違いでしかねえよ。お前の名前は見てても、お前って人間なんぞ誰も見ちゃいやしない」

「――ふん。

なら心機一転、どっか他の場所でやり直すかね」

「その体でか? どこの誰が雇うんだよ。

満足にメニューも取れない体で、またイチから悠長に下積みしてくのか?

毎日のパンが買えるようになる前にジジイになっちまうぞ。ああ多分その前にくたばるな」

「…………」


カウンターに置かれた酒から安い方を選んで、ウィルは口を付けた。


「馬鹿だなあ。

さっさと逃げてりゃあ、少なくとも体だけは無事で済んだろうに」

「それで、どうなる。今日まで積み上げてきたもん全部壊して、また死体の穴掘りから再出発か。この地獄の中で積み上げてきたもんを、やっとここまできたもんをきっぱり捨てろと」

「他に手はなかった」

「あんたには出来たか?」

「さあ、わかんねえ」


ウィルの不手際を追求するだけ追求しながら、いざ自分の事を問われるとシャムローは結論を避けた。

本当に判らなかったからであり、いざそうなれば、馬鹿と称したウィルと同じ道を辿る予感があったからでもある。最底辺から這い上がって尚、ここは掃き溜めでしかない。それでも汚物に両足を突っ込んでいるよりは、幾らか自分が人間であるという実感を得られる。その地位を躊躇なく捨てる事ができる者は多くないだろう。

否、あるいは一人も存在しなくとも不思議はない。皆が皆それだけの辛酸を嘗めてきており、またあの日々を味わうくらいならいっそ一思いに散った方が良いという思考は、決しておかしなものではないのだ。

だから誰も、ウィルを笑いはしない。

だから誰も、ウィルを責めはしない。

だから誰もが、その選択に納得をしている。

たとえしくじった果てに命を含む全てを失くそうと、再びやり直すよりは救いがある世界に生きてきた者達だから。


「何か、つまめるようなもの適当に盛ってくれ」

「おっ、まだいくか」


酒に続き肴を頼んだウィルに、シャムローが嬉々として両手を揉み合わせた。

つい今しがたまでの責める態度など何処吹く風で、横から掻っ攫っていく気満々である。どのような状況でも図々しさを崩さない男に苦笑しつつ、ウィルは止めようとは考えなかった。利き腕を失い、片足をやられ、名声を剥奪された今の状態は、ウィルにとってもまったく初めての経験だった。計画を気取られぬ為に普段と同じ様子を装う必要のない、まったくの新境地だ。だったら、今の心情のままに振舞って差支えはないだろう。それがそのまま、嘘のない自然な行動となってくれる。

実に、気楽なものだ。

3種類のチーズに、薄切りのパンが添えられて出てきた。

左手でナイフを取り、最も柔らかそうなチーズを掬い、パンに塗り付けてからナイフを置き、改めて左手で取る。両手があれば一動作で完了できたものが、いやに煩雑になっている。腕二本が腕一本になった、されど、動作の増加は単純に二倍で済むとは限らない。いろいろ考えていく必要があるなと物思いに沈みながら、ひとまず二口サイズのパンを噛んだ。


「ん、うまいな」


感想が口をついて出る。

シャムローはといえば、ウィルの許可を得るまでもなく、さっさと横から皿に手を伸ばしていた。オレンジ色の硬そうなチーズだけを食べ、そこへ相変わらず例の赤い酒を流し込んでいる。他人の注文だからと遠慮する様子など微塵も見られず、一枚を食べ終えては、当然のように次の一枚へ手を伸ばす。

一言ぐらい言っておくべきかと思うが、やはりどうでもいいような気もしてくる。元からペースが早い方ではないのだ、全部食い尽くされなければそれでいい。

思えば最初から最後まで、この男とはこんな付き合い方だった。


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